1話 村が燃えた夜
煙の匂いが鼻を突いた。
茶色の長い髪が炎に照らされて赤く揺れる。
茶色の瞳は燃える村をじっと見つめていた。
──少し前、村人に広場で縛られ、柱の前に立たされた自分の姿が脳裏によぎる。
「若返りの禁呪には生贄がいる。親のいないお前が適任だ」
村の老人の声。嬉しさと申し訳なさが混ざった村人たちの視線。そして欲に満ちた空気。
誰も助けようとはしない。
親のいない子どもを生贄に使うことが、村人全員の意思だったから。
(……すべて、私だけに押しつけて)
次の瞬間、炎が爆ぜる音で現実に引き戻される。
「逃げることができたのは私だけ、か」
聞こえてくるのは、木の壁が崩れる音と、誰かの悲鳴。
血の匂いと焦げた匂いが混ざり、胸の奥を焼くように熱い。
けれど、ネアは泣かなかった。
それどころか、口元には笑みを浮かべる始末。
村人たちは、十六歳の誕生日を迎えたばかりの彼女を、禁呪の生贄にすると決めていた。
理由は簡単。誰もやりたがらない役目だからだ。
「……こんなところ、燃えればいいって思ってたけど、本当に燃えると煙たいだけだなって」
森の中を駆けながら、ネアは背後を振り返った。小さな村は、真っ赤な炎に包まれ、その中に一つの影が立っている。
月光を浴びた銀色の髪。蒼白な肌。遠くからでもわかる笑み──それは吸血鬼。
その瞳は、獲物を逃す気のない獣のよう。
「ほら、逃げろ。体力の続く限り逃げて、狩りを楽しませてくれ」
まるで追いかけっこの合図のように、吸血鬼は笑いながらゆっくりと歩き出す。
吸血鬼にとって、人間を襲うことはちょっとしたお遊び。
そんな娯楽のために、村は襲われた。
「はぁ、明日まで生き延びられるかな……うん?」
足元に何かがあった。硬いものがぶつかる感触がした。
見てみると、古びた剣が鞘もなく地面に落ちている。
風雨に晒されてるはずのに錆びは一切なく、とても綺麗なまま。
不思議と目が離せなかった。
『──そこのあなた。わたしの声が聞こえる? 聞こえるのなら、柄を握って』
柔らかく、甘い声が聞こえてくる。
ネアは息を呑み、驚きつつも剣の柄に手を伸ばす。
手のひらに伝わるのは、冷たくも熱くもない、不思議な感触。
『よかった。ようやく、わたしの声が届く人に会えた』
次の瞬間、視界が揺らぎ、身体が勝手に動き出した。
握った剣が、月明かりを弾くように振るわれる。
「なにっ……!?」
近くまで迫っていた吸血鬼が、初めて驚いた顔を見せた。
ネアは自分の意思ではなく、剣に導かれるまま踏み込み、斬撃を繰り出す。
速度も力も、今までの自分ではありえない。
「体が、勝手に……」
『大丈夫。わたしが全部やるから、あなたは立っていて』
甘いささやきが耳に届くたび、剣は鋭く舞い、吸血鬼の爪や牙を防ぎ、反撃する。
周囲の木々が裂け、夜の森に衝撃音が響く。
激戦の末、吸血鬼は舌打ちをすると、夜の闇の中へと去っていく。
その途端、体から力が抜けたネアは、膝から崩れ落ちる。
そして地面に背をつけたまま、荒い息を吐く。
「うぅ、全身が痛い……」
『……ごめんなさい、いきなり無理をさせたわね』
そんな声とともに、剣は光に包まれ、形を変える。
現れるのは、長く白い髪に赤い瞳を持つ少女。
彼女はそっと膝をつき、ネアの頭を抱えた。
温かく、甘く、執着の混じった眼差しで。
「やっと見つけた、わたしの使い手。二度とあなたを離さない」
村の火はまだ遠くで燃え続けていたが、ネアの意識はそこで途切れた。
「う……生きてる?」
たき火のぱちぱちと弾ける音で目が覚めた。
周囲を見れば、今いるのは森の奥。
吸血鬼の姿はない。
代わりに、真っ白な髪の少女が、こちらを覗き込んでいた。
「……誰?」
ネアの問いに、少女はにこりと笑う。
その笑みは、甘く、とろけるようで……どこか異質でもあった。
「わたしは、あなたが握った剣よ。人になれるの。短い間だけね」
「……剣が、人の形に?」
「ええ。やっと、声が届く人に会えたんだもの。嬉しくて……」
少女は言いながら、ネアの頬に触れた。
指先は温かく、けれどぞくりと背筋が震える。
その瞳──赤い光の奥に、底知れない執着が見えた。
「あなた、名前は?」
「……ネア。それだけ」
「ネア。……ふふ。いい名前」
少女は微笑み、少し考えるように視線を落とす。
「じゃあ、わたしにも名前をちょうだい。ずっと、誰も呼んでくれなかったから」
ネアはしばらく黙った。たき火の光が少女の白い髪をわずかに照らす。
その姿は、美しいというより、神秘的で、そして……危うい。
「……それなら、レセルで。長いと呼びにくいし」
「レセル……。ああ、響きが綺麗」
少女改めレセルは、恍惚とした笑みを浮かべると、ネアの手を握った。
まるで、その手を二度と離す気がないかのように。
「これでわたしは、あなたのもの。あなたは、わたしのもの」
小さなささやきが、たき火の熱よりも濃く胸に染みる。
その時、森の奥から何かが軋むような音が聞こえた。
金属を爪で引っかくような、不快な音。
吸血鬼だ。
戦いはまだ終わっていなかった。
レセルはゆっくり立ち上がると、剣の姿へと変わる。
ネアが柄を握った瞬間、またあの甘い声が響く。
『今度は、もう少し長く戦えるように気をつける。だって、あなたを無駄に傷つけたくないもの』
夜明けが近づく森の中は、再び緊張に満ちていく。
森の奥、闇の中から銀色の髪が滑り出てくる。
蒼白な肌、赤黒い瞳。口の端には、乾ききらない血の跡があった。
一度引き下がったあと、村人の死体から血を吸ったのだろう。
吸血鬼はゆっくりと歩きながら、口元を歪める。
「……まさか人間の小娘に退けられるとは思わなかった。予想外のことがあるから、生きるというのは面白い。だがな、目撃者を残しては面倒だ。今度はお遊び抜きで、命を貰う」
『そんなこと、させないわ』
レセルの声が、耳に絡みつく。
同時に、ネアの足が地面を蹴った。今度は心臓の鼓動までが速くなるのがわかる。
レセルが動かす肉体は、まるで自分ではないみたいによく動く。
吸血鬼の一撃を紙一重でかわし、逆に斬り返す。
「ちっ、その剣か。その剣が貴様を」
金属と骨がぶつかるような鈍い衝撃。
吸血鬼はわずかに後退し、樹木を蹴って高く跳んだ。
そのまま背後から襲いかかるが、レセルは迷いなく剣を振り上げ、火花を散らす。
『まだ大丈夫? ネア』
「こっちの体を勝手に動かしてるから、ある程度わかるでしょ……! 結構きつい……!」
『ふふ、そうね。でも、そんなに無理はさせないから安心して』
あまり安心できないものの、ネアはレセルの動きに身を委ねるしかない。
剣の刃が夜気を裂き、吸血鬼の頬をかすめた。
赤黒い血が、夜の森に飛び散る。
吸血鬼が低く唸り、腕を大きく振り抜くと、爪が頬をかすめて熱い痛みが走る。
「う……」
恐怖からネアが息を呑むと、レセルの声は甘く深くなる。
『痛い? ……じゃあ、仕返しをしないとね。あいつをもっと斬ってしまうから』
その瞬間、踏み込みが鋭さを増した。
斜めの斬撃が吸血鬼の肩を裂き、さらに一歩踏み込み、胴へと水平に薙ぐ。
悲鳴が闇夜に響き、吸血鬼の体は大きく吹き飛んだ。
ギリギリのところで、体は真っ二つにならずに繋がっている。
それほど深い傷を負っても、吸血鬼は生きていた。
「まだ……だ、この程度で死ぬほど……軟弱な、種族ではない……」
地面に伏せた吸血鬼は、苦しげにこちらを睨みながら、夜の闇へと後退していく。
追撃しようとしたネアだが、レセルが止めた。
『待って、危ないわ』
「でも、ここでトドメを刺した方が」
『どんな隠し玉があるかわからない。わざわざ、一人で村を襲う吸血鬼だもの。それに、もうすぐ夜明け。あの子は太陽に焼かれる前に隠れるはずよ』
確かに、森の向こうの空はわずかに白んできていた。
体がちぎれかけるほどの大怪我は、そう簡単には治らない。これに日光が加わるなら、数日ほど安全は確保されたといっていい。
体の緊張が解けると、ネアはまた膝をつき、荒い呼吸を繰り返す。
「……心配しすぎだと思う」
『あなたが大事だからよ。あなたが死ぬなんて、絶対に嫌』
レセルは剣から再び白い髪の少女へと姿を変え、ネアを背後から抱きしめた。
その腕は温かく、でも逃げられないほど強い。
「一人にはしない。あなたを守るのが、わたしの全部」
「会ったばかりなのにいろいろと重い」
「嫌だった? わたしの唯一の使い手」
「別に……」
耳元でささやかれ、ネアは小さくため息をついた。
聞こえてくる声は甘くて、どこか危険な香りがして、けれど簡単には振り払えそうにない。
やがて森に朝日が差し込み、戦いの痕跡を淡く照らす。
こうして、ネアと魔剣レセルの奇妙で濃密な日々が始まった。