19話 孤立している令嬢
翌朝。
客室を出て案内されるままに歩くと、屋敷の奥にある食堂へと通された。
大きな窓から朝の光が差し込み、長いテーブルの上には皿がいくつも並んでいる。
パンに果物、スープに肉料理。村や街の宿で食べたものとは比べものにならないほどの豪華さだ。
「おぉ……」
思わず漏れたネアの声に、テーブルの上座に座るユニスが小さく笑う。
「目移りしているようでなにより。遠慮しないで食べて」
「あ……うん」
ネアはぎこちなく席に座り、パンを手に取った。
だが、周囲に控える使用人たちの視線が背中に突き刺さるようで、落ち着いて噛むことができない。
「……なんだか、味がよくわからない」
「雰囲気に飲まれると、どんな料理でも砂を噛んだように味気ない。でもそれは、もったいない」
ユニスは涼しい顔でスープを口に運ぶ。
その仕草は堂々としているが、背筋がわずかに張り詰めているのがネアにはわかった。
「……あの人たち、なんであんなに冷たそうなの?」
「“私を貴族と思っていない”から」
あっさりと返す声に、ネアはスプーンを止めた。
「でも、ユニスはこの家の娘なんでしょ?」
「形式上は。血の繋がりはあっても、母は貧民窟の人間。私を受け入れる理由なんて、あの人たちにはない」
ユニスはパンを小さくちぎり、口に運ぶ。
表情は変えず、声色も静かだが、その奥に棘があるのをネアは感じた。
「……それは、どうかと思う」
「そう。だから私は強がるしかない。弱みを見せれば、すぐ食い物にされるから」
銀の瞳が一瞬だけネアを見た。
その視線は鋭くもあり、同時にどこか寂しさをにじませていた。
「昨日会ったばかりなのに、ネアはもう心配そうな顔をしてる」
「だって……放っておけないし」
「ふふ……そう。なら、それだけで十分」
ユニスはふっと目を細めると、スープの器を置いた。
そして、あくまで何気ない仕草のまま呟いた。
「今日はもう少し、私の事情を詳しく話そうと思う。食後の時間に」
その言葉に、ネアの胸が小さく跳ねた。
『……本音を話すつもりみたいね』
腰の鞘からレセルの声が響き、ネアはそっと柄に手を添える。
華やかでありながら冷たい食卓の空気の中、これから自分が踏み込む世界の重さを、はっきりと意識した。
◇◇◇
食堂を出て、長い廊下を歩いていた時。
角を曲がる手前で、ひそひそとした声が耳に入ってきた。
「……やっぱり、あの子を“お嬢様”なんて呼ぶのは無理があるよな」
「だよねぇ。元は貧民窟の子だって話だし。血が繋がってるというだけで、急に貴族扱いはねぇ」
「それに、最近は不吉な噂ばかりじゃない? 父であるあの方が寝込んでから、家中が落ち着かないし」
「きっと長くはもたないわね。次の働く場所を探した方がいいかも」
それは嘲笑混じりの雑談。
ネアは足を止め、胸がきゅっと締めつけられた。
「……ひどい」
思わず小声で漏らしたとき、ユニスが振り返った。
銀の瞳がわずかに揺れるが、すぐに平静を装い、肩をすくめてみせる。
「聞こえてしまった? 気にしないで」
「でも……」
「どうせ彼らにとって、私は“主人”じゃない。形式的に仕えているだけ。そういう態度を隠そうともしないのは、むしろ正直で助かるくらい」
ユニスは笑ったが、その笑みはひどく淡いものだった。
ネアは思わず口を開く。
「そんなの……我慢することないよ」
「我慢じゃない。現実を受け入れてるだけ」
淡々と答える声。
けれど、わずかに伏せられたまつげの奥で、悔しさと寂しさが交錯しているのをネアは見逃さなかった。
『……あの子、強がってるわね。本当は傷ついてるのに隠してる。ある意味、貴族らしいとでも言いましょうか』
レセルはやれやれといった様子で感想を口にする。
ネアは唇を噛み、ただ無言でユニスの背中を追った。
廊下に差し込む朝の光は明るいのに、足元の影はどこか冷たく長く伸びていた。
客室に戻ると、ユニスは机の引き出しから重そうな革袋を取り出した。
それを迷いなくネアの前へ置き、銀の瞳でじっと見つめる。
「まずは家まで護衛してくれた分の報酬。金貨十枚」
「き、金貨……!?」
思わず声が裏返る。
手を伸ばすと、袋の中で硬貨が触れ合い、重みと共に金貨の輝きを確認できた。
以前、街で商団の幹部から受け取った“口止め料”よりも、はるかに多い。
「そ、そんなに貰えないよ……」
「いいえ、命を懸けて守ってくれたのだから当然。……それに、これで終わりではないし」
ユニスは腰かけた椅子に背を預け、静かに言葉を続けた。
「昨日も言ったけれど、本当に必要なのはこれから。オルヴィク家は伯爵家。父が寝たきりの今、私と父が消えれば財産も領地も、すべて親戚たちのものになる」
「…………」
「だからこそ……彼らは私を疎ましく思っている」
ネアは金貨の袋を前にしながら、言葉を失った。
伯爵家。村では聞いたこともなかった、遠い世界の話だ。
けれど目の前のユニスは、その冷たい家に取り残された孤独な娘に見えた。
「だから私はあなたの力を借りたい。護衛として。期間はわからないけれど、少なくとも父が……完全に回復するか、あるいは……」
声はそこでわずかに詰まる。
ユニスは小さく息を吐き、言い直した。
「とにかく、私が生きて立ち続ける限り、あなたの力が必要。報酬はその都度、金でも装備でも、あなたが望む形で支払う」
その声には必死さが隠されていた。
ネアはしばらく黙り込み、やがて視線を落としながら呟いた。
「……これって、傭兵になるってことなのかな」
その言葉に、ユニスは小さく笑みを浮かべる。
「そうかもしれない。でも──ただの雇い主と雇い人、というだけの関係で終わらせるつもりはない」
銀の瞳がまっすぐに見つめてくる。
その力強さに、ネアは金貨の袋を抱きしめるようにしながら見つめ返す。
◇◇◇
昼下がり。
ユニスに連れられて屋敷の中庭へ出ると、すでに一人の男性が立っていた。
背は高く、鍛え抜かれた体躯に古びた鎧をまとい、腰には幅広の剣。
灰色の髪に深い皺が刻まれた顔だが、その眼差しは鋭く、油断のない光を放っている。
「紹介する。父の代から仕えている護衛の一人、ゲルハルト」
「…………」
名を呼ばれた男性は無言でネアを見下ろし、ただ小さく顎を引いた。
その視線だけで圧迫されるように感じるほど。
「少しだけ手合わせするよう、お願いしてある。あなたの力を確かめたいから」
「えっ……ちょ、ちょっと待って心の準備が──」
「心の準備などいらん」
低い声と共に、ゲルハルトは剣を抜き放った。
無駄のない動きに、刃の光が冷たく走る。
『ネア、落ち着いて。彼は本気で殺すつもりはないわ。けれど油断すれば打ち据えられる。経験を積むちょうどいい機会だと思いなさい』
レセルの声が背中を押す。
ネアも慌てて剣を抜き、両手で柄を握り締めた。
「……いきます!」
先に踏み込んだのはネア。
だが次の瞬間、ゲルハルトの剣が重く振り下ろされ、重い音を立てて弾かれる。
腕にずしりと衝撃が走り、後ろへと下がりそうになる。
「くっ……!」
それでも踏みとどまり、必死に食らいつく。
重い剣筋に押されながらも、必死に受け、弾き返す。
──不思議なことに、レセルに体を任せていない今でも、剣を振るう自分の動きが“ついていけている”のを感じた。
(押されてるけど……前より全然マシだ!)
何度かの打ち合いの末、ゲルハルトは剣を引き、短く息を吐いた。
「……なるほど。基礎は未熟、だが芯は悪くない。伸び代に満ちている」
その言葉にネアは肩で息をしながらも、少しだけ胸を張った。
ユニスも満足そうに頷く。
「ありがとう、ゲルハルト。……けれど、一つ確認しておきたい」
彼女は銀の瞳でまっすぐゲルハルトを見つめる。
「もし私に危険が迫っても、あなたは助けてはくれないのでしょう?」
「当然だ。我が忠義はあくまで御当主──伯爵様にのみ捧げられている。娘御の身は守るべき対象には含まれん」
即答だった。
ネアは思わず目を丸くするが、ユニスは微動だにせず答える。
「知っていた。だからこそ……自分の護衛を自分で雇うしかなかった」
その声には、ほんのわずかながら孤独と決意があった。
ゲルハルトという護衛は、それ以上何も言わず、剣を収めて中庭を去っていく。
残された風の中で、ユニスは小さく息を吐き、ネアへ向き直った。
「……改めて、よくわかったでしょう? この屋敷の中でさえ、私は孤立している」
ネアは黙って剣を握り直し、その瞳を見返した。




