74話 偽りの加護
ネアは喉がひりつくのを感じながら、わずかに目を伏せた。
何を言えばいいのか、何を言ってはいけないのか。
それがわからない。
「いろいろな力が欲しい……でも、それは無理ですよね?」
「ええ。与えられるのは一つだけ。きりがないから」
「それなら、強くなりたいです」
「強く、ね」
フードをした女性は唇の端を上げ、軽く首をかしげた。
「いいわ。強さにもいろいろあるけれど……そうね、全体的に少し強くなる方向でいきましょうか」
「え?」
「力とは、心と肉体と魂の結びつき。その調和を少し整えるだけでも、人は変われる。個人差はあるけれど」
その言葉とともに、女性はゆっくりと立ち上がった。
部屋の奥へと進み、黒い帳を払う。
その向こうに広がるのは、ろうそくの灯りが揺らめく小さな祭壇。
床には幾重にも円が描かれ、その中心には銀の杯が置かれていた。
「儀式の間よ。恐れることはないわ」
ネアは息を整え、足を踏み入れる。
空気がわずかに冷たい。
背中に感じる湿った圧力は、まるで何かがじっと見ているようだった。
「そこに立って。魔法陣の、中央にね」
「はい……」
指定された場所に立つと詠唱が始まる。
意味のわからない音が、低く、流れるように響いた。
空気が震え、光が淡く揺れる。
ネアの周囲を、黒い粒子のようなものが舞い始めた。
それはゆっくりと肌へ吸い込まれていこうとしていき──その時、声がした。
『……嫌な感じね』
レセルの声が、どこか刺すように響いた。
ネアは驚きからわずかに目を見開く。
『下らない真似を。あんな穢れた力、あなたに触れさせないし、入れさせない』
次の瞬間、黒い粒子が一斉に弾けた。
空気が歪み、光が白と黒に二分される。
魔法陣の中央に立つネアの体から、淡い白光が立ちのぼった。
女性は息を呑む。
だが、それが拒絶ではなく成功だと思ったらしい。
「……あら、すごい。あなたは選ばれたのよ」
彼女は恍惚とした笑みを浮かべる。
「これであなたも、魔神に祝福された者の一人。おめでとう、ネア・ブランシュ」
ネアの手の甲には、黒とも白ともつかぬ刻印が残っていた。
剣の形を思わせる細い紋が、静かに光っている。
(……これが、魔神の加護?)
だが胸の奥から、もう一つの声が響いた。
『いいえ。これはわたしたちの絆。あなたを汚されるくらいなら、わたしがあなたの中へ入って汚す』
その声は、どこか優しく、しかし異様な熱を帯びていた。
(レセル……何を……?)
問いかけようとしたが、唇は動かない。
代わりに、胸の奥に温かい感覚が広がる。
同時に、背筋を這うような薄い寒気も。
それは、誰のものでもない力が、確かにネアの内に入り込んだ証だった。
「ふふ……いい顔。あなた、きっとすぐに上へ行けるわ」
女性は満足げに言い、儀式の灯りを消す。
残された闇の中で、ネアは手の甲を見つめた。
刻印はかすかに光り、まるで脈打つように動いている。
その脈動に呼応するように、レセルはささやいた。
『もう大丈夫。だって、あなたはわたしのものだから。わたし以外にものになってはいけない。そうでしょう?』
ネアはそれを聞いて静かに目を閉じた。
闇は深く、しかしその奥に、確かに一筋の白が揺らめいていた。
儀式が終わった部屋には柔らかな暗闇が戻った。
冷たい石の床に、黒い円の跡だけが残っている。
「お疲れさま。初めての儀式はどうだった?」
声の主である黒衣の女性が微笑んだ。
その瞳には、儀式の熱がまだ残っている。
ネアは慎重に息を整え、静かに答えた。
「……不思議な感じでした。体の奥が少し温かくて」
「少しずつ、あなたの中に力が馴染んでいくわ」
女性はゆっくりと近づき、ネアの手の甲を取った。
黒と白が混じった刻印を見つめ、うっとりとした笑みを浮かべる。
「綺麗ね……。まるで、あなたの心そのものみたい」
「褒めてくれるのは嬉しいですけど……そろそろあなたの名前を聞いてもいいですか?」
ネアが尋ねると、相手はわずかに眉を上げた。
「名前? ふふ……もう名前なんて持たないの。でも、呼ぶときに困るなら、そうね、ジェーンとでも呼んでちょうだい。ナナシでもいいけれど」
「ジェーンさん……ですね」
「さん付けは不要よ。まあ好きにしたらいい」
彼女は冗談めかして肩をすくめたあと、ふと声の調子を変えた。
「ところで……あなた、女神教の司教であるリュミナのことは知っているでしょう? あの時、あの場にいたのだから」
「ええと、はい」
狩猟祭の最終局面、リュミナを欲しがるミリアと戦った時。そしてそのあと、フードの女性を切りつけた時でもある。
「なら話が早い。彼女をこちらに引き入れる計画が進んでいるの。言葉で、あるいは、少し強引な方法で。あなたも参加しない?」
ネアは一瞬だけ目を閉じ、胸の奥に響く声を聞いた。
『図太く行きなさい。下手に断るより、堂々とわがままを通した方が、あなたらしいわ』
レセルの助言を受けて、ネアは小さく息を吸い、穏やかに答えた。
「申し訳ありません。私は、女神教との繋がりを保ちたいんです。王国の庇護をも維持したまま……そして、魔神教とも関わりたい」
ジェーンは面白そうに笑い声を漏らす。
「ふふっ……とても欲張りで、わがままね」
その言葉に、ネアは小さく笑う。
「……今思えば、儀式のときにわがままを押し通す力が欲しいって言えばよかった」
するとレセルの声が聞こえてくる。
『……わたしじゃ不満?』
ネアが内心で慌てると、ジェーンがくすくすと笑った。
「図々しくて、いい欲望ね。本気でこの教団に居続けるなら、幹部──いえ、それ以上に行けるかもしれない」
その声には、試すような響きと、わずかな好奇心が混じっていた。
ジェーンはゆっくりと立ち上がり、裾を翻す。
「今日はここまでにしましょう。あなたのこと、もっと知りたいわ。また明日、お話をしましょうね」
闇に溶けるように背を向けたジェーンの姿が消えると、ネアはようやく小さく息を吐いた。
レセルがささやく。
『あの女、嫌いだわ』
「直球だね」
刻印は、まだかすかに光っていた。
その熱が、心臓の鼓動と一緒にわずかに脈打っている。
ネアはそれを押さえ、静かに撫でた。




