56話 古本屋と眼鏡の少女
王都の喧騒からいくらか外れた裏通り。
建物の陰が長く伸び、通る人影もまばらなその一角に、書庫アーケインと書かれた古びた看板が掲げられていた。
扉を押すと、鈍い鈴の音が鳴る。
中はひんやりとした空気。
古書特有の乾いた紙の匂いが漂い、陽光の届かない隅には魔法による光がぼんやりと灯っていた。
「いらっしゃいま……あら、あなたたちは」
カウンターの向こうで本を拭いていた少女が、眼鏡の奥で目を細めた。
腰まである黒髪を後ろで束ね、白衣めいた上着を羽織っている。
年の頃はネアとあまり変わらない。
「師匠は出かけています。……また妙なものを売りつけに来たんですか?」
明らかに顔なじみらしいその口調に、カイランは肩をすくめた。
「ひでぇな。今日は真面目な客を連れてきたんだよ」
「真面目な、ですか。あなたが言うと信用が半減します」
ため息混じりに言いながら、少女はネアを見た。
その視線は、値踏みするというより、興味深そうに観察しているようなものだった。
「……独学で魔法を学びたい、という方ですか?」
「う、うん。できるかわからないけど、やってみたくて」
少女は軽く眼鏡を押し上げ、小さく笑った。
「物好きですね。……でも、嫌いじゃないです、そういうの」
そう言って彼女は、奥の棚に歩いていき、一冊の厚い本を取り出した。
表紙は擦り切れ、ところどころページの角が折れている。
けれど、手入れの跡が丁寧で、長年大切に扱われてきたのがわかる。
「《初めての魔力理論入門》。生まれついた魔法の系統によって、覚えやすい魔法と覚えにくい魔法が違う。その辺りの基礎をまとめた本です。まずは、これを読んでから他の本を探すのをおすすめします」
「ありがとう。これ、買うよ」
代金を払うと、少女は淡々と包みを渡してきた。
その手つきが妙に几帳面で、どこか学者のようでもあった。
「店内で読むなら、奥の席を使ってください。ただし、飲み物は本の上に置かないでくださいね。……前にやられたので」
「うん。わかった」
言われた通り、ネアは店の奥のテーブルに腰を下ろした。
古い紙の香りと、時折聞こえるページをめくる音だけが、静かな空間を満たす。
レセルの声が、鞘の中から響いた。
『真面目な店員ね』
「少し緊張するかも」
『あの兄妹と知り合いみたいだし、そんなに気にしなくても大丈夫よ』
そんな会話を交わしながら、ネアはページをめくっていく。
“魔法とは、生まれ持った魔力の流路に基づくものであり、同じ系統であっても個体差により発動特性が異なる”
活字を追ううちに、次第にネアの表情は真剣さを増していった。
書かれているのは初歩的な理論だったが、それでも魔法というものが単なる才能ではなく、理屈と制御によって形になるということが伝わってくる。
やがて、読みふけるネアの姿を見て、カウンターの向こうの少女が呟いた。
「……なるほど。狩猟祭の優勝者って聞いたけど、噂よりずっと地味な子」
けれど、その声にはほんの少しの好奇心と期待が混じっていた。
まるで──この小さな来訪者がどんな魔法を覚えるのか見てみたい、というように。
◇◇◇
ページをめくる指先が止まる。
ネアは、本の中ほどに記された見出しに目を留めた。
《四大属性と例外的な魔法》
「火、水、風、土……か。わかりやすい」
それぞれの項目には、短く特徴がまとめられていた。
火は破壊と変化の象徴。瞬発的な力を持つが、制御を誤るとすべてを焼く。
水は流動と適応。気温や環境に左右されにくく、形を変えながら攻撃や補助に転じる柔軟さを持つ。
風は自由と感知。速度、察知、運搬など多様な応用が可能。
土は堅実と創造。形を与える性質を持ち、建築や支えに長ける。
どれも、自然をなぞったような説明だった。
だが、その下には細かな注釈が添えられている。
《ただし、いずれにも属さない“例外”が存在する。それが、生命や精神に干渉する魔法。特に回復魔法は、未だ理論的に位置づけられていない》
「……属性に入らない魔法、か」
ネアは思わず小さく呟いた。
どんな魔法よりも役立つそれが、体系に収まらないとは。
「便利なのに、ちゃんとわかってないなんて」
『人が望むものほど、簡単には手に入らないのよ』
レセルの声は、鞘越しでもどこか優しい響きを持っていた。
ネアは次のページをめくる。
《生まれついて持つ固有の魔法》
そこには、こうあった。
人は誰しも一つの魔法を持って生まれる。
だが中には、努力や学習では得られない、唯一無二の力を持つ者がいる。
それらは法則から逸脱しており、他者に継承できず、再現もできない。
ゆえに、その仕組みは今なお謎に包まれている。
「……やっぱり、私の“水を弾く”って、微妙なんだよなぁ」
ページを眺めながら、ネアは頬杖をつく。
「水を弾くくらい、他の魔法でもできそうだし。どうせなら、替えのきかない唯一の魔法とか持って生まれたかったな」
『ふふ、欲張りね』
「だって、せっかく一つだけ持てるなら、特別なのがいいじゃない」
『じゃあ、あなたの“特別”はなんだと思う?』
「うーん……」
言葉を探す間、沈黙が落ちる。
紙の擦れる音だけが小さく響いた。
しばらくして、ネアは小声で尋ねる。
「ねえ、レセルは? 魔法とか使えたりしないの?」
すると、どこか楽しげなレセルの声が返ってきた。
『一応、わたしの存在そのものが“魔法”だけど? 人になれるわけだし』
「それ、反則でしょ」
『冗談よ』
少しだけ笑いが混じる。
けれど、すぐに真面目な調子に戻った。
『でも、あなたの肉体を一時的に強化する、それがわたしの魔法みたいなものね。本当は、剣としての機能だけじゃない。あなたの身体と魔力を、わたしの中で共鳴させて動かしてる』
「……じゃあ、あれも魔法の一種なの?」
『そう考えてもいいわ。あなたとわたしの“繋がり”がなければ、成立しない力だから』
ネアは少しだけ息を呑んだ。
“繋がり”。
その言葉が、妙に心に残る。
「……そっか」
レセルはくすっと笑い、やわらかな声でささやいた。
『あなたが特別じゃないわけ、ないでしょう?』
その言葉に、ネアの胸の奥が、ふわりと温かくなる。
それがまるで小さな魔法のように思えた。
本を二冊読み終えた頃、ネアは机の上に小さな山を作っていた。
分厚い理論書と違って、今開いているのは薄い冊子。
“初歩魔法の実践手引き”と題されたその本には、火を灯す、風を起こす、水を集める──などの簡単そうに思える呪文がいくつも並んでいた。
「……よし。これなら、私にもできるかも」
小声で呟き、ネアは手をかざした。
周囲の空気に意識を向ける。魔力を流す。
──反応なし。
もう一度、指先に力を込めて集中する。
──何も起こらない。
「うぅ、なんで……」
『焦らないで。最初はみんなそうよ』
「レセルはできるの?」
『わたしは存在そのものが魔法だから、ちょっと参考にならないわね』
「はいはい……」
困り顔で肩を落としていると、カウンターの方から控えめな声がした。
「もしよければ、試してみますか?」
顔を上げると、眼鏡の少女が手のひらに透明な水晶をのせていた。
「魔力鑑定用の水晶です。魔力を流せば、どんな属性か大まかにわかります。……練習の一環にもなりますよ」
ネアはこくりと頷き、水晶を受け取った。
手のひらの上で冷たい光を反射するそれに、そっと触れる。
「じゃあ……」
深く息を吸い込み、自分の中の魔力を意識しながら、いつもの“水を弾く”魔法を発動する。
きらり、と淡い光が出るもすぐに消える。
「……?」
少女が覗き込む。
「うーん……四属性ではないみたいですね。光り方がどれにも一致しません」
「じゃあ、例外の方?」
「かもしれません。……たとえば、回復魔法の系統とか」
言われるままにネアは再び水晶を握る。
今度は“癒す”という意識を持ちながら、魔力を流してみた。
すると、かすかな温もりが手のひらを包む。
水晶の中心に、淡い緑の光が灯る。
「……これは……!」
「たぶん、回復魔法ですね。出血の抑制や痛みの軽減に使える初歩的なものです」
少女の説明を聞きながら、ネアは自分の指先を軽くつねって、赤くなった部分に意識を向ける。
わずかに温かくなり、赤みが引いていく。
ほんの少し、だけれども。
「……出血が止まるくらい、かな」
「それでも、立派なことですよ」
少女はそう言いながらも、表情がどこか曖昧だった。
“回復魔法が使える”というのは希少だ。
だが、その効果が弱すぎるのも事実。
褒めるべきか、慰めるべきか。
言葉を選んでいるようだった。
ネアはそんな空気を察したのか、先に笑ってみせる。
「まあ、今までよりはちょっとマシかな。水を弾くよりは、役に立つ機会ありそうだし」
少女は小さく咳払いし、少し柔らかい声で言った。
「……ええ。回復魔法を扱えるだけでも、すごいことです。たとえ“しょぼい”と言っても、極めれば誰にも真似できない癒しになるかもしれません」
「極める、か……」
ネアは小さく呟き、水晶の残光を見つめた。
それは、ほんのかすかな光。
けれど確かに自分の魔法だった。




