31話 大きな地図の前で
あれから、一週間ほどが経った。
瓦礫に埋もれていたのでしばらく安静にしていたネアだが、今ではベッドから起き上がり、グラニエ家の客人として過ごしていた。
「失礼します。お食事をお持ちしました。食べ終えたら、こちらの鈴を鳴らしてください」
使用人が朝食として運んできたのは、見慣れぬ食器と、香り高いスープ、新鮮なサラダ、焼き立ての白いパン。
添えられた肉や果物は、村どころか街でも滅多に口にできないほどのものばかり。
──ユニスの家、オルヴィク家でも十分に豪華だったはずなのに、ここはそれ以上。
貴族の中にも差があるのだと、ネアは素直に驚いた。
「……これ、毎日食べてたら太っちゃいそう」
小声で呟くと、テーブル脇に立てかけてあった剣がかすかに震える。
『心配しなくていいわ。もし太ってきたら、あなたの体を動かして、わたしが勝手に鍛錬するという方法があるから』
レセルの柔らかな声が耳に届く。
それは少しばかり脅しが混じっていた。
「えぇ、それはちょっと……」
『そういう無理矢理に痩せるやり方が嫌なら、食べた分しっかりと鍛練をするように。いいわね?』
「うーん……頑張る」
『たくさん食べる。たくさん鍛練する。そうすると実力が上がり、わたしは安心できるというわけ』
「レセルって結構、厳しい時は厳しいよね」
そんな雑談を交わしながら、ネアは残さず平らげた。なんだかんだ言っても空腹には勝てない。
食事を終えると、次はユニスがいる部屋を訪ねる。
扉を叩き、返事を聞いてから中へ入ると、そこには大きく広げられた紙──なんらかの地図を前に、ユニスが腕を組んでいた。
「それは……?」
ネアが首をかしげると、ユニスは視線を上げる。
「大陸の地図」
「大陸の……?」
聞き返すと、ユニスは軽く手招きした。
ネアは近寄り、机の上にある大判の地図を覗き込む。
「ここに書かれている文字、読める?」
「うん、読める」
素直に答えると、ユニスは小さく頷く。そして指を滑らせ、ある一角を示した。
「ここが、私たちの暮らす国。ベルフ王国。ついでに、王都はテルディという名前」
ネアは思わず呟く。
「……意外と、大きくはないね」
地図にはいくつもの国が描かれていた。
その中には、明らかにベルフより広大な土地を持つ国々もある。
ユニスはかすかに笑みを浮かべる。
「土地は広くても、魔物が強かったり多すぎて人が住めないところもある。そういう点から見れば、この国はそこまで強力な魔物がいない分、発展している方」
その言葉に、ネアは地図を見つめたまま考え込む。
自分の村は、地図の中では指先にも満たない。
けれど、大陸全体を記しているこの紙の上に、確かに存在していたのだ。
地図の線をなぞるユニスの指先を眺めながら、ネアはぽつりと漏らした。
「……なんだか、世界が広すぎてちょっと怖いかも」
ユニスはかすかに肩をすくめる。
「広さに怯える必要はない。結局のところ、人が生きられる範囲は限られているものだから」
その声には、どこか達観したような冷静さがあった。
ネアは返す言葉もなく黙り込む。
すると、腰にある剣がかすかに震え、甘い声が耳に落ちた。
『この大陸がどれほど広くても、あなたが進む道は一つだけ。わたしと一緒に進む道よ。そう思えば、世界は意外と狭い』
「……それはそれで窮屈な気もする」
『あら? わたしとずっと一緒なのよ? 窮屈どころか幸せに決まってるじゃない』
「……まあ、否定はしないけど」
ぼそっと呟くネアに、ユニスが怪訝そうな目を向ける。
「どうかした? 魔剣の言葉は私には聞こえないけど、どういうことを言われたの?」
「な、なんでもない!」
慌てて首を振ると、ユニスは軽く肩をすくめてから、再び地図に視線を戻した。
そして、ふと話題を変える。
「そういえば、屋敷の修復のこと、もう聞いた?」
「修復?」
「放っておくわけにはいかないでしょ? それにグラニエ家、というよりはバゼムの世話になり続けるのはよくない。今は魔法が使える職人を集めて、再建を急いでいる」
ネアは目を瞬かせた。
まだ一週間しか経っていない。
屋敷の大きさ、瓦礫の量、その片付けを考えると、まだ焼け跡のままではないのかと思っていたのだ。
「実際に見てみる?」
「うん」
ユニスに促され、ネアは頷いた。
グラニエ家の馬車を借りて、数分ほど移動すると到着する。
かつて炎に呑まれた屋敷の跡地。
そこでは数十人の職人たちが忙しなく動き回り、石材や木材を組み上げていた。
目を引いたのは、その手際の良さ。
誰かの魔法によって石材が滑るように宙を移動し、別の職人が魔法の紋様を刻むと木材が瞬時に形を変えていく。
「……早い」
ネアは思わず口にしていた。
村では家を建て直すにも、みんなで木を伐採し、釘を打ち、一つずつ積み上げていった。何日も、何週間もかかる作業だった。
それがここでは、魔法で支えられ、驚くほどの素早さで形を取り戻していく。
「残ってる家の財産を使って、資材を確保し、職人たちを雇った。さすがに高くついたけど」
かなりの費用がかかったのか、しかめっ面となっている。
さらにはため息も続いた。
「そうなんだ。村には……ああいう魔法を使える人なんて、いなかった」
懐かしさと、少しの寂しさが胸をよぎる。
ユニスは横目でネアを見ながら言った。
「ここは王都だから人が多い。建築や医療、農耕……目的に合う魔法を持つ者を雇うことは、お金さえあれば難しくはない。まあ、そのお金を貯めるのが大変だけども」
その言葉はどこか現実的で、どこか冷ややかでもあった。
ネアは、職人たちの魔法によって浮かび上がる石材や木材を見つめながら、ふと視線を落とした。
──村での日々を、思い出す。
朝はニワトリの鳴き声で目を覚まし、畑を耕したり水をやったり、他の子どもたちと笑い合った。
雨の日にはみんなで家に集まり、火を囲んで歌を口ずさんだ。
小さくても、確かに温かな暮らしがそこにはあった。
けれど。
(……それでも、あの人たちは)
生贄にすることを選んだ。
親がいない自分を縛り、禁呪の供物にすることを、村人全員が決めた。
その記憶が、せっかくの平穏な日々を淡く濁らせてしまう。
だから、悲しみはほんの少ししか残らない。
懐かしむ気持ちと、見捨てられた苦さとが絡まり合い、涙になることもなく、胸の奥でただ静かに疼いていた。
『……昔を思い出してた?』
「少し」
ネアはそっと息を吐き、再び職人たちの働きを見る。
魔法を駆使して積み上がる石壁は、過去の村には存在しなかったもの。
狭い村から広い世界に踏み出したのだと、改めて実感させられる光景だった。
◇◇◇
見物を終え、馬車に乗り込む。
車輪の音に揺られながら、窓の外に過ぎていく王都の石畳を眺めていた時。
ユニスが不意に、ぽつりと呟いた。
「……父が亡くなって、私はオルヴィク家の当主になった」
その声は、感情の色をほとんど帯びていなかった。
「血の繋がった相手が死んだというのに……あまり悲しくないの。弱っていたときは、確かに胸が痛んだ。でも、いざ死んでしまうと、こんなものかと冷めている自分がいる」
ユニスは膝の上で指を組み、視線を落とした。
「貧しい生活から抜け出せたことには、心から感謝してる。けれど……どうしても、それ以上の思いを抱けない。ネア、こんな私をあなたはどう思う?」
その言葉に、ネアは胸の奥にわずかな痛みを覚えた。
少しだけ迷い、そして口を開く。
「……私も、似たようなものだよ」
「と言うと?」
ユニスは興味深そうに目を向ける。
「生まれ育った村が滅んだ時……あの吸血鬼にみんな襲われてる時、涙が出るどころか、むしろ笑う自分がいた」
「…………」
「普通なら悲しいはずなのに、そうじゃなかった。村の人たちは、小さい頃からの知り合いばかりで、でも私を禁呪の生贄にすることを選んだ。だから、きっと、心のどこかで割り切ってたんだと思う。……死んでくれてすっきりした」
「そう……」
静かな馬車の中に、二人の沈黙だけが残る。
似て非なる境遇でありながら、重なる感情の淡さ。
揺れる馬車の中で、二人は言葉を足さず、ただ並んで座り続けた。




