73話 魔神教の末端に潜り込む
ナランの執務室は、窓から入ってくる光でだいぶ明るい、というより眩しいほど。
すぐにカーテンで光が遮られる。
窓際の書類の山の上には、整えられた一枚の報告書。
ネアはそれに視線を落としながら、深く息をついた。
「さて、潜入の目的を決める必要がありますね」
ナランの言葉は淡々としている。
「魔神教に入る者の理由はさまざま。力を求める者、金を求める者、復讐のため……あるいは、単に退屈しのぎという者もいます」
「……退屈しのぎ、ですか」
「ええ。彼らにとって信仰はあとからついてくるもの。最初はほとんど、取引や欲望の延長ですよ。百人入ってきて、数人ほど信仰に目覚めれば御の字といったところでしょうか」
ナランは椅子の背に体を預けながら、机の上に紙を一枚滑らせた。
「入信書の形式です。建前として、目的を記入する必要があるんです」
ネアはそれを受け取り、しばらく考え込む。
「……力を得て、お金を稼ぎたい。目的はこれで」
「ふむ。無難ですね。野心的で、ありふれている」
ナランは満足げに頷いた。
「組織の上層に近づくわけでもなければ、比較的自由に出入りできます。ただし、出たり入ったりを繰り返す者は、次第に排除されますが」
「……冷やかしは嫌われる、ということですね」
「その通りです。魔神教は信仰を強制しませんが、軽んじる者は好まない。けれど、あなたほどの実力者なら歓迎されますよ。狩猟祭の優勝者ネア。その名前は、王都でもまだ記憶に新しい」
ネアは眉をひそめた。
「……それが、少し心配なんです」
「心配?」
「この街は王都から遠い。ワイバーンで何時間も飛ばないと来られない距離です。でも、もし私が魔神教に入ったことが広まったら……狩猟祭のときに接触してきた、ある魔神教の女性にも伝わると思うんです」
ナランの目が、わずかに細くなる。
「……接触があったと?」
ネアは頷き、あの時の光景を思い出す。
「狩猟祭の夜に、魔神教の信徒が現れました。彼女はリュミナさん──女神教の司教を排除すること、それと、魔剣使いである私を確保することを口にしていました」
ナランはしばし沈黙し、指先で机を軽く叩いた。
「……なるほど。つまり、あなたはすでに目をつけられているわけですね」
「たぶん」
ナランは考えるように顎へ手を当て、やがて口を開いた。
「それなら、むしろ好都合かもしれません」
「え?」
「あなたが力を得たいという理由で近づけば、向こうは喜んで迎え入れるはずです。多少の疑念があろうとも。上手くすれば、その者に再び接触でき、さらにはそこでしか聞けない情報も得られるかもしれません」
「……危険じゃありませんか?」
「もちろん、危険です」
ナランは微笑みながら、冷たく言った。
「でも、それが潜入というものですよ」
ネアはその笑みを見つめ、心の奥にわずかな寒気を感じた。
◇◇◇
朝と昼の合間。
街に人通りが戻り始める頃、ネアは簡易的な地図を片手に歩いていた。
ナランから渡された地図には、わずかに印がついている。
古い倉庫跡の扉の前で、名前を聞かれたら力を求めていると答えなさい。
書かれている文字はそれだけ。
(……地図がざっくりすぎる)
石畳の路地を曲がるたび、少しずつ不安が増していく。
けれど、最後に辿り着いた古びた建物は、想像していたような怪しい宗教施設ではなかった。
それはただの倉庫。
その扉の前には、椅子に腰かけた男性が一人だけ。
寝癖のついた髪。半分閉じた目。
手にしている書類を団扇代わりにして、風を送っている。
「……あの、ここに来れば魔神教に入れるって聞いたんですけど」
男性は片目を開け、気の抜けた声で言った。
「やれやれ……最近多いんだよな。楽して力を得ても、結局は振り回されるだけだぞ? お偉いさんはそれを求めてるが」
「え、ええと……」
「奥だ」
それだけ言い残して、彼は書類で顔をあおぎ始めた。
(……本当にここで合ってるの?)
不安を抱えたまま、ネアは中へ進む。
奥の部屋には、数人の男女がいた。
粗末な机を囲み、何かの書類を読み上げている。
服装はばらばら。作業服の者もいれば、旅人風の者もいる。
宗教的な雰囲気など微塵もなかった。
「あー、新入りさん?」
声をかけてきたのは、髪を無造作にまとめた若い女性だった。
「適当にそこらの仕事をやってれば、そのうち“偉い人”が来て力をくれるから。頑張ってね」
「……あの、それだけですか?」
「うん。それだけ」
なげやりに言い残すと、女性は再び書類に視線を戻した。
周囲の誰も気に留めない。
「……雑すぎる」
思わず呟くと、腰の鞘からレセルの声が響いた。
『末端だから、こんなものかしらね? 宗教というより、ここはただの作業所みたい』
「ほんとそれ」
ネアは苦笑しながら机の上の紙束を手に取る。
書かれていたのは、荷物運び、薬草集め、魔物の素材収集──。
どれも普通の依頼書のような内容だった。
中には“夜に特定の荷を運搬”や“倉庫整理(報酬は成果次第)”など、露骨に怪しいものも混ざっている。
「……これって」
『おそらくは、密輸や盗み。新入りに任せたら口を割られそうということで、すぐ回収しに来ると思うわ』
案の定、怪しげな仕事が書かれた紙は隣の男性に回収された。
「おっとっと、それは新入りには早いな。はい、これ薬草採取ね。こっちのが安全だよ」
すぐさま代わりとなる紙が渡される。
(安全……? 怪しい仕事とかがある中の安全って、どこまで信用できるんだろ)
ネアは半ば呆れながらも、仕事用の書類を受け取った。
レセルがくすくす笑う。
『なんだか、地味な潜入の始まりね』
「うん」
『ま、こういう地味なのが意外と怖かったりするけれど』
「不安になってきた……」
そう言ってネアは、机の上の書類をもう一度見つめた。
魔神教。
その名の裏にあるのは、想像していた闇ではなく、泥と埃の匂いのする現実。
(それでも、この中に何かが潜んでいる)
そう感じるネアだった。
それから二日。
しばらく何事もない顔で、与えられた仕事を淡々とこなしていく。
魔物の素材を運び、書類を整理し、雑務を黙々と続ける。
特別なことは何も起きない。
ただ、組織の末端として地味な日々が過ぎていく。
夜、宿舎に戻るとユニスが待っていた。
ランプの明かりの下で、彼女は小さな紙片をネアに差し出す。
「あなたが魔神教で動いてる間に、宰相閣下からの返事をもらってきた。秘密裏にね」
「……ありがとう」
破かないよう慎重に開くと、短い文だけが書かれていた。
《今のところは、君の判断に任せる》
ネアはしばらくその文字を見つめた。
宰相は、すべてを承知の上で自分を泳がせている。
嬉しいようで、怖くもある。
「……了解しました。報告はまた、って返事をお願い」
「わかった。気をつけて」
ユニスはそう言うと部屋を出た。
夜更けに作業所へ戻ると、中はいくらか慌ただしい。
「おい、新入り! お偉いさんが来てるぞ!」
突然呼び止められ、ネアは目を瞬かせた。
部屋の空気がいつもと違う。
誰もが背筋を伸ばし、無言で道を開けている。
現れたのは、黒衣の女性だった。
艶やかな黒い髪、白い肌。
忘れようにも忘れられない。
狩猟祭の夜に出会った、あの魔神教の女性。
「……あなたは」
「久しぶりね、優勝者さん」
女性は微笑んだ。
フードを下ろしているので口元ぐらいしか見えない。
「どんな心変わりがあったのかしら? あの時は、あれほど拒んでいたのに」
「……事情が、変わっただけです」
ネアは淡々と返す。
「ふふ。理由なんてどうでもいいわ」
女性が指先を軽く動かすと、空気がわずかに震えた。
周囲の信徒たちは一斉に頭を下げる。
「大事なのはあなたが入ってくれたこと。そして、どんな“力”を望むのか」
ネアの胸に、ざらりとした緊張が走る。
女性はゆっくりと笑みを深め、
まるで試すように、柔らかな声で言った。
「さあ、教えて。あなたが欲しいのは、どんな力?」
その問いは、闇よりも甘く、そしてどこまでも危険な響きを持っていた。




