29話 瓦礫の中で重なる二人
──熱い。
息を吸うたび、肺の奥に焦げた匂いが突き刺さる。
ネアはゆっくりとまぶたを開けた。
視界は薄暗く、天井も壁もなく、瓦礫の隙間からわずかに光が差し込んでいる。
「……っ」
体を起こそうとして、重みを感じた。
視線を動かすと、白い髪の少女──人の姿を取ったレセルが、覆いかぶさっている。
「よかった……ネア。ちゃんと息してる」
その声はかすかに震えていたが、赤い瞳は確かに安堵に揺れていた。
近くで見ると、レセルの腕は瓦礫を背中で押し返すために伸ばされ、煤にまみれ、ところどころに赤い擦り傷のようなものが浮かんでいた。
あちこちに土埃がこびりつき、髪には火の粉で焦げた痕すら残っている。
どれほど無理をして、この空間を支えてくれたのかが一目でわかった。
ネアは唇を動かそうとするが、喉が渇いて声にならない。必死に息を吸って、やっと一言を紡ぐ。
「……守って、くれたの?」
レセルは小さく頷いた。
「ええ。人の姿でも、わたしは頑丈なのよ? だから潰されずに済んだ。腕を伸ばして踏ん張る必要があったけど。……でも、これ以上は無理。押し退ける力まではない」
周囲を見回すと、瓦礫が折り重なり、どこまでも重苦しい影を落としている。
それでも、奇跡的にいくつかの木材や石が組み合わさって空間を作り、押し潰されずに済んでいた。
そして、その暗がりの中──。
半ば折れ、煤にまみれた黒い刃が転がっていた。
「あれは……」
それは、ずいぶんと短くなった魔剣ヴァニティア。
すぐそばには、黒い革装束の女性が血を流して倒れていた。
胸がかすかに上下しているので生きてはいる。
だが、その息は細く、いつ絶えてもおかしくないほど弱々しい。
「……生きてる」
ネアが小さく呟くと、レセルは眉を曇らせた。
「向こうは意外と運がいいわね。ほんの少し崩れ方が違っていたら……とっくに潰されてた」
瓦礫の重圧がじわりと軋みを伝え、今も不安定な音を立てている。
ネアはごくりと唾を飲み込み、震える手でレセルに触れた。
「……ここから、出られる?」
「無理。今のわたしにできるのは、あなたをこうして守ることだけ」
レセルは悔しそうに目を伏せ、拳を握りしめる。
ネアもまた、唇を噛んだ。
(……生き残ったのはいいけど、このままじゃ……)
焦燥と静寂が入り混じる中、瓦礫の影に横たわる短くなった黒い刃が、不気味に光を反射していた。
重苦しい静寂が支配する瓦礫の空間。
炎の轟きは遠く、ここではただ崩れた石の軋む音と、息遣いだけが響く。
「……ネア」
覆いかぶさったまま、レセルが低く呼ぶ。
赤い瞳がまっすぐにこちらを映し、わずかに潤んでいた。
「あなたが無事で、本当に……よかった」
その声には、安堵と同時に、焦がれるような熱が宿っている。
ネアが返事をする間もなく、レセルは顔を近づけてきた。
「……え?」
次の瞬間、唇に柔らかなものが触れた。
軽い、けれど確かに触れる口づけ。
あまりに唐突で、ネアの頭は真っ白になった。
「……っ!? な、なに──」
慌てて身を引こうとするが、狭い瓦礫の中では動く余地がない。
レセルは頬を寄せたまま、甘くささやいた。
「ごめんなさいね。でも……怖かったの。もしここであなたを失っていたらって、考えるだけで」
胸の奥からこぼれるような声。
ネアは心臓を早鐘のように打ちながらも、かろうじて言葉を返す。
「だ、だからって……こんな時に、キスするなんて……」
「こんな時だからこそ、よ」
レセルは柔らかな笑みを浮かべた。
「命の危機にあっても、わたしはあなたを愛してる。それを伝えたかったの」
瓦礫の中、息苦しいはずの空気が、逆に熱を帯びていく。
ネアは真っ赤な顔を両手で覆い、呆然と呟いた。
「……し、信じられない……」
「ふふ……驚いた顔も可愛い」
レセルは満足そうにささやき、再びネアを守るように抱き寄せると、何度も口づけをする。
その温もりが、重苦しい瓦礫の中で唯一の安らぎだった。
ネアは動けず、熱を帯びた顔を両手で覆う。
けれど──このままではいけない。
余韻を振り払うように、瓦礫に転がった黒い剣へ手を伸ばした。
「……っ!」
柄を握り込んだ瞬間、頭の中にざらつくような声が響き渡る。
『……やれやれ、イチャイチャしすぎだろ。こっちはずっと見えてるんだが』
呆れたような声に、ネアは思わず顔を赤くした。
「み、見えてたの……?」
『当然だ。俺は砕けて折れたが、この程度で死にはしない。魔剣としては使い物にならないが。まったく、瓦礫に埋もれてるってのに、いちゃつく余裕があるとはな……』
くつくつと笑う気配のあと、ヴァニティアは声を低めた。
『……しかしまあ、驚いたよ。まさか俺に対する資格までも持っているとは』
「資格……?」
『ああ。意思を持つ魔剣に選ばれるのは、ほんの一握りだ。普通の剣や作られた魔剣なら誰でも振るえるが、俺たちのような存在は違う。器を拒むこともあるし、耐えきれず壊れる人間もいる。……だが、お前は握った瞬間に、俺の声が聞こえるほどすぐ繋がった』
その言葉に、ネアは真面目な表情になる。
思い返せば、レセルを手にしたあの日も同じだった。
「……どうして?」
『さあな。だが少なくとも、資質はあるらしい。……不幸な資質だがな』
「不幸な、素質……」
冷たい響きに、レセルがすぐさま反発するようにささやく。
「ネアは不幸なんかじゃない。わたしに出会ったからこそ、今ここに生きてるんだから」
両方の声に板挟みになり、ネアはぎゅっと眉を寄せる。
それでも問いかけずにはいられなかった。
「……じゃあ、ヴァニティア。あなたを送り込んできたのは、誰? どこの誰が、ユニスを襲うために……」
瓦礫の隙間で火の粉がぱちりと弾けた。
暗い空気の中、黒い剣の声はしばし沈黙し、やがて含み笑いを漏らした。
『ははは。まあ、その質問が出るのは当然か。……俺を送り込んだのは、グラニエ家の人間だ』
唐突に放たれた名に、ネアの心臓が跳ねた。
「……バゼム、なの?」
『名前までは言わん。だが、あの家が俺を送り込んだのは確かだ。……あの吸血鬼の尻拭いをさせるためでもあるが』
声は妙に愉快そうで、同時にどこか冷めていた。
『最初からあの化け物は、暴れすぎていた。村を焼き、勝手に人間を狩り、計画を乱す。俺の“無効化”があれば制御できると思ったのだろう。だがな──結局は不要だった。それだけの話だ』
瓦礫の隙間で、血に濡れた使い手の女性が小さくうめいた。
「人を道具扱いして……!」
『勘違いするな。俺は器を大事にしてる。さっきも言ったろう? 自分の意思で望むままに動くために必要だからな。……この女もまだ生きているさ。眠り続けているだけでな』
その声には冷淡さと皮肉、そしてどこかしら矛盾する“執着”がにじんでいた。
レセルがすぐにささやく。
「……あの女の人は不幸ね。こんな魔剣に捕まってしまうなんて」
ネアは剣を握りしめ、胸の奥に重いものを抱いた。
(……ヴァニティアは折れて、魔剣としての力を失った。ならこの人は、どうなるんだろう)
その時、遠くからかすかな声が聞こえてきた。
「こっちだ! 生存者がいるぞ!」
「瓦礫をどけろ!」
人の叫びと木材を砕く音が、次第に近づいてくる。
瓦礫の隙間から差し込む光がわずかに広がり、煙の中で舞い踊った。
『……ふん、助けが来たか。だが忘れるなよ、小娘』
黒き剣の声が、瓦礫の隙間に反響する。
『俺と繋がった時点で、お前は“二つの魔剣の使い手”になった。その意味が何か……いずれ嫌でも思い知ることになる』
その言葉に、ネアはぎゅっと唇を噛んだ。
やがて首を横に振り、迷いなく言い返す。
「違う。……私の剣は、レセルだけ」
レセルはその答えにとても嬉しそうな笑みを浮かべると、甘い声を響かせる。
「ええ、そうよ。わたしだけの使い手、わたしだけの主……でしょ?」
瓦礫の重みの中でも、その声は確かに温かかった。
ネアは胸の奥に湧き上がる決意を抱きしめる。
「あなたの力なんて、借りない。どんな意味があるって言われても……私には、レセルがいるから」
短い沈黙のあと、ヴァニティアはくつくつと笑った。
『……あくまでも一つの魔剣だけを選ぶか。いいだろう。別にそれでも構わない。俺以上に、使い手に執着してる魔剣がいるようだしな』
ネアは答えず、倒れた使い手の女性へ手を伸ばして触れた。意識はないが、確かに生きている。
その耳に遠くから「あそこにも埋まってる!」「崩さないよう気をつけろ!」という声が近づいてくる。
「そろそろ、わたしは剣に戻るわ」
「うん。ヴァニティア、今見たことは黙っててくれる?」
『いいとも。使い手のいる魔剣のためなら、雇い主には言わないでいてやる』
瓦礫の隙間から差し込む光が広がり、救いの手は少しずつだが近づく。
それと同時に、意識が薄れ始めていた。
「あ、れ?」
「いけない、煙が──!」
そのまま目の前は真っ暗になった。




