20話 貴族の行事
屋敷の大きな一室には、これまた大きな机が存在し、文書や印章、金の盆に載せられた小さな献金袋が整然と並んでいた。
ユニスはきちんとした深緑のドレスに着替え、髪もまとめられている。
昨日まで路地裏で必死に逃げていた少女と同じ人物とは思えなかった。
「……では、この寄付金を教会に」
「承りました、お嬢様」
事務を担う役人が淡々と書き記し、横に控える使用人が小さく会釈する。
その動作は丁寧ではあったが、笑みはなく、瞳は冷たい。
「こちらは、税の軽減を求めてきた村人からの嘆願書です」
「後日に再審。まずは領内の会計を確かめてから。──次を」
ユニスは迷いなく書簡に目を走らせ、署名を入れていく。
その表情は冷ややかで、まったく隙を見せない。
ネアは少し離れた場所で椅子に座り、思わずぽつりと呟いた。
「……昨日まで命を狙われてたのに、こんなふうに堂々としてるなんて」
『貴族は、舞台の上の役者みたいなものよ。命を狙われていようと、観客の前では演じ続けるしかないの』
レセルの声が鞘の中から響く。
確かに、ユニスは毅然とした“貴族の娘”を演じきっている。
だが、来客や使用人の態度はどこか冷淡で、形ばかりの礼だけ。
「こちらの贈り物は、受け取ったと伝えて」
「はっ」
重苦しいやり取りが続く中、ネアは居心地の悪さを拭えなかった。
きらびやかな机と人々のやり取りは立派に見えるのに、どこか空っぽで冷たい。
(……家のことを一人で背負ってるんだ……)
昨日の路地におけるユニスの姿と、今の彼女が重なり合わず、ネアはただ見つめることしかできない。
午前の行事を終えたあと、ユニスはネアを伴い、屋敷の奥へと足を進めた。
重厚な扉の前で足を止めると、侍女が恭しく頭を下げて開ける。
「ここは……」
「昨日、通り過ぎた父の部屋。……現状を見てもらいたいから」
低く呟いてから中に入る。
薄暗い部屋には薬草と薬液の匂いが漂い、厚いカーテンが外の光を遮っていた。
大きな寝台に横たわっているのは、白髪交じりの壮年の男性。
オルヴィク伯爵家の当主にして、ユニスの父親。
胸はわずかに上下しているものの、目は閉じられ、口からはかすれた息が漏れるだけ。
「……この人が、ユニスのお父さん」
ネアは足を止め、思わず声を潜める。
枕元に座ったユニスは淡々と父の手を取り、軽く握りしめた。
「医師は“毒の影響で長く動けないだけです”と言っている。でも……回復の兆しはまだない」
その声は冷静だったが、指先はわずかに震えていた。
ネアはしばらく黙っていたが、やがて首をかしげる。
「でも……なんでユニスだけが狙われてるの? お父さんがいなくなってしまえば、一番早く片がつくんじゃ……」
その疑問には、レセルが答えた。
『違うの、ネア。権力は“名義”にあるのよ。寝たきりでも、当主は当主。父親が生きている限り、家の権威と財産は、娘のユニスではなく伯爵の名の下にある』
「……じゃあ」
『だから先にユニスを消す。そうしないと、すべて相続されてしまうから。ユニスが消えれば、残されるのは動けない当主だけ。正当な後継者がいなくなれば、あとは伯爵が亡くなるのをゆっくり待てばいい。そして最後は、財産も領地もすべて親戚たちに分配される。効率的で、誰も疑わない方法よ』
淡々とした説明に、ネアの背筋がぞわりと冷えた。
ネアはベッドの上にある、やつれた横顔を見つめながら、小さく拳を握りしめる。
ユニスは銀の瞳を伏せ、わずかに唇を噛んだ。
「父が亡くなる前に、家のすべてを相続できる私を亡き者にしようとしてる。そのための動きは、近いうちにあるはず」
静かな声が部屋に沈み、しんとした空気が漂った。
◇◇◇
午後、ユニスは書庫へと足を運んだ。
高い天井まで届く棚にはびっしりと本や書簡、帳簿が詰まっている。
古びた羊皮紙や紙の匂いが漂い、外の喧騒とは別世界のように静かだった。
「私は調べたいものがあるから、しばらくここで過ごす。もし、待ってる間退屈なら、許可された範囲のものを読んでもいい。ここから、ここまでのを」
そう告げると、ユニスは分厚い帳簿を抱えて奥の机へ。
ネアは棚の低い段を眺めながら、手近な書物を取り出した。
「……薬草の図鑑?」
開けば、見慣れない植物の絵と効能が書かれている。
ページをめくるうちに、懐かしさが広がっていく。それと少しの悲しさも。
「村にいた頃は、こういうの全然なかったな。……みんな、爺ちゃん婆ちゃんの知識を頼りにしてて」
『薬草を煎じたり?』
「うん。風邪をひいたら、何かの草を煮た苦い汁を飲まされて。味は最悪だったけど……今思えば効いてたんだと思う」
小さく笑いながら、ネアは指でページをなぞった。
ふと視線を上げると、少し離れた棚の隙間に、ひっそりと押し込まれた封筒の束が目に入る。
気になって手を伸ばすと、埃をかぶった数枚の書簡が現れた。
すでにユニスが読んでいるのか開封済み。
「……これ、古そう」
折り畳まれているので慎重に開いてみると、中には簡潔な文言が並んでいた。
《オルヴィク家の財は次代にて分割すべし》
《当主と娘が共に倒れた折は、相談して分配すること》
ネアは眉を寄せ、手の中の文字を見つめた。
そこにはあからさまに、ユニスの存在を“排除”した前提で書かれたやり取りが記されていた。
『やっぱり、親戚とかが財産を狙っているのね』
「……村だって、似たようなものだった。小さな土地や家畜を、誰が継ぐかで揉めたりして」
『でも、これは村とは比べものにならない。伯爵家の領地と財産が動けば、多くの人が巻き込まれる』
レセルの冷静な声に、ネアは静かに息を吐いた。
(……ユニスの“孤独”って、こういうことなんだ)
手の中の書簡を丁寧に畳み直し、元の場所へ戻す。
重たい気持ちを抱えながら、ネアは再び棚に向き直る。
◇◇◇
夕刻前、屋敷の訓練場。
そこでは数人の兵士が木剣を打ち合わせ、掛け声を上げていた。
その中の一人がネアに気づき、にやりと笑う。
「おう、あんたがユニス様の雇った子か。……物好きだな」
「え……」
「いや、悪い意味じゃねえ。俺たちも暇つぶしが欲しくてな。軽く手合わせしてみねえか?」
軽口に誘われ、ネアは戸惑いながらも頷いた。
木剣を受け取り、向かい合う。
兵士は大振りではなく、探るような剣筋で打ち込んでくる。
「──っと、なかなかやるじゃねえか」
「はあっ……!」
何度か打ち合い、軽い音が周囲に響く。
腕にずしりと重みが残るが、ある程度余裕を持って返していると、相手は小声で話しかけてきた。
「……あまり大きな声じゃ言えねえがな。この屋敷から出てく奴、ちらほら出てきてるんだ」
「え?」
「先行きが怪しいからよ。俺らも、いつかはやばいことになるんじゃねえかって噂してる」
木剣がぶつかる音に紛れながら、兵は肩をすくめた。
ネアは息を整えつつ問い返す。
「じゃあ、あなたたちは移らないの?」
「貴族の屋敷よりいい働き口なんて、そうそう見つからねえよ。だから残る。……ま、俺たちも腹を括るしかないってわけだ」
最後に木剣を強く打ち合わせ、稽古は終わった。
兵士は笑って背を向け、仲間の輪へ戻っていく。
『どこでもやっていける腕のある者は、さっさと出ていく。残っているのは、そうではない者ばかり』
腰の鞘からレセルの声がひそやかに響く。
『つまり、いざという時に戦力としては頼りにならないかもしれないわ。覚えておきなさい』
「うん」
ネアは木剣を握ったまま小さく頷き、空に目を向けた。
落ちかけた夕日が訓練場を照らし、影を長く伸ばしていた。
◇◇◇
日が暮れかけた屋敷の中。
一通りの予定を終えたあと、ユニスは一人で椅子に腰を下ろしていた。
銀の瞳を閉じ、深く息を吐く姿は、張り詰めていた糸がふっと緩んだように見える。
「……お疲れさま」
ネアがそっと声をかけると、ユニスは片目を開け、軽く首を振った。
「気にしないで。少し、休んでいただけ」
その声は淡々としていたが、ほんのわずかに寂しさがにじんでいた。
ネアは隣に立ったまま、何も言わず寄り添う。
『ふふ……ねえ、ネア。もしかして──あのお嬢様に惚れてたりする?』
腰の剣から、からかうような探るような声が響いた。
ネアは思わず頬を赤らめ、慌てて小声で返す。
「そ、そんなわけないでしょ! それはさすがに……」
するとユニスが銀の瞳をすっと開き、首をかしげる。
「……今、誰と話してるの?」
「えっ……あ」
ネアは咄嗟に口をつぐんだが、やがて観念したように息を吐いた。
「魔剣と。……レセルの声は、私にしか聞こえないんだ」
「そう……なるほど」
ユニスは納得したように小さく頷いた。
そして、少し考え込むように言葉を続ける。
「本で読んだことがある。魔剣は、ただ使い手を選ぶだけの存在じゃない。意志ある剣は、共にいる人間の在り方で“成長”することもあるらしい」
「……成長?」
「本で読んだ限りでは、能力が強まったり、時にまったく別の性質を見せたりとか。記録は断片的だけど、そういう例は少なくないみたい」
『ほら、聞いた? ネア、わたし、もっとあなたと一緒に強くなれるってことよ』
レセルの嬉しそうな声が響く。
ネアは複雑な気持ちで剣の柄に触れ、静かに息を吐いた。
(……成長する魔剣。レセルも、いつか今とは違う姿とかになるのかな)
ユニスは何も言わず、ただ遠い目をしている。
その横顔に映る孤独と決意を、ネアは胸に刻みながら、夜の帳が降りていくのを見つめていた。




