70話 裏の繋がり
夜の冷気が宿舎の石壁に染み込んでいた。
外からは、風に揺れる旗の音がかすかに聞こえる。
ネアは部屋の灯りを落とし、代わりに小さなランタンをつける。
橙の光が四人の顔を淡く照らす。
「それで、ネアが見たのは本当にあの印だった、と」
ユニスの声が低く響く。
「うん。間違いない。黒い布に刻まれてた。魔神教の信徒が、儀式で使ってた魔法陣と同じ形」
リュナが腕を組み、苦い顔をする。
「穏やかじゃないね。国境の街で魔神教の印付きの荷物って、冗談にもほどがある」
「目的は不明。でも、何かを運び出そうとしてたのは確か」
人の姿になっているレセルの声が響く。
「ネアが見つけなければ、あの荷は今日中に国境を越えるでしょうね」
短い沈黙が落ちる。
ネアは深呼吸してから、皆を見渡した。
「……夜のうちに動くしかない。このまま放っておいたら、証拠も逃げる。ナランさんに報告して、捕まえてもらおう」
「了解」
ユニスが立ち上がる。
「正式な部隊として、報告の筋を通すのは正しい判断。まあ、私たちが勝手に動いたら、それはそれで面倒事に繋がるというのもあるけど」
四人は装備を整え、急いで向かった。
冷えた空気が肌を刺す。
月は雲の向こうに隠れ、街灯の光だけが頼りだった。
騎士団本部の門を叩くと、すぐに中から声が返る。
「夜分に失礼します。ブランシュ隊のネアです。急ぎの報告が」
こういう礼儀に関わる言葉は、貴族であるユニスに教えてもらう……というより耳打ちしてもらうことで、ただの村娘だったネアでも問題なく話すことができた。
少しすると鎧の音が近づく。
現れたのは、まだ軽鎧を着たままのナランだった。
眠気の影などは一切見せないが、猫の尻尾部分は少し元気がない。
「どうしましたか?」
「密輸らしき動きがありました。魔神教の印が刻まれた貨物を確認しました」
その言葉に、ナランの瞳がわずかに光る。
だが驚きではなく、確認するような冷静さ。
「……場所は?」
「倉庫街の北端。もう動いたかもしれません」
ナランは頷き、背後に控えていた団員に命じる。
「すぐに部隊を回せ。夜警を倍に。──決して逃がすな」
彼女の指示は的確だった。
数分後には鎧の音が響き、団員たちが夜の闇へ駆け出していく。
ネアたちも同行を申し出たが、ナランは首を振った。
「ありがとうございます。ですが、ここからは我々の領分です。あなた方は王都の部隊。ここで何かあれば、問題になりかねません。ですから、あとは私に任せてください」
その口調は柔らかだが、揺るぎない。
ネアは一瞬、言葉を探したが、結局頷くしかなかった。
「……わかりました。お願いします」
ナランが軽く礼をして去っていく。
残されたのは、夜風と、わずかに残る油の匂いだけ。
リュナが腕を組みながら呟く。
「ずいぶんと手際がいいね、あの人」
「うん。でも……」
ネアは視線を伏せる。
──何かが、引っかかる。
報告を受けてからの反応が早すぎた。
まるで、すでに知っていていつでも対処できるかのように。
けれど確証はない。
ネアはそれを胸の奥に押し込み、静かに息を吐いた。
「とりあえず、今夜は見届けるしかない。……明日になったら、結果を聞こう」
宿舎へ戻る道、国境の方角から金属の軋む音が一度だけ響いた。それは遠くで扉が閉まる音のように思えた。
◇◇◇
夜が明ける頃、東の空が白み始めていた。
トラヴァスの街は、早朝の荷車とパンの焼ける匂いで少しずつ目を覚ます。
けれど、ネアの胸の奥に残る冷たさは、まだ消えていなかった。
「……おはよう。眠れた?」
リュナが半分あくびをしながら言う。
ネアは小さく首を振る。
「ううん。ずっと考えてた。あの荷物、どうなったんだろう」
「朝になったら、騎士団から報告があるから、待てばいい」
ユニスが手短に答える。
ネアは小さく頷き、部隊の全員を集めると簡単に整理を行った。
魔神教の印章を見つけた経緯、ナランの反応、夜の動き。
全員の意見をまとめた上で、ネアは決断した。
「朝一番で、もう一度ナランさんに報告を入れよう。何か変化があったかもしれない」
騎士団本部は、夜と変わらぬ静けさを保っていた。
扉を叩くと、すぐに中から応答がある。
ナランはすでに軽鎧を身につけ、机の上に報告書を並べていた。
疲れの色はなく、むしろいつもより冴えた表情をしている。
「早いですね、ブランシュ隊の皆さん」
「昨夜の件が気になりまして」
ネアが前に出る。
「捕まった人たちは……?」
ナランは数枚の紙を手に取り、淡々と答えた。
「夜明け前に全員拘束しました。国境を越える前に間に合いましたよ」
安堵が広がる。
だがその次の言葉が、空気を止めた。
「……ただ、取り調べの最中に、全員死亡しました」
「えっ?」
ネアは思わず声を上げた。
「ま、まさか全員? 一人も?」
ナランは頷く。
「毒です。おそらく捕まった時に備えて口の中に仕込んでいたのでしょう。我々が尋問するより早く、自ら口を閉ざした」
訪れる静寂。
ユニスが眉をひそめ、冷静に問い返す。
「……処理は、そちらで?」
「はい。すべて終わっています。宰相府にも報告済みですので、あなた方が気にする必要はありません」
完璧な答え。整った文言。
けれど、ネアにはその滑らかさが逆にひっかかった。
「……そう、ですか。ご苦労さまでした」
今はそう言うしかなかった。
ナランは微笑を崩さず、書類を整える。
「今後は我々の警備を強化します。あなた方は、しばらく街で待機を。宰相閣下からの指示があれば、改めてお伝えします」
「わかりました」
ネアは頭を下げ、部屋を出た。
廊下を歩く足音が、妙に響く。
隣を歩くレセルは小声でささやいた。
「ねえ、ネア。あの人……本当に“夜に捕まえた”のかしら」
ネアは返事をしなかった。
ただ、無意識に胸の奥を押さえる。
夜の闇よりも静かで、冷たい感触が、まだそこに残っていた。
◇◇◇
昼前。
街の喧騒が戻り始める頃、ネアは再び外套を羽織り、静かに宿舎を出た。
同行するのは、剣の姿に戻ったレセル。
腰の鞘に手を添えながら、周囲を慎重に見渡す。
『行くの?』
レセルの声が小さく響く。
「うん。気になって……昨日の倉庫、少しだけ見ておきたい」
密輸商人が捕らえられた。
だが、騎士団では誰もその話をしない。
まるで事件そのものが、最初から存在しなかったかのように。
人気のない倉庫街に入ると、ひんやりとした空気が漂っていた。
扉は半開きになり、内部には焦げた匂いがわずかに残っている。
ネアは息を詰めて中に入った。
「ふぅ、見張りの人がいなくてよかった……」
床の上には、血の跡すらない。
けれど、奥の木箱の隙間に、何かが挟まっているのが見えた。
そっと取り出すと、それは折りたたまれた手紙。
薄い羊皮紙には、文字がある。
宛名には、確かに“ナラン・リェル”と記されていた。
ネアの喉が鳴る。
震える手で開くと、走り書きの文が目に入る。
《教団の依頼、受領。次の積荷は南の門より。儀式材料は確保済み。……処理は予定どおり、夜半に》
レセルが呆れ混じりに話す。
『やれやれね。街の秩序を守る騎士が……裏では魔神教と関わってるとか』
ネアはわずかに唇を噛む。
ナランが捕らえた密輸商人たちは、毒によって自ら口を閉じたのではない。
彼女によって口を塞がれたのだ。余計な情報が漏れないように。
『……どうする?』
レセルの声が揺れる。
ネアは答えず、手紙を握りしめた。
その時だった。
「──何をしているんですか?」
声が、背後から落ちた。
反射的に振り向くと、入口の光の中にナランが立っていた。
いつものように静かな笑みを浮かべながら。
「……あ、あの……昨日の現場がどうなったか、気になって」
ネアは、できるだけ自然に声を出した。
「この辺に何か落ちてないかなと思って」
ナランの目が一瞬、手元の紙に向く。
だが、その動きを指摘はしなかった。
ゆっくりと歩み寄り、ネアの手からそれを取る。
「なるほど。熱心ですね」
彼女は手紙を広げ、ちらりと目を通したあと──まるで何でもないメモのように笑って折りたたんだ。
「……賢い子どもは、好きですよ。知らないふりができるのは、大人の第一歩です」
その声は穏やかで、しかし底知れない。
ネアは喉が乾くのを感じながら、無理に笑った。
「す、すみません。余計なことを」
「いいえ。むしろ助かりました。危ないところでしたね。ここは、もう片づけておきます」
ナランは手紙を懐に入れ、いつもの調子で言葉を継いだ。
「ちょうど昼食の時間です。このあと、少し外を歩きながら食べませんか? 国境の名物料理をいくつかご馳走したいんです」
「えっ……はい。ぜひ……」
拒む理由はなかった。
いや、拒んではいけない。
ネアは小さく息を吐き、なんとか微笑みを作った。
外の光の中で、ナランの笑みがいっそう鮮やかに見えた。
そしてレセルの声が、耳に響いた。
『危ない状況ね。でも、向こうがあなたを消しにかからないのを見るに、交渉の余地がありそうよ』
ネアは目を伏せ、ゆっくりと歩き出す。
国境の昼の光は、妙に冷たく感じられた。




