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72話 潜入任務への誘い

 甘味屋を出たあと、ナランは人通りの少ない裏通りを歩いた。

 昼下がりの陽射しの中で、彼女の銀灰色の耳や尻尾が光を反射する。

 ネアは並んで歩きながら、どこへ向かうのかを尋ねる間もなく、ナランがとある扉の前で立ち止まった。


 「こちらです。少し静かな場所で、見せたいものがあります」


 案内された建物は、見た目こそ倉庫だが、内部は冷たい石壁と鉄の扉が並んでいた。

 騎士団の紋章が刻まれ、警備の兵もいる。

 けれど、彼らの目は妙に冷たく、口を閉ざしていた。

 ナランが合図をすると、鉄の扉が重く開く。

 中にいたのは──死んだはずの密輸商人たちだった。

 彼らは鎖で繋がれ、床に座り込んでいる。

 顔や腕には殴られた跡。

 衣服は汚れ、軽く血を流しており、息をするたびにうめき声が漏れた。


 「……っ」


 ネアは思わず声を呑む。


 「殺したと思いましたか?」


 ナランは振り向き、微笑んだ。


 「さすがにしませんよ。あの時は“死んだ”と報告しただけ。少し、誤解させてしまったようですね」


 柔らかな笑み。

 だがその笑顔の奥には、金属のような冷たさがあった。


 「勘違いしてしまいましたか? ふふ……」


 ネアは唇を噛みしめた。

 どこまでが芝居で、どこまでが真実なのか、まるで霧の中だ。


 「彼らを痛めつけたのは、魔神教に対して報告の仕方を改めさせるのと、忠告を含めて……ですね。向こうにあまり下手な演技をされると、こちらが怪しまれますから。それで部外者に知られたら大変ですし」


 そう言いながら、ナランは一人の男性の前に屈むと、冷たい声でささやいた。


 「ねえ、あなたたち。次はもう少し上手く“死んで”くださいね」


 男性たちは何も言わなかった。

 恐怖と屈辱で、声すら出せないのだ。

 ナランは立ち上がり、ネアに向き直る。


 「では、別室へどうぞ。話の続きをしましょう」


 部屋を移ると、今度は豪奢な応接室だった。

 外の喧騒が一切届かない。

 テーブルの上には既に茶が置かれており、ナランは椅子に座って、穏やかに微笑んだ。


 「さて、ネアさん」

 「……はい」

 「どうです? 魔神教に入ってみませんか?」

 「えっ?」


 一瞬、時間が止まったように感じた。

 それは思いもよらぬ提案。


 「より正確には、潜入という意味ですけれどね。あなたのような人物なら、彼らの中に入って情報を引き出せる。宰相直属の立場だからこそ、こういう任務を任せられる価値があると思いません?」


 ネアは言葉を失う。

 喉がひどく乾く。

 考える余裕すら奪われるほどの唐突さだった。

 その沈黙を、ナランは楽しむように眺めていた。


 「驚かせてしまいましたね。でも、この街を守るには、綺麗ごとだけでは足りません。あなたにも、それがわかる日が来ると思います」


 ネアの腰にある鞘から、レセルの声が静かに響いた。


 『やれやれ……とんでもない騎士様ねえ。国境の街だからこそ? それとも単なる野心?』


 その声は使い手たるネア以外には届かない。

 何も聞こえないナランは、ゆっくりと紅茶を口に運んだ。


 「一晩、考えさせてください」


 ネアの言葉に、ナランは微笑みを崩さなかった。


 「もちろん。焦らずに決めてください。あなたがどちらを選んでも、私はそれを尊重します。中途半端な気持ちで決めて、あとでいろいろバレる方が困りますから」


 そう言って紅茶を飲み干すと、まるで全てを見通しているかのような笑みを浮かべた。

 ネアは軽く一礼すると、応接室をあとにする。

 用意された宿舎の一室に戻ると、ユニスとリュナがすでに待っていた。

 机の上には開かれた書簡と、数枚の地図。

 どうやら二人も、何か察していたようだった。

 そしてネアは、魔神教への潜入を提案されたことを語る


 「……潜入?」


 ユニスのどこか胡散臭そうに感じている声が響く。


 「会ったばかりの相手に提案するとか、あのナラン・リェルという騎士は、正気じゃないとしか思えない」

 「そう言うと思った」


 ネアは苦笑して、椅子に腰を下ろす。

 この中で年長者なリュナは腕を組み、あからさまにため息をついた。


 「いやあ……それ、さすがに危ない橋を渡りすぎでしょ。あのナランって人、言葉は丁寧でも、やってることが完全に裏社会のそれ」

 「でも、この機会は放っておけない気がして」


 ネアは視線を伏せる。

 ユニスは椅子の背に指を添え、静かに言った。険しい表情のまま頭を振るせいで、彼女の金色をした長い髪が揺れる


 「……私は支援まではできても、同行は無理。なにせオルヴィク家の当主になってから、まだ日が浅いから。この立場で魔神教に潜るなんて、愚か者のすること。令嬢であった頃から女神教との繋がりは強化してるけど、まだ薄い。だから、動くと両方から睨まれる」


 その言葉は冷静で、けれど少しだけ寂しげでもあった。


 「貴族社会において評判は命綱。私みたいに親が亡くなり若くして当主になった者には特に。まあ、せめて外からの後援くらいはする」


 リュナも頷いた。


 「私も、潜入は無理かな。魔剣使いの私は、どうしてもバゼム様の部下扱いになる。いやまあ、部下なんだけどね。下手に動いたら、貴族間の政治の火種になるだけ。でも……ネアが行くなら、悪くはないかも」

 「え?」

 「ちょっと考えてみなよ。宰相直属の部隊の隊長で、狩猟祭の優勝者。真意を隠して潜れば、相手も本音を出しやすい。やるなら、ネアくらいしかできないよ」


 ネアは二人の顔を順に見た。

 どちらも真剣で、止めようとしながらも否定はしていない。


 「……やっぱり、やった方がいいのかな」

 「危険だけど、意味はあると思う」


 ユニスが短く答える。

 その銀色の瞳は、揺らいだりしない。


 「ただし、命綱を絶対に忘れないこと」

 「命綱?」

 「ナランを信じすぎないこと。ああいう提案をしてくる時点でね……」

 「うん」


 その忠告に、ネアは真剣な表情で頷いた。

 やがて夜が更け、二人が部屋を出たあと。

 残ったのはネアとレセルだけ。

 静かな灯りの下で、剣が柔らかく光る。


 『悩んでる?』

 「……少し」

 『ま、あんな提案、普通は断るものだしね。魔神を信奉する宗教組織への潜入とか。でも、あなたは行くつもりなんでしょ?』


 ネアは小さく息をついた。


 「……うん。見なきゃいけない気がする。この国の中で何が起きてるのか、魔神教がどういうところか。自分の目で」


 レセルの声が軽やかに笑う。


 『いいじゃない。ちょっと壮大な社会勉強ってことで。潜入して、いざとなれば抜ければいいのよ』

 「いや、それはさすがに軽すぎるんじゃないの……」


 ネアは思わず笑い、肩の力を抜いた。

 いざとなれば、レセルに頼ればどうとでもなる。それに、自分も強くなった。

 初めて出会ったあの時、吸血鬼という厄介な相手を軽く返り討ちにしたレセルの実力は、剣でも人でも心強い。


 『止める気はないんでしょ?』

 「うん。……もう、決めた」


 ネアは腰の剣に手を添え、静かに立ち上がった。

 窓の外では、遠くの夜空に星明かりがきらめく。


 ◇◇◇


 翌朝。

 再びナランの執務室を訪れたネアは、まっすぐに言う。


 「潜入を、引き受けます」


 ナランは一瞬だけ目を細め、それから微笑んだ。


 「そう。……賢明な判断です。ようこそ、境界の裏側へ」


 その笑みの奥に、何を隠しているのか。

 ネアは考えるのをやめた。

 こうして、ブランシュ隊の隊長であるネアの

潜入任務が始まった。

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