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69話 境界の静けさ

 朝のトラヴァスは、まるで祭りのように賑やかだった。

 陽光が石畳を照らし、屋台の天幕を染める。

 香辛料の匂い、焼いた果実の甘い香り、鉄と油の混ざった鍛冶屋の音。

 どこを見ても、戦争の気配など微塵もない。


 「……これが争いの近い街、とは思えないけれど」


 ユニスが静かに呟く。

 ネアは頷きながら、通りを行き交う人々を見回した。

 服装も、顔立ちも、混ざり合っている。

 ベルフ風の上着にソーティの刺繍を合わせた者。ソーティの帽子をかぶりながらベルフ式の靴を履く者。


 「国境って、だいぶ曖昧なんだね」


 ネアの言葉に、隣のレセルが笑う。


 「人の流れは止められないのよ。壁を作っても、人は行き来する」


 リュナが横目で屋台を見て、片手を上げる。


 「お、あの串焼き美味しそう。ちょっと一本だけ……」


 そこをユニスがぴしゃりと止める。


 「私たちは任務中だけれど? あとで買えばいいでしょうに」

 「うーん……副隊長の言葉はわかってるけどさぁ、香辛料と肉の脂が焼けた匂いが混ざったやつって、鼻に来るといろいろ反則的で」


 その軽口の裏で、ネアはふと違和感を覚えた。

 笑い声が響く市場なのに、時折、誰かが視線を向けてくる。

 商人の目つきが、どこか測るように鋭い。

 客と話しながらも、耳だけはこちらを向けている。


 「……私たち、見られてる?」

 「当然よ」


 レセルが声を抑えてささやいた。


 「外部の部隊が視察に来た。王都の目がここにあるって、みんな気づいてる」


 街の中央には高い塔がそびえ、上に旗が翻っていた。

 片側はベルフの紋章、もう片側にはソーティの商章。

 ゆらゆらと風に揺れながら、まるで同じ風を分け合うように並んでいる。


 「同じ街で二つの旗が立ってる……」

 「ある意味、この街の象徴というわけ」


 ユニスが言う。


 「どちらにも属して、どちらにも属さない」


 ネアは目を細めて、その旗を見上げた。

 光を受けた布地が、眩しくきらめく。

 だがその美しさの裏に、薄いひびが走っているような気がした。


 「……平和って、案外もろいのかもね」

 「もろいよ。傭兵の需要がなくならないくらいには、ね」


 かつて傭兵であったリュナが、ちゃっかり串焼きを買いながら笑う。


 「でも、だからこそ商売が成り立つんだよ。良くも悪くも」


 遠くで鐘が鳴った。

 交易で潤う国境の街トラヴァス。

 その明るい喧騒の下に、誰も気づかぬほど静かに、何かが動き始めている。

 そんな予感を感じるネアだった。


 ◇◇◇


 昼下がり、ナランの案内で街の東端にある国境線近くまで歩いた。

 ここには、ベルフ側とソーティ側の見張り塔が互いに向かい合って立っている。

 間には小さな門と検問所。

 兵士が行き交い、荷車の列ができていた。


 「ここが、いくつかある国境の現場の一つです」


 ナランは立ち止まり、淡々と説明する。


 「両国の通商協定により、通行は他の国よりは自由ですが、税や検問の取り決めは曖昧なまま。そのせいで、毎日のように揉め事が起こります」


 その言葉を裏づけるように、ちょうどその時、怒号が上がった。


 「おい、それは税の帳簿にない荷だ!」

 「違う、これは商会の試作品だ! 今度正式に登録する予定で──」


 ソーティ側の役人とベルフ側の兵士が、荷車の上の木箱を挟んで言い争っている。

 箱の蓋が開けられ、中から光沢のある金属の器具がいくつも顔を出した。


 「……あれ、なんだろう?」


 ネアが目を細めると、ナランが即答する。


 「鍛冶用の鋳型。精度が高すぎる。おそらくソーティ製の密輸品です」


 その直後、ベルフ側の兵が強引に木箱を押さえつけた。

 商人が抵抗して腕を振り上げる。

 すぐさま他の兵が駆け寄り、乱暴に押し倒した。

 リュナが思わず一歩踏み出しかけたが、ナランが手で制した。


 「やめなさい。あれは“日常”です」

 「日常って……」


 ネアの声に、ナランはわずかに眉を動かす。


 「どちらの国も、相手が悪いと主張する。実際、どちらが正しいかは判断できません。……ですが、ああして“相手のせいにできる出来事”を残しておくことが、この街において平和の均衡を生み出しているんです」


 均衡。

 その言葉に、ネアは少し渋い表情を浮かべる。

 まるで綱渡りのような平和。

 支え合っているようで、同時に引き合ってもいる。

 騒ぎは数分で収まり、商人は連行されていった。

 周囲の通行人はちらりと見るだけで、すぐに何事もなかったかのように歩き出す。


 「……慣れてるんですね」

 「慣れるしかないんです。慣れてしまうとも言い換えることができますが」


 ナランの声は低く、淡々としていた。


 「問題は、こうした小競り合いが、最近になって少しずつ増えているということ」


 ネアはその言葉を胸に刻む。

 遠くで風が吹き、国境の旗がはためいた。

 片方は赤く、もう片方は灰色。

 けれど、その間を流れる風は同じだった。


 「……火種はもうある。あとは、誰が火を点けるか、ね」


 レセルの小さな声が、風の流れる音に紛れて消えていった。


 ◇◇◇


 夜のトラヴァスは、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。

 市場の明かりが消え、代わりに灯された街灯が石畳に柔らかい光を落とす。

 遠くから聞こえるのは、風鈴のような金属音。

 それ以外には、誰も話さない。

 宿舎の窓辺に立ったネアは、ぼんやりと外を見下ろした。

 昼の光景──荷車を押さえつける兵士たちの姿が、まだ頭から離れない。


 「……ナランさん、何か隠してる気がする」

 「気づいた?」


 レセルがベッドの端に腰を下ろし、微笑む。


 「彼女は真面目だけど、真実をすべて話しているわけじゃない。おそらく知っているけど言えないことがある」

 「言えないこと、か……」


 考え込むネアの耳に、外からかすかな音が届いた。

 窓を開けているからなんとか聞くことができるほどに小さい、荷車の車輪が軋むような音。

 こんな時間に誰が?


 「……ねえ、レセル。聞こえる?」

 「ええ。……人の気配もするわね」


 ネアは外套を羽織り、レセルを剣の姿に戻す。

 そして窓をさらに開けると、冷たい夜風が一気に流れ込んだ。

 身を乗り出して見てみると、通りの向こうで、街灯の影を縫うようにして数人の男性が歩いている。

 背に木箱を担ぎ、声も交わさず無言で進む。

その動きは、訓練された兵のように無駄がなかった。


 「密輸?」

 『それにしては、妙に静かね』


 ネアは足音を殺してあとを追った。

 もちろん、宿舎から出る時は物音を立てないよう慎重に。

 人気のない倉庫街まで来ると、男性たちは周囲を確認しながら、木箱を地面に降ろす。

 一人が箱を開け、中身を確認した。

 灯りに照らされた瞬間、ネアは息を呑んだ。


 「あれは……」


 中には、黒い布で包まれた金属片の束。

 そしてその布に刻まれていたのは──見覚えのある印。


 『あの時、魔神教の信徒が集まって、黒いスライムを召喚か何かしてたけど、その時の魔法陣と同じに見えるわ』


 以前、レセルと出会って村を出たあとに訪れた街で、面倒臭がりな衛兵の一人と一緒に水路の調査をした。

 その時、偶然魔神教の信徒が儀式をしていたのを目にしたが、その時に見つけた魔法陣と同じ印だった。


 「……なんだろう?」

 『魔神教の印章といったところかしら』


 レセルの声が冷たく響く。

 ネアは思わず木箱の中身に目を凝らす。

 金属片はおそらく魔導具の一部。だが用途はわからない。

 ただ、明らかに軍需品ではなかった。

 男性たちは手際よく蓋を閉じ、箱を再び担ぎ上げる。


 『ひとまず戻りましょう。……ここで見つかるのはまずいわ』


 使い手以外、聞くことのできないレセルの声に従い、ネアは身を引いた。

 宿舎に戻る途中、月明かりの下で息を整える。

 心臓が静かに跳ねていた。


 「やっぱり……魔神教が関わってる?」

 『まだ断定はできないわ。でも、今のところあの印を使うのは彼らだけ』


 窓辺に戻ると、遠くの街の端で、一瞬だけ炎が揺らめいた。

 見張り塔の上。

 まるで誰かが合図を送るように。

 ネアは剣となっているレセルを見つめた。


 「……宰相の“経験のための任務”って、こういうこと?」

 『ええ。あなたに経験を積ませるつもりなんでしょうね。この国の裏を見せることで。まったく悪趣味な宰相だこと』


 その言葉に、ネアは静かに頷いた。

 街はまだ眠っていない。

 この国境のどこかで、誰かが火を点けようとしている。

 そして、ブランシュ隊の隊長である自分は、最初の火花となるものを見つけてしまった。

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