その4
俺の席から半径二メートル以内には、誰ひとりとして近づこうとしなかった。
教室には薔薇のコサージュを胸につけた新入生たちが、次々とやってくる。だが彼らには、すぐさま“教室の地雷”が伝えられる。
――後方窓際、カップル注意、邪魔するなかれ。
柳原は、俺の前の席に鞄だけを置くと、そそくさと距離をとった。斜め前の泉田も、頬をひきつらせながら鞄を置いてはすぐ離れていく。
笑いたいなら笑えよ。俺だって、今すぐここから消えたい。
耳を澄ますまでもなく、話題の中心は俺と菊理だった。
しかも誰かが遅れて来るたび、別の誰かが丁寧に誤解(×2乗)をばらまいてくれている。
「あの二人、もう付き合ってるんだって」
「ええ、もう?」
「すげぇ、入学初日なのに」
「なんか彼氏のほう、すでに尻に敷かれてね?」
入学式とは思えない人間模様。ていうか心外すぎる。
俺はそっと小声で、菊理に話しかけた。
「……さっきの“付き合う”って、あれ、冗談だよな? 入学初日の自己紹介ギャグ的な。あ、あの、その……みんな笑ってるし、俺も笑いたいし……」
菊理は微動だにしない。
「……まさか、本気?」
「マジ」
ぞわり、と背筋が冷える。
視線を外さず、無言でコクリとうなずく菊理。
俺はようやく気づいた。クラスの皆は“勘違い”してるだけ。でも、この女は――マジだ。
絶対に、関わってはいけないタイプの人間。
俺は極力、刺激しないように言葉を選ぶ。
「えーっと、だな。まだ会って間もないし、なんつーか、その……俺たち、相性よくないと思うんだ。せっかくの高校生活だし、もっと他に良い相手が──」
「誰でもいいけど、誰でもいいわけじゃない」
「は?」
「これは、運命なの」
おまえ、何言って……。
「あたしには、あんたの意思なんて関係ない。私たちは――赤い糸で結ばれてるの」
「か、観念しなさいって、おま……だいじょぶか?」
……こわい。
菊理はそれ以上、何も言わなかった。
それが逆に、めちゃくちゃ怖かった。
ひそひそと噂の声が飛び交う中、俺はただ、時間が過ぎるのを祈るように待っていた。
何か打つ手があるなら、とうに打ってる。
ただ、図師の二の舞だけは絶対に避けたい。
――そして。
春風がそっと教室を撫でたころ、一人の少女が俺の横に立った。
「どうかなさいましたか?」
違う、菊理じゃない。
この人は、年齢問わずして敬語を使わざるを得ない“気配”をまとっていた。
教室の空気とはまるで無縁な、春の息吹のような穏やかさ。
しかも、地中海級のメガース・ボインス。
──荒れた日本海で育った菊理のそれとは違いすぎる。演歌のイントロが流れそうな差だった。
その人は、菊理が図々しく占拠している机の前で、にこやかに微笑んでいた。まさに女神降臨。
もしやと思い、黒板を見る。
「……あなた、天宮さん?」
彼女はこくりとうなずいた。
黒板に書かれた「天宮 沙羅」の文字。そしてその姿。まちがいない。
俺も名乗ると、またこくんと頷いた。
そのたびに、ニューヨークの空では流れ星が流れてるに違いない。
対して菊理が動けば、太陽に黒点が増える。
「すみません。これ、すぐどかしますから」
「いえ、私はかまいません」
スィートヴォイス……っ!
あなたがかまわなくても、俺がかまう!
「おい、菊理、そこ彼女の席だ。頼むからどいてくれ。愛してる」
菊理が俺をじろりと見た。視線がさっきまでと微妙に違う。
そして、当然のように――俺の隣に座った。
お前、自分の席に戻る気はないのか。
「まあ、嘘だけどな」
「私は愛してるけど」
……え?
菊理はぷいと横を向き、窓の外を睨みつけた。
天宮さんはというと、鞄をラックに置くと、何事もなかったかのように黒板を見ている。
俺は窓枠に寄りかかって、菊理の視線の先を追ってみたけど、何を見ていたのかは分からなかった。
そして結局、担任が入ってきて、黒板を消すまでの間――
彼女はずっと、外を見続けていた。