21話 厄介な来訪者
屋敷の食堂には、銀の器に盛られた焼き立てのパンと、香草を添えた卵料理の香りが漂っている。
ネアは未だ慣れない貴族の朝食にやや緊張しつつも、ユニスと向かい合って席に着いていた。
「……王都のパンって、村のより軽くてふわふわで柔らかいんだよね」
「まず粉の質が違う。それに生地の作り方や、あとは焼き方もいろいろと手間を加えてるから。その分、高くなるけど美味しい」
ユニスはいつも通り淡々とした口調で答え、ナイフを滑らかに動かしてパンを切る。
手で持ってかぶりつくネアとは対照的だった。
その穏やかな時間を破るように、廊下から慌ただしい足音が響いた。
「お、お嬢様!」
扉が開かれ、若い使用人が息を切らしながら頭を下げる。
顔は蒼白で、手にしていた盆は小刻みに震えていた。
「急なご来客が……! バゼム様が、すでに玄関に……!」
「っ……」
ユニスの表情がわずかに強張った。
ナイフを皿に置くと、短く息を吐いて立ち上がる。
「……支度を整えます。客人を案内して」
「は、はい!」
使用人は慌てて下がり、再び静寂が訪れた。
ネアは気になってユニスを見上げる。
「バゼム様って……誰?」
「グラニエ家というところの、親戚筋の人。……そして、とても厄介な人でもある」
「厄介……?」
「言葉で説明するよりも、見ればわかる。判断は、あなた自身でして」
それ以上は語らず、ユニスは銀の瞳を伏せる。
その仕草には、冷静を装いながらもわずかな緊張が浮かんでいた。
重厚な玄関扉が開かれると、涼やかな風と共に一人の男性が現れた。
年の頃は二十代後半。濃い栗色の髪を後ろで束ね、外套を軽く肩に掛けた姿は洗練されている。
口元には人懐っこい笑みを浮かべ、目は細く、どこか底を測りづらい光を宿していた。
「ユニス、久しいね。おや、パンの香りが……もしかして朝食の邪魔をしてしまったかな?」
声は穏やかで、親しみすら感じる。
彼は何の遠慮もなく玄関から堂々と踏み込み、片手を軽く広げて見せた。
「まあそれはともかく、まさかこんな時に、こうして元気そうな顔を見られるとは思わなかったよ」
軽快な口ぶり。
だが、その言葉の端には、命を狙われていたことをあえて思い出させるような含みがあった。
「……バゼム・グラニエ」
ユニスは名を呼び、わずかに冷たい声色で応じる。
銀の瞳は揺らがず、しかし硬さを帯びていた。
「突然の来訪、どのようなご用件でしょうか」
「あらら、冷たいねえ。用件? そんな大層なことじゃないさ。心配になって、様子を見に来ただけだよ。親戚の一人としてね」
「こんな朝からですか」
「いろいろと予定が立て込んでいてね」
バゼムは気さくに肩をすくめる。
その笑顔は柔らかいのに、背後の兵や使用人たちはどこか張り詰めた空気をまとっていた。
ネアは一歩下がり、腰の剣にそっと手を添える。
彼の目が自分に向けられた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「……おや?」
バゼムはにっこりと笑みを深める。
その声には悪意の欠片もない。むしろ、友好的にすら思えた。
「こちらは初めてだね。ユニスの護衛かな? 若いのに立派だ」
「……えっ、あ……」
気さくな調子に、思わず返答を詰まらせるネア。
その様子を横目に、ユニスは一歩前へ出た。
「──この子のことは気にしないで。大事な護衛だから」
バゼムはわずかに目を細め、口角を上げる。
「……ふぅん」
その一瞬、笑みの下から黒い影のようなものが覗く。
だがすぐにいつもの気さくな様子に戻り、両手を広げて見せた。
「いやいや、疑うつもりはないさ。ただちょっとばかり、仲良くしたいだけだよ」
広い一室に移動したあと、三人はソファに腰を下ろした。
卓上には紅茶と菓子が用意され、バゼムは気さくな仕草でカップを掲げる。
「いやぁ、この屋敷に来ると落ち着くね。書庫の管理も、昔と変わらず整っているようで安心したよ。僕は幼い頃からここで帳簿を読むのが好きでね。覚えてるかい、ユニス? 一度、退屈して本棚を倒したことがあったろう。君がここに引き取られたばかりの時期に」
「……ええ、ありましたね。それで、倒したあなたが父から説教を」
「ははは、叱られたのは僕の方だったのに、君まで巻き添えで泣いてたじゃないか。いや、涙目だったかな? あの頃から真面目すぎるのは、少しは治ったかい?」
気安い語り口に、使用人たちの表情は和らいでいく。
ユニスも表面上は落ち着いて受け答えしていたが、その銀の瞳には冷えた色が宿っていた。
「しかし……立派になったよ。伯爵殿が寝込んでいる間、娘である君がよくやっていると耳にしている。寄付金の処理も、領民への対応も。若いのに大したものだ」
「お世辞はいりません」
「お世辞じゃないさ。僕が同じ立場なら、すぐに投げ出してるよ」
気楽そうな言葉の裏に、計算高さが覗く。
バゼムは紅茶を一口含み、わざとらしくため息をついた。
「でもね、ユニス。家を背負う者は、孤独になる。誰もが支えてくれるわけじゃない。むしろ、親戚の中には君を妬む者だっている」
「…………」
「僕は違う。僕は味方でありたいと思っているよ。孤独な君の」
口調は優しい。けれども孤独という言葉を強調するその響きは、どこか人を追い詰めるようでもあった。
ネアは居心地の悪さを覚え、剣の柄をわずかに握り直す。
「そうそう──聞いたよ」
不意に、バゼムが声を低める。
にっこりと笑みを浮かべたまま、ユニスを見つめた。
「魔剣使いに襲われたそうじゃないか。命を狙われたって話を耳にした」
「……ええ。危ないところでしたが、なんとか」
「不思議でならないんだ」
紅茶のカップを傾けながら、彼は軽く首をかしげる。
「その魔剣は……たしか“魔法を無効化する”性質を持っていたはずだろう? なのに魔法が使える君がこうして無事に戻れた。……まるで、他にも“魔剣使い”がいたように聞こえる」
その言葉と同時に、バゼムの視線がちらりとネアに流れる。そして剣の収まった鞘にも。
ほんの一瞬だったが、鋭さを隠しきれない光が走った。
「……っ」
ネアはわずかに固まる。そして思った。
(どうして、あの場にいなかった人が無効化する魔剣の能力を……!?)
腰の鞘から、ため息混じりの声が響く。
『この胡散臭い優男に振り回されないで。わざわざあんなことを言うのは、おそらく確信があるからよ。ユニスを護衛した魔剣使いがここにいるという確信が、ね。だから確認がてら直接ここに来た。……あいつは、あの厄介な魔剣を送り込んだ張本人』
心臓が強く打ち、冷たい汗が背を落ちる。
バゼムはあくまでにこやかに笑みを保ったまま、紅茶を置く。
「まあ、いずれにせよ、無事で何よりだ。親戚としては、それが一番嬉しい」
柔らかい声とは裏腹に、その言葉は刃のように冷たく響いた。
紅茶を飲み干したバゼムは、静かに椅子から立ち上がる。
その所作はあくまで優雅で、気取らない。
だが、笑顔の裏からは、やはり冷たい影が透けて見えた。
「さて、今日は顔を見に来ただけだから、このあたりで失礼しよう」
軽く外套を翻し、玄関へと向かう。
扉の前で足を止め、振り返った彼の目が銀色の瞳を射抜いた。
「次に会う時は──そうだな。いろいろ落ち着いてるといいけどね」
にっこりと笑みを浮かべたまま、彼は言った。
それは未来への期待を装いながらも、嵐が来ると暗に告げる言葉だった。
ユニスは無表情で見返し、短く頷いただけ。
やがて扉が閉ざされ、静寂が戻る。
ネアは無意識に肩から力を抜き、息を吐いた。
「……なんだか、怖い人だった」
『当然よ。あの男は“敵”だもの』
レセルのささやきは、冷ややかで確信に満ちていた。
ユニスは窓の外に視線を向け、誰にも聞こえないほどの小声で呟く。
「……やっぱり、あの人が動き始めた。立ち向かう用意を急がないと」
「勝てる……?」
ネアは恐る恐るといった様子で尋ねた。
「勝たないと私は死ぬ。だから、少しでも勝つ確立を高めるためにあなたを雇った。とはいえ、手数が足りないから、家の財産を使って他にも人を雇うけれど」
そう答える顔は、どこまでも険しい。
生まれついての貴族に、貧民窟生まれの者がどこまで対抗できるのか。
ユニスはその小さな体で、必死に今後を考えていた。




