23話 吸血鬼が現れる夜
何日かの平穏を経て、王都の空気は再び騒がしくなっていた。
吸血鬼の噂に怯える人々に紛れて、盗人や浮浪者までもが活動を活発化させ、市街では衛兵隊による大捕物が始まったのだ。
夜ごと鐘が鳴り、逃げ惑う群衆と怒号が路地を揺らしていた。
「はぁ……ここにまで聞こえてくるとか」
屋敷の客間で羽ペンを置いたユニスが、窓の外に視線をやる。
灯火が風に揺れ、遠くから金属のぶつかり合う音が響いてくる。
ネアも胸騒ぎを覚えながら腰の剣に触れた、その時。
「お嬢様! た、大変で……!」
扉が乱暴に開き、屋敷の兵士に支えられながら、血に濡れた外套の男性が駆け込んできた。
彼はユニスが雇っている情報屋であり、街中の噂を拾ってくる裏方の一人。
そして数少ない、信頼できる人員でもあった。
そんな彼は、息も絶え絶えに膝をつき、土と汗で汚れている顔をあげる。
「市街は……大捕物で……衛兵が……走り回ってます……。ですが、その影に……“本物”が、紛れて……!」
「本物……?」
ネアの背筋に冷たいものが走る。
ユニスは立ち上がり、鋭い声で問い詰めた。
「まさか、吸血鬼が」
「ええ……。今は潜んで……いますが……大捕物の騒ぎに……紛れて……市街に……」
言い終えるより早く、男性の体ががくりと崩れ落ちた。
床に血が広がり、外套の下から深い傷がのぞく。
意識はあるが言葉はもう続けられず、苦しむ声だけが漏れた。
「……っ!」
ネアは駆け寄って必死に抱き起こした。
幸い命はまだ繋がっているが、このままでは危険だ。
ユニスの表情がわずかに曇る。
「……やっぱり来ている。避難を──」
「どこに避難しても、同じ」
ユニスの言葉を遮るように、ネアは強く言い返す。
心臓が早鐘を打ち、指先は冷えて震えていた。
だが、声だけはしっかりと出す。
「どうせ狙われるなら……! こっちから脅威を叩いた方が、今後楽になる」
腰の剣が、静かに共鳴するように熱を帯びる。
レセルの声が、甘くも鋭く響いた。
『その通りよ、ネア。しかも今なら衛兵の戦力を利用できる。あのガルドなら、この状況では必ず前に立っているはず。共闘できるなら勝機はある』
ユニスは少し考え込んだあと、やがて頷いた。
銀の瞳には迷いの光はなく、決意の冷たさが宿っている。
「……わかった。なら行きましょう。生き残るために」
こうして、夜の王都へと踏み出すことを選んだ。
屋敷から駆け出した一行は、ユニスの指示で数人の兵を伴っていた。
夜の王都はざわめきに満ち、大通りは逃げ惑う人々と駆ける衛兵で混乱している。
けれども、それ以上の危険は見当たらない。
「……思ったより、荒れてはいない」
「確かに」
剣の柄を強く握るネアの言葉に、ユニスも小さく頷く。
だが次の瞬間、ネアの耳がぴくりと反応した。
(この声は……!)
喧騒の合間に、聞き覚えのある低い声が届いた。
「退けぇい!」と鋭く響くその声は、あの堅物の衛兵隊長──ガルド・グリムロックのもの。
「……あっち!」
ネアは裏通りへ駆け出した。
人気の途絶えた路地は異様に静かで、血の匂いと金属の打ち合う音だけが響いている。
そこにいたのは、灰色の石壁を背に剣を構えるガルド。
その周囲には、血を流して倒れ、苦痛にうめく隊員たちの姿が散らばっていた。
まだ息はあるが、立ち上がれる者はいない。
「ぐっ……むむむむむ……!」
ガルドは額から血を流しながらも、怯むことなく剣を振るう。
その有り様はまるで鉄壁。
後退すれば部下を見捨てることになるため、一歩も引くことなく立ち続けている。
対峙するのは──銀の髪、蒼白の肌、赤黒い瞳を輝かせた吸血鬼。
あの夜、ネアの村を滅ぼした張本人。
「……まだ抵抗するか、人間」
吸血鬼は舌なめずりし、鋭い爪を閃かせた。
鬱陶しげに視線を細めながらも、決して背を見せることはしない。
吸血鬼が警戒し続ける程度には、ガルドは実力ある者であった。
「ぬぅぅ……! 部下を見捨てられるか!」
渾身の気迫を込め、ガルドは吸血鬼に切りかかる。
金属と肉の擦れるような衝撃音が、路地に響き渡った。
「……手伝う!」
駆け寄るネアに対し、レセルが腰の鞘から声をかけた。
『間違いない……あれは、あなたの村を滅ぼした“あの吸血鬼”。まさかの再会ってところね。それじゃ、復讐といきましょうか、ネア』
心臓が激しく脈打ち、全身に震えが走る。
目の前の存在は、こちらが逃げてもまたこうして出会う可能性がある。
ならば──戦うしかない。
「来るな! ここは危険だ、下がっていろ!」
怒鳴るようなガルドの声が飛んでくる。
その剣はなおも吸血鬼の爪を受け止め、火花を散らす。
しかしネアは腰の剣に手を添え、強く首を振った。
「……下がれない!」
鞘から銀色の刃を抜き放つと、耳の奥にレセルの声が響く。
『いいわネア。わたしと一緒に、あいつを必ず仕留める!』
身体に熱が広がり、筋肉が軋む。
吸血鬼の瞳がこちらを向いた瞬間、全力で駆け出す。
「はあっ!」
剣が吸血鬼の腕をかすめ、赤黒い血が飛ぶ。
驚いたように相手の瞳は細められた。
「この、小娘が……!」
怒声と共に、鋭い爪が振り下ろされる。
だがガルドが即座に割り込み、盾のように剣で受け止めた。
「うむ……見事! その腕前を見るに、軽々しく言葉を挟むべきではなかった……!」
堅苦しいながらも、認める響きがあった。
その背後から、鋭い声が重なる。
「──下がって!」
ユニスだ。
両手を突き出し、炎を凝縮させる。
灼熱の火球が轟音と共に放たれ、吸血鬼の背へと直撃した。
「ぐっ……! おのれ……」
炎が路地を赤く照らし、焼け焦げた匂いが立ち込める。
だが吸血鬼は崩れ落ちず、口元を歪めて笑った。
「……ふん、その歳でそれだけの魔法が使えるのは称賛するが、この身を焼き尽くすには足りぬ」
嘲笑と同時に、影が揺らめく。
素早く壁を蹴り上がり、吸血鬼の姿は闇に溶けた。
「逃げた……!」
ネアは息を切らし、剣を握り直す。
路地には倒れた兵たちのうめき声と、焦げた匂いだけが残される。
ガルドはしばし敵の消えた闇を睨み──やがて重々しく息を吐いた。
「……王都で剣を抜いたこと、そして攻撃魔法を放つのは規律違反であるが、今回は例外とするほかあるまい」
その言葉に、ネアは胸を撫で下ろした。
ユニスも銀の瞳を細め、短く頷く。
「……助かりました、ガルド隊長」
「礼は不要だ。むしろ感謝すべきはこちらであろう。あの怪物に、確かに傷を負わせたのだから」
ガルドの視線がネアに向けられる。
その堅い声の奥に、わずかだが敬意の響きがあった。
◇◇◇
吸血鬼の影が闇に消えたあと、路地には重苦しい沈黙が落ちていた。
倒れた兵たちはうめきながらも命は繋がっている。
それを確認したガルドは、剣を鞘に納めた。
「……あれは明らかに吸血鬼。王都に潜んでいたこと、上に報告せねばならぬ」
眉間に皺を寄せ、堅苦しい声で言い切る。
だがその直後、ユニスが一歩前へ出て首を横に振った。
「お待ちを。報告すれば、王都中が混乱に陥ります」
「なに……?」
ガルドの太い声が揺れる。
ユニスは炎を灯したばかりの手を下ろし、冷ややかに続けた。
「“吸血鬼が出た”という噂だけでも、人々は怯えて動きを乱している。そこへ公的な報告があれば、商団は逃げ、住民は我先にと避難し……治安維持どころではなくなるでしょう。そして吸血鬼は人々に紛れて逃げてしまう。それは新たな襲撃の機会を与えるだけ」
「ぬぅ……」
ガルドは腕を組み、低く唸った。
だがユニスは銀の瞳でまっすぐに射抜き、言葉を重ねる。
「必要なのは“討伐の実績”です。騒ぎ立てず、確かに仕留めたという結果を示せば、それで事足りる。……違いますか?」
重苦しい沈黙。
ガルドは顎を引き、しばし考え込んだ末に頷いた。
「困ったことだが……理はある。うーむ、確かにその通りだ」
その声には、譲るしかないと悟った響きがあった。
そして彼は、真剣な眼差しでネアとユニスに向き直る。
「よかろう。我がグリムロック隊は、この件において貴殿らと内密に協力しよう。吸血鬼を討ち果たす、今はそれが最優先だ」
「……うん!」
「感謝します」
ネアとユニスが同時に答える。
その瞬間、鞘の中から甘やかな声が届く。
『ふふ、いいわね。使える囮、もとい頼れる仲間が増えたわ』
夜の路地に、わずかな希望の火がともった。




