58話 魔神教と貴族の関係
屋敷に戻る頃には、もう夕暮れが近かった。
オルヴィク家の屋敷は、まだ完全に修繕されていないが、最低限の生活はできるようになっている。
ネアは玄関をくぐると、出迎えに出た兵士に軽く会釈して、まっすぐユニスの部屋へ向かった。
帳簿をめくる音が止む。
机に広げられた書類の山の向こうから、ユニスが顔を上げた。
「……思ったより帰りが遅かったようだけど」
「ちょっと、変わった人と会ってたから」
「変わった人?」
ユニスが首をかしげると、ネアは少し言葉を選びながら答えた。
「魔神教にいたけど、もう抜けたっていう人。魔神の恩恵っていうのをもらって、若さを保ってるって」
「恩恵……」
ユニスは椅子にもたれかかり、指先でこめかみを押さえた。
「そう。確かに、魔神教ではそういう話を聞く。献身と忠誠の見返りとして、魔神が特別な力を与える。けれど、それを授かれるのは一握り。普通の信徒じゃ、到底届かない」
「でも、もらえたら不老にもなれるんだよね?」
「そういうこともあるけど、珍しい」
ネアは腕を組み、少し考え込んだ。
そして、ふと視線を上げる。
「ねえ、ユニス。もし、そういう恩恵があるなら……貴族の中にも、魔神教に協力してる人、けっこういるんじゃない?」
ユニスの表情が、一瞬だけ強張った。
「その推測は……正しいと思う」
「やっぱり」
「特に、若さを渇望する人ほど誘惑される。表向きは女神教に寄進していても、裏では魔神教に手を貸す。金と地位があれば、儀式の一つや二つは隠せるから」
言葉が重く沈む。
ユニスの口調には、どこか苦い響きがあった。
「貴族社会では、長い間若く美しくあることができれば、それは大きな力になる。女神の加護を得られなくても、別の神に求めればそれが手に入るなら──迷う者もいるでしょう」
ネアは少し身を乗り出した。
「じゃあ……ユニスの周りにも、そういう人が?」
「ええ。少なくとも、怪しい者は何人も見てきた。直接証拠を掴むのは難しいけれど……ね」
机の上の燭台の炎が、かすかに揺れる。
夕闇に沈みゆく部屋の中で、ユニスの瞳が静かに光った。
「魔神教は、ただの狂信者ばかりの集団じゃない。普通では手に入らない力や恩恵を扱う商人でもある。金や忠誠を差し出す者に、望むものを与える。……その意味では、貴族と似ているかもしれない」
「……つまり、どっちも似てるってことか」
「ええ。だからこそ、厄介なわけで」
ネアは黙って頷いた。
思い返すのは、あの魔女エルフォラの言葉。
“わがままを押し通す力があると、世界はいくらでも違う選択肢を見せてくれるのよ”
その力を、迷いなく選び取る者たちが貴族の中にもいる。
そう思うと、胸の奥が少しだけざらついた。
「……もし、そういう人たちが増えていったらどうなるの?」
「いずれ、王国そのものが魔神の信仰のもと再編される。表向きは同じ王でも、中身はまるで別の国になる」
「…………」
レセルが、ネアの腰のあたりから小さくささやく。
『そうなる前に、気づいている人がいるだけまだ救いね』
ユニスはゆっくり立ち上がり、窓辺に目を向けた。
「私みたいに気づいてる者はいるけど、見ないふりをする者の方が多い」
その声は、まるで諦めと覚悟が混じったように静か。
この国の上層には、もうすでに魔神の影が差しているのかもしれない。
ネアは無意識に、自分の剣の柄を握りしめた。
「……ところで、ユニス」
ネアは一拍おいてから、少し声を落とした。
「その、バゼムって人は……どうなの? 魔神教とかと関係あると思う?」
帳簿から顔を上げたユニスは、わずかに目を細め、短く息を吐いた。
「わからない。正直に言えば、それが一番正確な答え」
「……そう」
「彼はどちら側にも立てる人間。魔神教の敵にも味方にもなり得る。利益と情勢次第で。結局のところ、王国が魔神教にどう対応するか──それで、彼の立ち位置は変わると思う」
ユニスの声は淡々としていたが、どこか冷えた響きを帯びていた。
その現実味のある答えに、ネアは言葉を失う。
「……本当に、誰を信じればいいのかわからなくなるね」
「だからこそ、わたしは自分で見極めるようにしてる。表の顔だけ見て判断すると、簡単に騙されるから」
軽く肩をすくめたユニスの仕草は、年齢以上の達観を感じさせた。
それから話題を変えるように、ネアは少し笑いながら言った。
「そういえば、私……しょぼいけど、回復魔法を使えるようになったんだ」
「へえ、回復魔法?」
「うん。血が止まるくらい。ほんと、ちょっとだけど」
ユニスは興味深げに眉を上げ、指先を見せた。
そこには、小さな切り傷がある。
頼れる者は少なく、自分でどうにかしないといけない場合に備え、日頃から鍛練しているが、その時にできた傷とのこと。
「じゃあ、試してみる? かさぶたを剥がすから」
「うん」
ネアが両手を軽くかざし、集中する。
手に淡い光が灯り、傷口から血がにじむユニスの指に触れる。
数秒後──血は止まったが、傷そのものはまだ残っていた。
「……うん。気休めには、なるかもしれない」
「だよね」
ユニスは思わず苦笑しながらも、どこか感心したように頷いた。
「しょぼい魔法でも、何もできないよりはずっといい。もう少し効果があれば、治癒師としてあちこちから引っ張りだこかもしれないけど……」
そこで彼女の表情がふと変わる。
まるで、何かを思い出したかのように。
「……そういえば」
ユニスは軽く顎に手を当て、ネアを見つめた。
「あなた、魔剣の使い手でしょ。魔剣の力を借りて魔法を使ってみたことは?」
「えっ、魔法を……レセルの力で?」
「そう。魔剣というのは、使い手と魔力の流れを共有するものでもある。つまり、補助に使える可能性もある」
「……なるほど」
その時だった。
腰に差していた剣が、ふわりと光を帯びる。
『それ、面白そうね』
レセルの声が響くと、次の瞬間、白い光の中に少女の姿が現れた。
長く白い髪に赤い瞳。
いつものように、柔らかく微笑んでいる……けれど。
「ちょ、ちょっと近いよ……!」
「だって、魔力を共有するには密着が大事でしょ?」
そう言いながら、レセルはネアの背後に回り、そっと腕を回して抱きしめてきた。
「え、えええ……っ」
「さあ、試してみましょう?」
耳元でささやく声が甘く響く。
体温が重なり、ネアの鼓動が早まっていく。
「近くで……ユニスが見てるんだけど……」
「気にしない気にしない」
「……いや、気にするよ」
困惑と羞恥の混ざる空気の中、
レセルは笑みを浮かべたまま、ネアの手の上に自分の手を重ねた。
「魔力を流す感覚は、覚えてるわね? じゃあ、わたしの流れに合わせて」
「……う、うん」
静かな光が再び灯る。
けれど、今度の光は先ほどよりもはっきりと温かい。
ユニスの傷跡が、目に見える速度でゆっくりと消えていく。
「へえ……ここまでの効果があるなんて」
「うん。レセルのおかげ、かな」
レセルは得意げに微笑むと、ネアの頬に軽くキスをした。
「ね、二人なら、いろいろできるでしょ?」
「……あのねぇ……!」
頬を真っ赤にしたネアの声が屋敷に響き、ユニスは苦笑しながら小さくため息をついた。
「……静か過ぎるよりはマシとはいえ、こうも賑やかなのは」
その後、レセルとの実験を終え、ネアがようやくユニスの部屋を出ようとする頃。
屋敷の玄関先が、にわかに騒がしくなっていた。
兵士の一人が慌てて駆けてきて、敬礼する。
「お客様です。女神教の……聖騎士殿が」
「……聖騎士?」
ユニスが眉をひそめる。
「この時間に?」
玄関へ向かうと、磨き上げられた銀の鎧を纏った女性が立っていた。
淡い金髪に、青白い瞳。整った顔立ちに隙のない佇まい。
そこにいるのは女神教の聖騎士たるレティス・ノール。
彼女は軽く頭を下げ、すぐに視線をネアに向けた。
「オルヴィク家の客人、ネア殿ですね。女神教の司教、リュミナ様より伝言を預かって参りました」
「リュミナさんから?」
「はい。あなたに、お話があるとのことです」
レティスの声は丁寧だが、どこか硬い。
そしてほんの一瞬、探るような眼差しを向けてきた。
「……それと」
言葉を区切りながらも、続ける。
「あなたが、かつて魔神教の信徒であった魔女エルフォラと関わっていたこと、教会は把握しています」
ネアの肩がわずかに強張る。
ユニスが一歩前に出ようとしたが、レティスは手で制した。
「誤解しないでください。責めに来たわけではありません。ただ、司教様が直接確かめたいとおっしゃっているのです」
その口調に敵意はなく、ただ使命として淡々と伝えるのみだった。
「……わかりました。行きます」
ネアが頷くと、剣の状態でいるレセルがそっとささやく。
『あの聖騎士、油断しないほうがいいわよ。職務と忠誠が同じ方向を向いてるタイプ』
「うん」
ユニスは軽く溜息をつきながら言った。
「何があっても、なるべく穏便に。……万が一、王都で女神教を敵に回すようなことになれば、私はあなたを見捨てるしかなくなる」
「気をつけるよ」
ネアは頷き、レティスのあとを追った。
玄関を出ると、陽は沈みかけ、王都の空に淡い光が差していた。
女神教の司教が呼ぶということは、何かが動いている。
そう感じながら、ネアは静かに歩みを進めた。




