63話 街道を塞ぐもの
ワイバーンの影が、街道の上を流れるように横切った。
広い平原の真ん中で、ぬらぬらと光る巨大な塊と化したスライムが、まるで巨大な水袋のようにうねっている。
周囲では、止まった馬車の御者たちが遠巻きにそれを見つめ、道の端に避けていた。
「うーん……これどうしたらいいのかな」
ネアは額に汗を浮かべながら、街道に降り立った。
ワイバーンは御者と共に、少し離れた場所で待機してもらう。
「とりあえず、つついてみる?」
リュナが軽い調子で言う。
近づいても、スライムはこれといった反応を示さない。
「……じゃあ、レセル」
ネアが剣を構えようとした瞬間、抗議の声があがる。
『嫌よ。緊急時ならともかく、余裕がある状況で、あんなものをつつきたくないわ』
「えっ、ダメなの!?」
『ぬるぬるするのって、嫌いなのよ』
冷ややかな声に、ネアは苦笑いを浮かべた。
仕方なく隣のリュナへ視線を向ける。
「……じゃあ、ヴァニティアで」
「はいはい」
リュナは黒い剣を抜き、軽く地面を突くようにしてスライムの端を突く。
その瞬間、ぶるん、と低く粘ついた音が響いた。
『……魔力の流れが妙だ。こりゃ普通のスライムじゃねえ。複数の核が混じってやがる』
ヴァニティアのざらついた声が、空気の中に直接響く。
ネアは目を細め、前へ進み出た。
陽光を受けて光るスライムの表面──透明ではなく、ところどころに青、緑、灰、そして黒。
まるで絵の具を無理やり混ぜたような不気味な色合いだった。
「……これ、合体してる」
「合体?」
リュナが首をかしげる。
「たぶん、無理矢理くっつけられた。……中に黒いのがある」
ネアは少し固い表情となる。
その黒の部分は、どこか既視感があった。
王都に来る前、街の水路で見た黒いスライム。魔神教の信徒が召喚していた、あの異質なものと同じに思えたのだ。
ネアは後ろを振り返り、ユニスとリュナを手招きした。
そして声を抑えながら言う。
「……魔神教の関わりがあるかもしれない」
すると二人の表情は一瞬で引き締まった。
ユニスは顎に手を当て、考えつつ口を開く。
「確かに、魔力の質が歪んでいる。単なる自然発生した個体じゃない」
「だとしても、こんな場所にどうして?」
リュナが辺りを見渡す。
そこは王都と地方を結ぶだけの、何もない一本道。
民家も畑もなく、遠くに見えるのは丘と草原だけ。
「……とりあえず聞き込みしてみようか」
ネアは提案し、近くで足止めされている商人たちへ駆け寄る。
「このスライム、いつからここに?」
「え、知らねえよ。朝通った時はいなかったが……」
「昨日は別の道を通った。ここに来たのは初めてだ」
口々に返される答えは、どれも曖昧。
どうやら、誰も“いつ現れたのか”を知らない。
「まるで、突然湧いたみたいだけども」
リュナは剣どころか、指先でスライムをつつく。
ネアは視線をスライムに戻した。
まるで、誰かがここにわざと置いたかのように、街道を完全に塞ぎ、通行を止めるかのように鎮座している。
その静けさの中、レセルは低い声でささやいた。
『ネア。……気をつけて。中で、動いてる』
スライムの内部で、黒い影がゆらりと蠢いた。
黒い核のような塊を中心に、色つきのスライムがざわめく。
赤、青、緑、そして薄く濁った黒。
それぞれの色がゆっくりと中心へ──黒い部分へと吸い寄せられていく。
「……集まってる?」
ネアが呟いた瞬間、スライムの表面が震えた。
まるで何かを拒むように、ぐにゃりと歪む。
次の瞬間、ぶしゅっ、と嫌な音を立てて弾けた。
「……っ!」
黒い核を中心にまとまるはずの粘液が、反発するように跳ね散った。
赤や青や緑の塊が黒に触れた途端、泡立ちながら離れ、まるでお互いを拒絶しているかのよう。
『融合できない……ってところかしら?』
不思議そうにするレセルの声が響く。
やがて、巨大だった体はみるみると崩れ始めた。
半透明の膜が重力に負けてずるずると落ち。
黒い核はどろりと沈む。
粘液の破片が地面を這い、無数の小さなスライムへと分裂していく。
「退避! さっさと離れないと靴とかが汚れる」
ユニスの鋭い声のあと、全員が一斉に後退した。一部の野次馬も慌てて離れていく。
逃げ遅れたら、足元が粘液まみれになる。
四方八方に広がる小さなスライムの群れは、ぬるぬると音を立て、草原を覆っていった。
「うわあ……大惨事だこれ」
リュナが肩をすくめ、泥にまみれた靴を見下ろす。
「でも、巨大なままよりは処理しやすい」
ユニスは冷静な様子で市販されている剣を抜き、淡々と切り払っていく。
彼女の銀の瞳が、わずかに細められる。
「ただ……不自然さが目立つ。まるで“失敗した儀式”のあとみたい」
「失敗……か」
ネアはその言葉にわずかに頷きながら、一気に崩れた本体を見つめた。
バラバラになったスライムたちは、次第に動きを失い、やがて地面に溶けていくように静止した。
風が吹き抜け、ねっとりした匂いだけが残る。
「……終わった、のかな」
ネアの声は、まだ半信半疑だった。
『とりあえず、動きは止まったわね』
レセルの声は穏やかだったが、どこか不安を含んでいる。
リュナがヴァニティアを軽く肩に担ぎ、息をつく。
「どうにかしてこい、って言われたからには、これで一応合格……かな?」
「ええ。報告書には巨大なスライムを“どうにかした”って書ける結果ではある」
ユニスの皮肉まじりの言葉に、全員が思わず苦笑した。
だがその笑いの裏で、ネアは胸の奥に小さな違和感を抱えていた。
あの黒い核。
溶けたように見えて、地面の奥へ沈んだようにも見えた。
気のせいだろうか。それとも……。
風が止まり、静けさだけが街道に残る。
崩れ落ちたスライムの残骸は、ぬめる臭気を残して地面に広がっている。
日差しが少し傾き、風が吹くたびにその匂いが鼻を刺した。
「……これは、このまま放置するしかない」
ユニスが淡々と呟く。
「燃やすのもあれだし、掃除するには多すぎる」
リュナは腕を組みながら、頭を横に振る。
「とりあえず、報告を送ろう」
ネアはワイバーンの御者へ歩み寄り、宰相に対する簡単な報告書を渡した。
「現地の状況と大雑把ながらも絵。あとひとまず終わったことも伝えて」
「了解しました」
御者が敬礼し、ワイバーンに乗り込む。
翼が広がり、空気が震えた。
やがてその姿は空の彼方へと消えていった。
残されたのは、部隊の者たちと、ぬるりとした地面だけ。
「……しばらくは臭いが残りそう」
「雨が降れば、洗い流される。私たちのお風呂の時間を長くする必要はあるだろうけど」
ユニスの言葉に、ネアは小さく頷く。
初の任務は、怪我一つなく無事に終了した。あとは帰るだけ。
◇◇◇
数十分後、王都テルディ。
戻ってきた詰所の机の上には、すでに一通の手紙が置かれていた。
封蝋は宰相の紋章。
ネアは慎重にそれを開く。
中には、簡潔な筆致でこう記されていた。
その目で見ただろう。
王都の外には、このような怪しい動きが存在する。
これからも警戒を怠るな。
今回同行したワイバーンと御者は、ブランシュ隊の専属とする。
今後も君たちの働きに期待している。
短い文だが、そこに潜む意図は重い。
「……やっぱり、ただの“慣らし”じゃなかったわけか」
「宰相の言う怪しい動きって、つまり……」
ユニスが小さく息を吐く。
リュナが口を開きかけたが、ネアが手を上げて制した。
「いや、今はまだ、推測で動くのはやめよう。次の命令を待って、それから考えよう」
机の上の手紙が、わずかな風に揺れた。
レセルがネアの肩に手を置き、穏やかに微笑む。
「お疲れさま、隊長。……これで本当に、部隊の始まりね」
「うん」
ネアは静かに頷き、窓から外を見つめた。
その瞳の奥には、かすかな決意の光が宿っていた。




