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30話 目覚め

 甘い匂いがした。

 薬草と、洗い立ての布の匂い。

 ネアはゆっくりまぶたを上げる。

 天蓋のない白い天井、磨かれた壁面。見知らぬ広い寝室──柔らかな寝具に、包帯の感触。


 「……ここ、どこ……?」


 問いに答えたのは、枕元で光る銀の刃だった。鞘に収まったレセルが、かすかな共鳴と共にささやく。


 『目が覚めたのね、ネア。ここはグラニエ家の屋敷よ。瓦礫から救い出されたあと、ここへ運ばれたの』


 記憶が、火の色と瓦礫の重さを伴って戻ってくる。息を詰めたネアに、レセルが落ち着いた調子で続けた。


 『救助は衛兵とグラニエ家の人手が一緒に。ガルドが指揮してた。あなたは煙を吸って少し意識を失ってた。擦り傷と打撲はあるけど命に別状なし。……ユニスの屋敷は全焼。だから一時的な避難先として、彼女が判断してここを選んだの』

 「グラニエ……バゼムの家、ってこと?」

 『ええ。彼自身が受け入れを申し出たらしいわ。医師も呼ばれて、熱はもう下がってる。起き上がるのは、ゆっくりとね』


 ネアは上体を起こし、カーテンの隙間から差す外の光を見た。指先が震える。

 ──助かった。けれど、敵の懐にいるのかもしれない。

 その戸惑いを察したように、レセルが声を潜める。


 『警戒は解かないで。けど今は、体を休ませるのが先。ユニスは無事。さっきまでここの外で話をしていたわ。もうすぐ来る』


 扉が二度、軽く叩かれた。

 ネアは毛布を握りしめ、深く息を整える。


 「……どうぞ」


 扉が開き、静かな足音が響いた。

 入ってきたのは、落ち着いた外套に身を包んだユニスと、その隣に立つ青年──バゼム・グラニエだった。


 「おや、目が覚めたようだね。いやー、よかったよかった」

 「大丈夫だった?」


 ユニスはわずかに口元を緩め、ネアの枕元に歩み寄る。

 その隣で、バゼムはにこやかに微笑み、深々と頭を下げた。


 「本当に、ありがとう。オルヴィク伯爵家のために命を張ってくれて」


 そして言葉を続ける


 「グラニエ家は、新たな当主のために、屋敷の再建や後ろ楯となることを惜しまない。これからは全面的に味方するつもりだよ」


 軽やかな声音。だがその奥に何かを隠しているのが、ネアには直感でわかった。

 ユニスは彼の横顔を冷ややかに見つめ、吐き捨てるように言葉を重ねる。


 「……白々しい。あの魔剣を送り込んだのは、あなたでしょうに」


 バゼムは肩をすくめ、笑みを崩さない。


 「吸血鬼を討伐するためだったんだよ。勝手に暴れる怪物を抑えるには、あの魔剣の力が必要だった。より正確には、その腕前が。結果として、君はこうして生き延びることができた」

 「……あの襲撃者たちは?」

 「吸血鬼に怪しまれないようにするのがまず一つ。あとは、王都の治安を良くするため、荒くれ者をこちらで雇った形になる。中には魔神教との繋がりがある者もいてね。無事、今回の一件で一網打尽にできただろう?」

 「そうですか」


 ユニスの銀の瞳が細められる。あからさまに信用していない視線だった。

 だがバゼムは気にした様子もなく、むしろ軽く肩を落として言った。


 「まあ、信じられないのも無理はないね。……では本音を言うと、ユニスを排除するために打った手をすべて防がれたので僕らの負け。降参、というわけさ」


 彼の声には諦めにも似た柔らかさが混じる。

 だがベッド脇に置かれたレセルは、冷ややかな声でネアにだけささやいた。


 『ああいう胡散臭い奴の言う降参なんて言葉、真に受けないこと。このあとも平気で笑って近づいてくるわ』


 ネアは小さく頷き、慎重に問いかける。


 「……ヴァニティアという魔剣と、あの使い手の人は?」


 バゼムはわずかに目を細め、答えた。


 「彼女なら別室で治療中だよ。火傷もひどいし、しばらくは動けないだろう。ヴァニティアは折れてしまったから、魔剣の修復を専門とする鍛冶職人に預けている」

 「……そう」


 ユニスは小さく鼻を鳴らし、表情を崩さないまま。

 バゼムはひと呼吸置いて、軽く笑いながら立ち上がる。


 「まあ、君たちがここで休むのは当然のこと。……もしグラニエ家で働きたいなら、高待遇を約束するよ。とはいえ、しばらくはユニスを助けてやってくれ」


 軽い足取りで扉へ向かうと、振り返りもせずに去っていった。

 その背中を見送りながら、ネアは小さく呟いた。


 「……降参って、どれくらい信用できるのかな」


 ユニスはため息をつき、忌々しそうに肩をすくめた。


 「むかつくけど……信用していい。今のところは、だけど」


 銀の瞳がわずかに揺れる。

 そして、彼女は少し真顔に戻り、声を落とした。


 「それより、報酬のこと。屋敷が燃えたとはいえ、地下に財産は保管されていた。お金にするか、装備にするか……どちらがいい?」


 ネアは少し迷い、唇を結んで答えた。


 「……お金で」


 そう答えると予想していたのか、ユニスは頷き、小袋を差し出す。

 ずしりとした重みが手のひらに伝わる。


 「金貨二十枚。十分な額のはず」


 ネアは目を見開き、慌てて頭を下げる。


 「……ありがとう」

 「とりあえず、山場は乗り越えたから。できれば、今後も私の仕事を受けてほしい」


 ユニスは短く微笑み、そのまま立ち去っていった。

 静まり返った部屋に、金貨の重みだけがはっきりと認識できる。


 ◇◇◇


 ユニスが出ていってしばらくすると、再び扉が叩かれた。

 ぎぃ、と軋む音とともに入ってきたのは、鎧の上から外套を羽織った衛兵隊長のガルドだった。


 「む……起きておったか。よかった」


 彼は相変わらず眉間に皺を寄せており、腕を組んだままベッドの脇に立つ。

 だが、声にはどこか安堵の響きが混じっていた。


 「無事でなによりだ。屋敷の者には怪我人こそ多く出たが、幸い死者は一人だけで済んだ」

 「ゲルハルトという護衛の人、ですよね」

 「うむ。ただ、襲撃者の中には命を落とした者がある程度いる」


 厳かに告げられる言葉に、ネアはどこか険しい表情となる。

 戦いの余韻が胸に重く残っていた。


 「……そう、ですか」

 「貴族というものは、こうして民や兵の命を危うくしても己の立場を優先する。まったく……グラニエ家にせよ、オルヴィク家にせよ、口では立派なことを言いながら、結局は力の奪い合いだ。財力、権力、他にも様々なものを取り合うために、人を雇い、ぶつけ合う」


 ガルドは軽く唸り、額を押さえた。

 しばらく愚痴を吐き出すと、姿勢を正し、真面目な顔つきで頭を下げた。


 「こほん……ネア殿。王都の騒ぎを静める助けとなってくれたこと、感謝する。おかげで我らも大事に至らず済んだ。礼を言わせてほしい」


 まるで儀礼の場であるかのように、鎧の音を立て、礼儀正しく、というよりも堅苦しく深々と頭を垂れる。

 その姿は不器用ながら、まっすぐだった。


 「……顔を上げてください。そんな、大げさな……」


 ネアは慌てて手を振る。

 だがガルドは頑として首を動かさず、やがて低く言った。


 「大げさではない。貴殿がいてくれてよかった──そういうことだ」


 それだけを告げると、くるりと背を向ける。

 重々しい足音を響かせ、彼は部屋を去っていった。

 ガルドが去り、部屋に再び静寂が戻った。

 遠くでは、崩れ落ちた屋敷の後始末をする人々の声や、荷を運ぶ音がかすかに聞こえてくる。

 ネアは毛布を握りしめ、ゆっくりと息を吐いた。


 (……終わった、のかな)


 重たい疲労が体の奥まで染み込んでいる。

 けれど胸の奥には、まだ不安がくすぶっていた。

 バゼムの降参、ヴァニティアという魔剣の存在──何もかもが完璧に終わったわけではない。

 その時、枕元の鞘がかすかに震え、甘やかな声が響いた。


 『ねえ、ネア』

 「……レセル」


 剣にそっと手を触れると、赤い瞳を思わせる温かさが心に広がる。

 レセルはささやくように続けた。


 『よく生き延びたわね。本当に……よく頑張った』

 「……全部、レセルのおかげだよ。途中で力を貸してくれたから」

 『ふふ、そうかもしれない。でも、最後に剣を振ったのはあなた自身。わたしはそれが嬉しいの。あなたが自分の力で立って、わたしを選んでくれたことが』


 その声には、深い安堵と愛しさがにじんでいた。

 ネアは目を閉じ、握る手に力を込める。


 「……怖かった。死ぬかもしれないって、何度も思った」

 『怖がっていいのよ。恐怖を知っても、それでも立ち向かった。だからあなたは生き残れたの』


 心臓にそっと触れられたような感覚に、ネアは少しだけ笑った。


 「……ありがとう、レセル。これからも、一緒に」

 『ええ。ずっと一緒に。わたしの可愛いネア』


 甘やかな声が、心を包み込む。

 まぶたが重くなり、意識がゆっくりと沈んでいく。


 (これで……一区切り。次に待つのがどんな戦いでも……レセルと一緒なら……)


 最後にもう一度、剣の柄を握りしめると、そのまま毛布の中で鞘ごと抱きしめる。

 温もりを確かめながら、ネアは静かに眠りへと落ちていった。

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