3話 初めての街にて
列がようやく進み、ネアは門の下をくぐった。
足元は固い石畳に変わり、視界の先には大通りがまっすぐ伸びている。
両脇には二階建ての商家が並び、店先には色とりどりの布、果物、焼きたてのパンや肉串が並んでいた。
人の声、足音、馬のいななきが入り混じり、空気は熱気を帯びている。
『……ふふ、賑やかね。こんなに人が集まってるの、久しぶりに見たわ』
背中の剣から、声が小さく響く。
布で巻かれたレセルは、人目を避けるため剣のままだ。
「市場なんてそんなもんでしょ。でも、ここは人間だけじゃないんだね」
耳の長いエルフの商人が、木の器を並べて値段を口にし、猫の耳を持つ獣人が魚を抱えて通りを横切る。
さらにがっしりとした大柄のドワーフが、中身の詰まった革袋を軽々と肩に担いで通り過ぎていく。
『こういうの、珍しい?』
「村じゃまず見ないよ。たまーに行商人が来るくらいで。そういえば、レセルがあそこに落ちてたのってなんで?」
『行商人の荷物に紛れて移動してたけど、落ちてしまって。使い手がいない状態だと、数週間に一度しか人の姿になれないから、時間が過ぎるのを待ってたの』
歩いていくと、屋台からは甘い焼き菓子の香りが漂い、鍛冶屋の店先では金属をハンマーで打ちつける音が響く。
どこを見ても、村とはまるで違う光景
『あなたが見られてるの、少し気に入らないわね』
「……え?」
『だって、あの魚売りの男、じっと見てたわ。ああいうの、なんか嫌』
「それは、私が剣を背負っているからじゃないの?」
『やれやれね。わたしのせいで悪目立ちするなんて』
小声でやり取りしてる最中、ネアはだいぶ伸びている自らの茶色い髪を指先で少し弄る。
洗う機会がなかったため少しベタベタしている。
「こういう場所だと情報も集まるし、仕事も探しやすいかも」
『なら、しばらく滞在するのもいいわね。……ただ、夜は気をつけて』
「あの吸血鬼のこと、まだ気にしてる?」
『ええ。ああいう執念深い相手は、必ずまた来る』
言葉の中に潜む鋭さが、ネアの背筋をわずかに冷やした。
けれど、足は止めず、人の波に紛れながら大通りを進んでいく。
やがて、街の中央に近い広場へ出た。
そこでは荷馬車が何台も並び、商人たちが積み荷をロープで固定している。
木箱や樽が次々と運ばれ、馬のいななきが響く。
「……あの馬車、どこか遠くまで行きそう」
『気になるの?』
「ちょっとだけ」
ネアは一台の荷馬車の横で、馬の手綱を確認している中年の男性に声をかけた。
「すみません、この馬車はどこに向かうんですか?」
相手は手を止め、汗を拭いながら答える。
「王都までだ。ここからだと、ゆっくり行って三日ってところだな」
「三日……結構かかりますね」
「距離はあるが、あそこは別格だぞ。市場の規模も人の数も、この街の十倍以上はある。金さえあれば、何でも手に入るときたもんだ」
男性の目は商売人らしく輝いていた。
レセルが布越しに小さく話す。
『十倍……ね。あなた、行ってみたくなったんじゃない?』
「少しは。でも今すぐじゃないよ。準備もお金も足りないし」
男性は笑いながら、馬の背を軽く叩いた。
「王都行きの馬車は定期的に出てる。行くなら商隊に混ざるといい。道中は盗賊も出るから、一人旅はあまりおすすめしない」
「……覚えておきます」
軽く礼を言って広場を離れると、レセルがやや不満げな声を漏らす。
『商隊に混ざるってことは、他の人とずっと一緒ってことでしょ? あまり気は進まないわ』
「なんで?」
『だって、あなたが他の人と仲良くするの、面白くないもの』
「……はいはい」
人と馬車の行き交う喧騒を背に、ネアは次の目的である宿探しのために足を動かす。
路地を抜け、大通りに戻ると、宿の看板がいくつか見えてきた。
大きな木の看板がある店、赤い旗を掲げた安宿、そして二階の窓から花を垂らした小奇麗な宿屋。
その中から、ネアは小奇麗な宿屋の扉を押した。
「いらっしゃい。お一人かな?」
カウンターにいる女将が笑顔を見せる。
「はい。まず一泊で、部屋を一つ」
「食事は夕と朝に出すよ。お代は前払いね」
ネアは村で拾った銀貨を差し出し、鍵を受け取ると、二階の一番奥の部屋へ向かった。
部屋は簡素だが清潔で、窓からは夕暮れの街並みが見える。
荷物を置き、扉に鍵をかけると、背負っていた布をほどいてレセルを机の上に置いた。
「……もう人の姿になっていいよ」
淡い光が剣を包み、少女の姿となったレセルが現れる。
そのまま椅子に腰を下ろすと、頬杖をつき、じっとネアを見た。
「なんだか、話したいことがあるって顔ね」
「まあね。……魔剣って、そもそもどういう存在なの? レセルは“生まれた”って言ってたけど」
レセルは少し笑い、窓の外を眺めながら答える。
「この世界の魔剣には二つの系統があるわ。一つは人工的なもの、もう一つは自然に生まれたもの」
「人工的って……作られるってこと?」
「そう。優れた魔術師や熟練の鍛冶師が協力して、膨大な魔力を込めて作る。ほとんどは軍の偉い人や王族の手に渡るわね。力は強いけど、意思を持つものは少ない」
「じゃあ、レセルは自然の方?」
「ええ。何百年も前に、自然と魔力が集まって生まれた。人間が作るのとは違って、最初から“個”としての意思があるの。……ただ、それが使い手に届くとは限らない」
そう語る表情は、少しだけ寂しさが浮かんでいた。
「声が聞こえる人なんて、ほとんどいないってこと?」
「ほとんどどころか、わたしの場合はゼロだった。様々な種族の、大勢の人々に拾われたけど……誰もわたしの声を聞けず、やがて捨てられたわ」
その口調は穏やかだが、奥底に冷たい影があった。
ネアは黙って、椅子の背にもたれかかる。
「……使い手に選ばれる条件って?」
「剣の声が聞こえること。そして、触れても拒絶反応が起きないこと。魔力が合わないと、触れただけで体が焼けたり、衰弱したりするの」
「じゃあ私は、声も聞けて、触れても平気だったから……」
「そう。あなたは、わたしにとって初めての使い手。だから──」
レセルは身を乗り出し、ネアの手を取った。
その指先は柔らかく、しかし逃げられないほど強く握ってくる。
「絶対に離さない。二度と、誰にも渡さない」
「……またそれ」
「本心よ。あなたの命も、あなたの未来も、全部わたしのもの」
真っ赤な瞳が近くにある。
ネアは思わず視線を逸らし、窓の外に広がる夕暮れの街を見やった。
窓から差し込む夕陽が、街並みを金色に染めていた。
石造りの屋根の向こう、煙突から立ちのぼる白い煙。
大通りには、まだ帰り道を急ぐ人や、夜の店を開く者たちの姿があった。
「……ねえ、ネア。こうして街を見ていると、なんだか落ち着くと思わない?」
「落ち着くって……レセルは今まで街に住んだことあるの?」
「剣のまま、その辺に置かれたり、物置や倉庫に放り込まれたことはあるわ。でも、外の景色をこうして立って眺めるのは初めて」
レセルは笑みを浮かべ、ネアの隣に腰を下ろした。
その視線がふと、机の上に置かれた布に向く。
「ところで、この布……やっぱり鞘は用意した方がいいわね」
「あー、やっぱりそう思う?」
「布だと取り回しが悪いし、抜くときに引っかかるでしょ? それに、悪い意味で目立つ」
「じゃあ、明日探そう。鍛冶屋か道具屋で作ってもらえるはず」
「ふふ、わたしに似合うものにしてね」
「似合うも何も……ただの入れ物でしょ」
「大事な入れ物よ。わたしとあなたを繋ぐ、もう一つの形だもの」
ネアはなんともいえない表情でレセルを見るが、赤い瞳を見るに本気で言っているらしい。
窓の外、街のあちこちに灯りがともり始めていた。
「……そういえば、さっきの馬車の人が言ってた王都、ほんとに賑やかなんだろうね」
「興味あるの?」
「そりゃ、まあ……村でも話題になったことあるし、いつかは行ってみたいよ。でも、今はここで稼ぎながら様子見かな」
「じゃあ、しばらくはこの街で過ごすのね。なら、なおさら鞘が必要だわ。ほら、人目のあるところでは、わたしはずっと剣のままでしょ?」
「鞘の料金、安く済むといいけど」
その時、通りの下から何やら口論する声が聞こえてきた。
窓からこっそり覗き見ると、酒に酔ったらしい者たちが、道端で言い争っている。
衛兵が駆けつけ、事態はすぐ収まったが、ネアは少しだけ眉をひそめる。
「治安は悪くないって聞いたけど、油断はできないかも」
「ええ。夜は特に」
レセルはそう言い、ネアの肩に軽く頭を預けた。
「それじゃ、明日は鞘探しと仕事探しの予定で」
「ふふ、楽しみ。あなたと一緒なら、どこにでも行けそう」
窓の外では、夕暮れの光がゆっくりと夜の闇に飲まれていく。
遠くで鐘が鳴り、街の一日が終わりを告げた。
この穏やかな時間が長く続く保証はない。
けれど今は、ほんの少しだけ、ネアもその安らぎを受け入れていた。