54話 朝の支配者
王都の一角、グラニエ家の屋敷において一時的に割り当てられた一室。
カーテン越しに朝の光が差し込み、淡い金の粒が漂っていた。
ネアは、柔らかな寝具の中でゆっくりと目を開ける。
心地よい重みと視線を感じて顔を向けると、そこには微笑むレセルの姿が。
ベッドの脇に座り、穏やかな赤い瞳で、じっと見つめてきていた。
「……起こしてくれなかったの?」
ネアが寝ぼけ混じりの声で言うと、レセルは少しだけ首をかしげる。
「だって、もう少し寝顔を見ていたかったの」
「またそういうことを……」
甘やかすような声に、ネアは枕を引き寄せて顔を隠そうとした。
だが、すぐにその腕を取られ、あっさり押し戻される。
「……ねえ、ネア」
「なに?」
「どうしてそんなに、照れた顔を隠そうとするの?」
「照れてないってば」
「嘘。あなたのまつげ、いつもより震えてる」
くすりと笑うレセルの指が、頬に触れる。
冷たい金属の感触ではなく、温かく、柔らかい人の体温。
それが余計に、ネアの心臓を跳ねさせた。
「……レセル。近いって」
「そうかしら?」
レセルは、ふと視線を落とす。
そして、何を思ったのか──そっと身体を傾け、ネアの上に覆いかぶさった。
「ちょ、ちょっと!?」
馬乗りの姿勢で、両手を優しく押さえつけながら、レセルは微笑んで見下ろす。
まるで宝物を覗き込むような瞳で。
「朝なのに、もうあなたを独り占めしたくなってきた」
「突然過ぎる! というか、だからって押さえつけなくてもいいでしょ……!」
「逃げる気がするから」
「逃げないよ!」
「ほんと?」
軽く首をかしげながら、レセルは髪を垂らす。
その先が、ネアの頬をくすぐった。
息が混ざるほどの距離。
朝の日差しが二人の影を重ね合わせ、ゆっくりと甘い空気が満ちていく。
「ねえ、ネア。わたし、あなたのこういう顔が好き」
「ど、どんな顔の話?」
「強がってるのに、目がすぐ泳ぐ顔」
「…………」
「それに、押し返す力が少し弱くなるところも」
「それはレセルが、力が入りにくいように押さえてるからで……!」
「さあ、どうかしら。ふふふ」
レセルは笑いながら、指を絡めた。
握り返そうとしたネアの手を、やんわりと押し返し、そのまま両手を自分の胸の上で束ねてみせる。
「……朝からこんなことして楽しい?」
「楽しいわ。あなたの反応がかわいいから」
「……もう、ほんとにやめて」
「しょうがないわね。──でも、あと十秒だけ」
「は?」
レセルは、まるで祈りでも捧げるように数を数えはじめた。
「十、九、八……」
そのたびに、指が少しずつ滑って頬に触れ、髪をなぞり、最後の一声の時、唇がほんのかすかにネアの額に触れた。
「はい。終わり」
レセルはようやく体を離し、軽く微笑む。
「なにこれ」
「朝の儀式よ。お守りみたいなもの」
ネアは顔を覆いながら、呆れたようにため息をついた。
「……余計な儀式多すぎ」
「あなたのためなら、いくらでも増やすわ」
「……朝から胸焼けしそうなんだけど」
そうぼやきながらも、ネアの声にはどこか柔らかさが見え隠れする。
こうして、狩猟祭の閉会式から一夜明けた朝。
平穏と、そしてほんの少しの甘さが、二人の部屋を満たした。
◇◇◇
朝食の席には、四人の姿があった。レセルが剣ではなく人の姿でいるため。
白い陶器に盛られた温かいスープの香りが漂い、外の庭からは、再び活気を取り戻した王都のざわめきが聞こえてくる。
「オルヴィク家の、つまりは私の屋敷だけど、最低限とはいえ住めるくらいには復旧した」
ユニスがスプーンを置きながら、淡々と告げた。
「部屋数はまだ限られているけど、寝泊まりくらいならできる」
対面に座るバゼムは、優雅に紅茶を傾けながら、笑みを浮かべている。
「やれやれ、ずいぶんと早いじゃないか。さすがは若くして当主になっただけある」
「皮肉は結構」
ユニスは眉をひそめて言い返す。
バゼムは肩をすくめ、まるでそれを楽しむように視線を流した。
「さて、ネア。あなたはどうするの?」
ユニスが問う。
「再建途中の屋敷に来る? それとも、この屋敷でもうしばらくゆっくりしていく?」
ネアはスプーンを置き、少しだけ考え込む。
バゼムの屋敷は整っていて快適だが、油断ならない。
それは、これまでのやり取りで十分にわかっている。
「……私も、ユニスの屋敷に行くよ」
その言葉に、ユニスはわずかに目を見開いた。
「いいの? まだあちこち修理中だけど」
「うん。落ち着かなくても、安心できる方がいいから」
ユニスは一瞬だけ口を結び、それから小さく微笑んだ。
「……わかった。あなたを歓迎する」
そのやりとりを、バゼムは実に愉快そうに眺めていた。
「まったく、私の屋敷はそんなに居心地が悪いかな?」
「……正直に言ってもいい? 同じ貴族としての意見をいくつか」
「やめておこう。結果は聞かずとも察せる」
軽く笑ったあと、彼は紅茶を置き、穏やかな声で続けた。
「まあ、君がここにいてくれたら、他の貴族との関係を進めるのに役立つのだがね」
言葉とは裏腹に、声色には未練の欠片もなかった。
その余裕ある態度こそが、彼が一筋縄ではいかない証拠でもあった。
「……やっぱり、警戒して正解だったかも」
ネアが小さく呟くと、ユニスはくすっと笑った。
「同感。でもまあ、あなたの判断は正しい」
レセルはそんな二人を見て、静かに笑みを浮かべる。
「居場所を選ぶのも、戦略のうちよ。よくできました、ネア」
「……なんか、褒められてるようで褒められてない気がする」
そんな軽い言葉のやりとりが、食卓に小さな安堵を運ぶ。
戦いも混乱も一段落した朝。
ネアはようやく、ほんの少しだけ自分の選択で立つ感覚を得ていた。
◇◇◇
荷物といっても、ネアの持ち物は少ない。
着替え、地図、小物にお金、磨かれた長剣──それらをまとめていると、ノックの音が部屋に響く。
「どうぞ」
扉を開けた瞬間、黒髪の女性が立っていた。
陽の光を受けて艶めく髪、黒曜石のような瞳。
どこか影をまといながらも、微笑を浮かべている。
リュナ・アルヴェール。
魔剣ヴァニティアの使い手にして、その魔剣に操られていた女傭兵。
「やっほー、遅くなったけど優勝おめでとう!」
からかうような声とともに、リュナはそのままネアを抱きしめた。
力強く、そして包み込むように。
「わ、わっ!? ちょ、ちょっと苦しいっ!」
ネアの顔は、見事にリュナの豊満な胸の中に埋まる。
もがくネアを、レセルが慌てて引き剥がそうとする。
「わたしの使い手を押しつぶさないでくれる?」
「おっと、悪い悪い。可愛かったから、ついね」
リュナは笑って肩をすくめると、少し真顔に戻った。
「……でも、あんな形で自分が魔剣の使い手だって明かすなんて、はっきり言って君はバカだよ」
「うっ……耳が痛い」
「ただ、王国に“安全の保証”を景品として引き出したのは見事だった。あれは誰にでも思いつく手じゃない。けどね、王国がただ保護してくれるとは思わないこと」
ネアが顔を上げる。
リュナの黒い瞳は、冗談めかした口調に似合わず、真剣だった。
「王は、というか宰相だけど、利のない約束はしない。いずれ、君を利用しようとする動きがあるかもしれない。……だから、強くなりなよ」
静かに告げられたその言葉には、かつて魔剣に操られた者としての重みがあった。
「誰が敵になっても、返り討ちにできるくらいに」
流れるのはわずかな沈黙。
ネアが答えようとする前に、レセルが小さく息を吐いた。
「いいこと言うなら、わたしの使い手から離れてからにしてちょうだい」
「はは、やきもちかい?」
「当然よ」
ぴしゃりと返すレセルに、リュナは肩をすくめて笑った。
「全然変わらないね、君たちは」
「変わらないって、まだ出会ってそんなに経ってないでしょ」
「いや、君たちは一瞬でわかる。息が合いすぎてるから」
リュナは最後に軽く手を振ると、扉の向こうへ歩き出した。
「じゃあ、また。今度は戦場じゃなくて、酒場で会おう。……なんちゃって」
扉が閉まると、部屋に静けさが戻る。
ネアは息を整えながら、ぼそりと呟いた。
「……ある意味、すごい人かも。一気に来て一気に去っていった」
「ええ。でも、ああいう強さを持つ者は嫌いじゃないわ。わたしの使い手にちょっかいをかけないなら、という言葉がつくけど」
レセルが柔らかく笑う。
その笑みを見て、ネアもつられて口元を緩めた。




