40話 女神教の若き司教
数時間後。
オルヴィク家、もといユニスの仮住まいとして使われている部屋に戻ると、ユニスは机に向かって書き物をしていた。
ネアが扉を叩いて入ると、彼女は顔を上げる。
「どうしたの?」
「……少し、相談があって」
レセルは剣として鞘に収まり、沈黙している。
ネアは椅子に腰を下ろし、慎重に言葉を選びながら話を始めた。
今日、街中で声をかけられた。
それは魔神教の勧誘であり、いろいろと魔神教のことを聞く機会があったということを。
「だから……女神教の教えを直接聞いて、比べてみたい」
ユニスは静かに目を細め、しばし沈黙した。
やがて筆を置き、淡々と告げる。
「……いい心がけだと思う。自分の目と耳で確かめるのは大事だから」
それだけを言うと、彼女は紙を引き寄せ、さらさらと何かを書き始める。
封蝋を押して渡されたのは、小さな紹介状だった。
「これを持っていけば、女神教の教会で立場ある者が応対してくれるはず。……表向きは、狩猟祭に出るから祈りの言葉を貰いたい、という理由にしておくのが無難」
「表向き……?」
ユニスは軽く唇を歪める。
「バゼム・グラニエ……あの人に嗅ぎつけられたら厄介でしょ? あの人は、必要があれば“味方”ですら平気で利用する。今はおとなしくしているけど、かつて敵対した私たちに対して、何をするかわからない」
どこまでも冷めた声にネアは少し固まる。
紹介状を胸に収めながら、小さく頷く。
「ありがとう」
「礼を言うことじゃない。……ただ、気をつけて」
その言葉は短く、けれど重かった。
◇◇◇
翌日。
紹介状を携えたネアは、石畳を進んでいた。
白い尖塔がそびえる女神教の大教会が、視界に入ってくる。
荘厳な鐘の音が鳴り響き、広場には祈りを捧げる人々の列。
その姿を見上げながら、ネアは胸の奥で小さく息を整えた。
──魔神教に誘われた自分が、女神教の門を叩こうとしている。
不思議な巡り合わせだと、ほんの少しだけ思った。
ネアは列に並び、ゆっくりと順番を待ちながら、周囲の人々の会話に耳を傾ける。
「……ここも立派だけど、聖教国の大聖堂に比べるとやっぱりねえ」
「そうそう。あっちは女神教の総本山だし、神官の数も桁違いだって聞きますよ」
「聖教国……」
ネアが小さく呟くと、隣の信徒が親しげに微笑む。
「ええ。大陸の南方にある国ですよ。王国とはそこそこ仲が良くて、定期的に人を送り合っているんです」
「そうなんですか」
軽く頷きながら相槌を打つ。
ほどなくして順番が来る。
ユニスに書いてもらった紹介状を見せると、案内の神官は少し目を丸くし、慌てて敬礼した。
「……オルヴィク家のユニス様からのご紹介でしたか。では、司教様のもとへどうぞ」
導かれた先は、聖堂の奥にある静かな応接室。
白布の掛かった机の向こうに座っていたのは、意外なことにネアとそう変わらない年頃の少女だった。
「ようこそ。初めまして、ネアさん」
やや低めの落ち着いた声。
青みがかった髪を丁寧に編み、透き通るような青い瞳でまっすぐこちらを見つめていた。
その髪の間から、尖った耳がのぞく。
ほんの一瞬、それを見てネアは目を瞬かせた。
彼女はエルフだ。
けれど、見たところ歳はネアとそう変わらない。
長命な種族だと聞いていたのに、こんなに若い姿で司教を務めていることに、思わず小さく驚いてしまう。
その目の下には淡い隈があり、忙しさと疲労がにじんでいた。
「あなたが……この教会をまとめている司教様?」
ネアが思わず尋ねると、少女はわずかに微笑んで頷いた。
「はい。リュミナ・リーシェル=ヴェルネ=グラナードと申します」
名乗りながらも、どこか居心地悪そうに肩をすくめる。
「……ですが長いので覚えにくいですよね。ですから、どうぞリュミナと呼んでください。皆そう呼びますから」
「……う、うん。よろしくお願いします。リュミナ、さん」
ネアが戸惑い気味にそう返すと、リュミナは少し笑い、書類をまとめながら言葉を続けた。
「私の若さに驚かれたことでしょう。なにぶん、大きな組織ですので、いろいろと……事情がありまして」
「事情?」
「ええ。とはいえ、あまり気にしないでください。要するに、“若い方が扱いやすい”という人たちもいるんです」
淡々としながらも、どこか皮肉を含んだ言い回しだった。
ネアはそれ以上問い詰めず、静かに頷いた。
レセルは剣の中で、微かに振動しながらささやく。
『この子、歳の割にずいぶんといろいろ経験してるようね』
ネアは心の中で同意しつつ、正面の少女──リュミナを見つめ返す。
王都の教会で、彼女のような少女が司教を務めている。その理由が少しだけ気になった。
「こちらへ」
白布を掛けた机の上に、淡い光を放つ小さな女神像が置かれていた。
リュミナはそれを両手で包み込み、ゆっくりと目を閉じる。
「せっかくです。紹介者付きの来訪者には、祈りの加護をお授けする決まりですから」
ネアは静かに頷き、手を合わせる。
部屋の空気が一瞬にして凛と張りつめ、少女の声が柔らかく響いた。
「光の女神よ、我らの歩む道を照らし、闇の女神よ、我らの眠る場所を守り給え。世界は輪なり。生も死もその一部。心に怯えを抱く者に安らぎを、罪に囚われた者に赦しを。そして、迷う者に進むべき勇気を」
詠唱のような旋律。
それは不思議なほど落ち着きを与える声だった。
祈りの最後、リュミナは小さく息を吐き、女神像の光がふっと静まる。
「……これで終わりです」
彼女は疲れたように微笑みながらも、瞳にはわずかな温かさが宿っていた。
「さて、狩猟祭を前に来られた方は多いですが……あなたは祈りだけが目的ではないようですね?」
リュミナの言葉に、ネアはわずかに身を引き締める。
「……はい。教えを、もう少し知りたくて」
「なるほど」
リュミナは椅子に深く腰を下ろし、手を組んだ。
「女神教の教えは、いたって単純です。人の生は“光”に始まり、“闇”に帰る。生まれることは旅立ちであり、死ぬことは安らぎの帰還。私たちは光と闇の両方を受け入れ、その輪の中で生きるように導かれている──それが基本です」
「光と闇を選べるって、聞いたことがあります」
「ええ。死後の魂が“再び生を望む”なら光の道へ、“永遠の眠りを望む”なら闇の道へ。どちらも等しく尊い選択です」
静かな声。けれど、その言葉には確固たる信念があった。
ネアはしばし黙って聞いていたが、やがて意を決して口を開いた。
「……実は、街で声をかけられたんです」
リュミナの指先が止まる。
ネアは視線を落とし、続けた。
「その人は、魔神の名を出して……“祈れば力が得られる”って」
わずかな沈黙。
リュミナの青い瞳が、静かにネアを見つめた。
「なるほど」
その声は低く、どこか冷ややかだった。
「やはり、まだ王都に残っているようですね。魔神教の者たちが」
彼女は短く息を吐き、手のひらを女神像の上に置いた。
その仕草は、祈りというよりも、何かを鎮めるようだった。
「詳しく聞かせてもらえますか? ……どんな言葉で、あなたを誘ったのか」
ネアは少し言葉を探しながら、慎重に口を開いた。
「その人は……こう言っていました。“この世界を形作ったのは光と闇だけじゃない。均衡を保つ“対”の存在として魔神がいる。光があるから影が生まれるように、女神と魔神は切り離せない関係だ”って」
リュミナの指先がわずかに止まる。
ネアは続ける。
「それに、“女神は秩序と束縛を与えるだけ。でも魔神は違う。怒りも憎しみも全部、力に変える。どちらが本当の自由だと思う?”とも」
リュミナの表情が、ゆっくりと冷えていった。
それでも、ネアは最後まで言い切る。
「……あと、“女神が光と闇に分かたれたのは、人が理解しやすいように姿を変えた演出。対して、魔神はすべてを一身に抱く、一柱の存在だからこそ“対”になる”とも言ってました」
言い終えると、室内には静寂が落ちた。
女神像の光が淡く脈打ち、リュミナの青い瞳が細められる。
「──まるで教典をそのまま口にしたような言葉ですね」
リュミナは淡く笑いながらも、その目は笑っていなかった。
「魔神教は、言葉を飾るのが上手なんです。まるで真理を説くように、耳に心地よい理屈を並べる。でもその実、彼らが求めるのは“自由”ではなく“衝動”」
彼女はゆっくりと女神像の表面をなぞる。
「人は秩序を失えば、すぐ欲望に飲まれます。だから、女神は二柱で人の魂を導くのです。光は進む力、闇は休む力──それぞれが互いを律するために」
言葉は整っていて、正しいように聞こえる。
だが、ネアの胸にはどこか釈然としないものが残った。
「……つまり、女神教に従えば安心、ということですか?」
問いかけると、リュミナの微笑みがわずかに固まる。
「……“従う”という言葉は少し違いますね。“信じる”のです。光も闇も、私たちの中にある。それを制御する力こそが信仰だと、私は思っています」
その言葉は柔らかかったが、どこか疲れているようにも聞こえる。
それに、今の言い回しには妙な曖昧さがあった。
(制御……って、そのために従うのなら、同じなんじゃ)
ネアは胸の内で呟く。
リュミナはふっと息をつき、机上の書類を揃えた。
「魔神教の信者と話したことは、ここだけの話にしておいてください。女神教の中にも過敏な者は多いので」
穏やかな忠告のようでいて、どこか探るような響き。
ネアは小さく頷きながらも、心の奥で別の思いを抱いていた。
──本当に、彼女は“信じている”のだろうか。
それとも、組織の顔として“信じているふり”をしているだけなのか。
◇◇◇
教会を出ると、夕暮れの鐘が鳴っていた。
白い石畳を赤く染める陽光の中、ネアは小さく息を吐く。
『どうだった?』
腰の鞘から、レセルの声が柔らかく響いた。
「……思ったより、普通の人だった」
『でも、全部を話してはくれなかったわ』
「うん。言葉の選び方が、少し怖いくらい丁寧だった。女神教も、魔神教も……どっちも完璧じゃないんだよね」
『当たり前よ。完璧なものはない』
ふと教会の白壁を振り返る。
静かに輝く紋様が、どこか冷たく見えた。




