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15話 路地裏の逃走劇

 外の足音はじわじわと近づき、廃墟の壁を取り囲む気配が伝わってくる。

 石畳を踏む硬い響きと、荒っぽい声。

 ここに留まれば、やがて見つかるのは明らかだった。


 「……戦う?」


 ネアが剣の柄に手を添える。だがユニスは首を振った。


 「いえ、やめた方がいい。正面からやり合えば数で押し潰されるだけ。疲れて動けなくなれば、それで終わり。──来て、こっちに抜け道がある」


 彼女は奥の壁際にしゃがみこみ、床板を押し上げた。

 埃の舞う下には、地下に続く狭い通路が覗いている。


 「これは?」

 「貧民窟で育った子どもは、誰もが必ず逃げ道を覚える。……覚えることができない者から死んでいくという話だけども。昔、ここで遊んだことがあって」


 ユニスの言葉に、ネアは頷いた。


 「……わかった。行こう」


 だが、降りる前にユニスは腰の袋から縄と小さな瓶を取り出した。

 素早く木片に縄を結び、小さな瓶を置いて扉の影に仕掛けを作る。


 「それは?」

 「外から踏み込めば、爆発する薬品が入ったこの瓶が衝撃を出し、それによって少しだけこの家が崩れる。せいぜい時間稼ぎ程度だけど」

 「罠まで……用意がいいね」


 ユニスは口の端だけで笑った。


 「生き残るには備えと工夫がいる。非力な子どもには、特に」


 二人が床下の暗がりへと身を滑らせると、すぐ後ろから扉を蹴り破る音が響き、荒い怒声が交錯した。


 「いたぞ! 中に──ぐわっ!?」

 「ちぃっ、小細工とは!」


 声の直後、瓦礫の崩れる轟音。

 罠が見事に働き、叫び声が上がる。

 その隙に、ネアたちは暗い通路を駆け抜けた。

 抜け道の地下通路は狭く、足元の石畳は少しばかり崩れかけ。

 壁には古い水路の名残らしき苔が張り付き、湿った空気が肌を冷たく撫でていく。

 人ひとりがやっと通れる幅の板橋を渡る時、ミシリと嫌な音が響いた。


 「え……」


 ネアが思わず足を止めた瞬間、板が大きく軋んで割れ目を走らせた。

 バキッ、と乾いた音と共に、板の下に積もっていた瓦礫が一気に崩れ落ちる。


 「わ、わっ!」


 体が前に傾き、ネアは慌てて壁に手を伸ばす。だが足場は崩れ、瓦礫と一緒に落ちそうになる。


 「危ない!」


 ユニスの声が鋭く響く。

 次の瞬間、力強い手がネアの腕を掴んでいた。

 細い身体とは思えないほどの力で、ぐいっと引き寄せられる。


 「っ……!」


 ネアは胸からユニスにぶつかり、そのまま尻もちをつく。

 背後では瓦礫が地面に激しく叩きつけられ、土埃がもわっと舞い上がった。


 「ご、ごめん」


 ネアは慌てて立ち上がり、手を払う。

 ユニスは乱れた金の髪を軽く整え、ため息をついた。


 「謝ることじゃない。これが裏道を歩くということ。……少しの油断で命を落とす」


 言葉は淡々としていたが、掴んだ腕を離す時に、ほんのわずかな震えが伝わった。


 『今のは危なかったわね。気を抜かないで』

 「うん……」


 レセルの声に頷き、ネアは一度深呼吸をする。

 ユニスが先に立ち直り、きびきびと歩き出す。

 その背中を追いながら、ネアはもう一度剣の柄を軽く握りしめた。

 崩れかけの橋を越え、しばらく進んだところで、通路は石壁に沿って緩やかに曲がっていく。

 そこから先は薄暗く、かすかな隙間から光が漏れている。

 するとユニスが先頭で手を上げ、立ち止まる。


 「しっ……動かず、静かに」


 耳を澄ますと、天井となっている壁の向こうから複数の声がした。


 「聞いたか? あの小娘、逃げたらしいぞ!」

 「裏道に回れ! 急げ!」

 「こっちは廃屋の方を探せ!」


 怒鳴り声が重なり、足音が響き渡る。

 石畳を叩く硬い靴音が、地下の通路にまで震動を伝えてくる。

 ネアの心臓が一気に跳ね上がった。

 息を吸うことさえ、敵に気づかれそうで怖い。


 『ネア、動かないで。……息も殺して』


 レセルの冷たいささやきに従い、ネアは胸を押さえて呼吸を止めた。

 喉の奥が苦しくなり、頭がじんじんしてくる。

 だが壁越しに聞こえる足音はどんどん近づき、すぐ目の前を通るのではと錯覚するほど。

 ユニスは壁に背をぴたりと付け、銀の瞳を細めて動かない。

 その表情は張り詰めているのに、不思議なほど落ち着いて見えた。


 (……どうしてこんな時に、こんなに冷静でいられるの……?)


 やがて、影のような気配が通り過ぎる。


 「……こっちにはいない!」

 「なら反対側だ、奥を探せ!」


 怒声が遠ざかり、足音も消えていった。

 重苦しい静寂だけが残る。


 「ぷはっ……!」


 堪えきれず、ネアは大きく息を吐き出した。胸が焼けるように熱く、足元が震えている。


 「……今のうちに、慣れておいて」


 ユニスは低い声で言うと、すっと歩き出した。


 『ふぅ……危なかったわね。でも、切り抜けることはできた』

 「まあ、ね」


 心の中で苦笑しつつ、ネアは再びユニスの背を追う。

 まだ息が整わないままだが、それでも足を止めるわけにはいかなかった。

 かつて水路だった地下通路を抜けると、小さな空き地に出る。

 昼の光が差し込み、崩れかけた壁の影に数人の子どもたちが集まっている。

 棒きれを手に取り、互いに振り回しては、きゃっきゃと笑っていた。


 「くらえっ、必殺剣ー!」

 「ば、ばかめ! こっちは魔王の炎だぞ!」

 「ぎゃー! やられたー!」


 子どもたちは転がったり、砂埃を上げたりしながら、元気いっぱいに騒いでいる。

 どの顔も頬は痩せ、服は擦り切れているが、その笑い声には不思議な明るさがあった。

 ネアは思わず立ち止まり、その様子を見つめる。

 少し前まで、自分も村の広場で木の枝を振り回して遊んでいたのを思い出す。


 「……あの頃に戻れるならって、ふと考えちゃうな」


 ユニスもまた、足を止めた。

 子どもたちの声を聞きながら、銀の瞳を少しだけ細める。


 「……子どもはこんな風に遊ぶもの、だよね」


 呟きは小さく、かすかな笑みさえ浮かんでいる。

 ネアはその横顔を見て、少しドキッとした。

 さっきまで張り詰めていた彼女が、ほんの一瞬だけ年相応に見えたからだ。


 「……似たようなこと、してた?」


 問いかけると、ユニスは小さく肩をすくめた。


 「ええ、少しは」


 それ以上は語らず、彼女は踵を返す。


 「行きましょう。立ち止まってる暇はない」

 「わかった」


 子どもたちの声を背に、ネアは再び歩き出す。

 心の中では、ほんの少しだけ空気が柔らかくなった気がした。

 しかし、細い抜け道を抜けると、不意に鼻をつく強烈な悪臭が漂ってきた。

 次の角を曲がった瞬間、視界に飛び込んできたのは、山のように積み上げられた生ゴミの山。


 「うっ……!?」


 果物の皮、魚の骨、しなびた野菜、カビの生えたパンの耳……。

 昼前の市場で売れ残ったものや調理場で捨てられたものが、ここにまとめて投げ込まれているのだろう。

 夏に近い日差しにさらされ、甘酸っぱい匂いと生臭さが混じり、辺り一帯にむわっと立ち込めていた。


 「な……なに、これ……」


 ネアは思わず袖で鼻と口を覆った。


 『あら、思ったよりひどいわね。もっと清掃を行き届かせるべきよ』

 「他人事だと思って……」


 レセルの感想になんともいえない表情を浮かべたネアは、ゴミ山の脇をそろそろと歩く。

 通り道はそこしかなく、避けようにも足元に散らばる腐った果物を踏まないよう気を使わなければならない。


 「……あの、ユニス。ここ通るの?」

 「うん、通るしかない。近道だから」


 ユニスは涼しい顔で答えると、ひらりとゴミ山の横をすり抜けていく。


 「ちょ、ちょっと待って! 慣れてるみたいに歩かないで!」

 「だって慣れてるから。……かつて、ここでいろいろ漁ってきた」

 「……え?」


 さらりと返ってきた言葉に、ネアは思わず足を止めた。

 ユニスは振り返りもせず、靴で果物の皮を踏まないよう器用に歩きながら続ける。


 「食べられるものは探せば意外と残ってる。リンゴの芯とか、半分くらいならまだ大丈夫なパンとか」

 「た、食べたこと……あるの?」

 「ええ。あんまり大きい声じゃ言えないけど、ある。そうやって繋いだ命も少なくない」


 銀の瞳は淡々としていて、恥じている様子はなかった。

 それが余計に、ネアの胸に衝撃を走らせる。


 『ふぅん……強い子ね。それくらい強くないと生きていけないとも考えられるけど』


 ネアは言葉を見つけられず、ただ黙って彼女の背を追った。

 ゴミの匂いが一層強まり、涙目になりながらも、ユニスの足取りは一切乱れない。

 ようやく抜け出した時、ネアは思わず大きく息を吸い込んだ。


 「ぷはっ……! 空気が……空気が美味しい……!」


 その大げさな声に、ユニスがふっと笑う。


 「ふふ、まだ王都に来たばかりなら、嗅ぎ慣れてないのもしょうがないか」

 「いやいやいや、あんな匂いを嗅ぎ慣れたくない……」


 ゴミ捨て場の先に広がる空は明るく、通りの向こうからは賑やかな市場の声が聞こえてくる。

 だがユニスの横顔には、一瞬だけ昔を思い出したような影が差していた。


 「次はこっち。これでそろそろ……」


 悪臭漂う裏道を抜け、ようやく広がりのある通りが見えてきた。

 昼の日差しに照らされて、遠くには賑わう市場の喧騒。

 人通りに混じってしまえば、追っ手の目をくらますことができるだろう。


 「よし、もうすぐ大通り」


 ユニスが息を整えながらも、安堵をにじませる。

 ネアも胸を撫で下ろし、剣の柄に添えていた手を少し緩めた。

 その時だった。


 ──コツ、コツ。


 規則正しい足音が、路地の出口から響いてきた。

 現れたのは一人の影。

 兵士の鎧でもなく、傭兵の軽装でもない。黒ずんだ革の装いに身を包み、手には禍々しい意匠の剣を携えている。

 昼の光が剣身に反射し、ぞくりとするほど冷たい輝きを放った。


 『……魔剣の気配』


 レセルの声が低く震える。


 『ネア、あれは、あなたと同じ“使い手”よ』

 「え……!」


 ネアは思わず息を呑む。

 隣のユニスも銀の瞳を大きく見開き、緊張を隠さず相手を睨んでいた。

 昼の光に長く伸びるその影は、不吉な前触れのように地面を覆っていた。

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