その3
彼女ができたらしい。しかも、世界ハイスクール史上最速タイムで。
本来なら喜ぶべき事態なはずだ。彼女がいるか否かは、高校生活の潤いを左右し、思い出の密度に雲泥の差を生む──と、誰かが言っていた。
情けない話だが、あの「アンタとあたしは付き合うの!」という菊理のセリフを、現実として認識できた瞬間、俺は確かに嬉しかった。第一、菊理の顔は反則的にかわいい。
……まあ、その気持ちはとっくに雲散霧消したけどな。
菊理はずっと、不愉快そうに俺を睨みつけていた。冷蔵庫の方が、まだ温かい視線をくれるレベルだ。
俺だって努力はしたんだ。だが、な――
「……菊理って誕生日いつ?」
「八月七日」
「獅子座だ」
「……そうよ。文句ある?」
「ないです」
「血液型は?」
「A」
「そう見えないな。やっぱ血液型判断って当てにならないのかね」
「なるわけないじゃない」
「……そうだな」
「音楽、なに聴く?」
「……バルカンビート」
「……へぇ」
「あんた、知らないんでしょ?」
「好きな食べ物は?」
「キルシェトルテ」
「……へぇ」
「だから、あんた知らないんでしょ?」
「はい」
「バーカ」
「……」
「……」
……ロマンスの神様。彼女との会話って、もっとこう、発汗して身もだえて、動悸と立ちくらみが止まらないようなトキメキがあるものじゃなかったのですか?
独り言の方がまだ会話が弾むんですが。
「ひょっとして、お前の地元じゃ“付き合う”って、睨み合うって意味なのか? 人と付き合うじゃなくて、ドツき合う。つまり、一昔前の不良同士のガン飛ばし合戦的な──」
「頭、大丈夫?」
お前にだけは言われたくなかった。
「どけよ。俺の席だ。自分の席に戻れ」
「絶対いや」
以降、無言のガン飛ばし合戦へ突入。
別に俺は窓の外でも眺めていればよかったんだけど、向こうがずっと睨んでくるもんだから、自然と俺も睨み返すことになる。社会環境の悪化が犯罪率を高めるのと同じ理屈だ。
一年校舎が次第に賑やかになり、例に漏れず一二組にも「おはよー」「よろしくねー」「はじめまして」といった、人類共通ルールに則った会話が展開され始めた。
女子のキャッキャした笑い声や、男子のしょうもない話が飛び交う中、入学早々ただひたすら険悪な空気をまとっている俺と菊理は、当然のように注目の的になっていた。
ここが不良高校だったら、クラス最強を決めるガチバトル前の儀式として成立したのかもしれないが、あいにくこの学校は進学校だ。教育方針的にも、腕っぷし以外で勝負してほしいらしい。
──雲雀の鳴き声が、なつかしかった。
疑問がピークに達したころだった。一人の男子――図師という奴が、女子にせっつかれたのか、それとも功名心か、どちらにせよおずおずと俺たちに近づいてきた。
「何やってんだ、二人とも? 顔見知りなのか? 入学早々、喧嘩なんて剣呑な話じゃないなあ」
「……お前の目は節穴か。この女がからんできて困ってるところだ」
菊理は何も言わなかった。
「冗談だろ。どう見たって悪いのはお前じゃないか」
図師は、この期に及んで俺と菊理の顔――というか、圧倒的に菊理の顔を中心に――まじまじと眺めた。
「逆だ逆。因縁をつけられてるのは俺のほうだ。俺は何もしてないし、する気もない。ただ、出身校とか趣味とか部活動とか話して、みんなの中に溶け込みたいだけなんだ」
そう弁解すると、図師は手をひらひらさせた。どうにも信用されてないらしい。しかも、調子のよさそうな顔を緩ませながら、菊理に話しかける。そうか、図師は菊理と接点を持ちたかったのか。
「……もう安心です。悪いのはこの男だ。ここは俺に任せて、あなたはみんなと――」
みんなは一様に白い目を俺に向けていた。なんだったんだ、この「悪いのは俺」的空気は。
だがすぐに、教室の空気は菊理によって別次元に飛ばされることになる。
「今、一番大事なところなの。殺すわよ」
その言葉と同時に、あの凍えるような視線が図師に向けられた。
「な、なんだよ……」
菊理の一睨みは図師を明らかにビビらせた。あの芸術的な顔立ちから繰り出されたのは、まるで女神アテーナの盾のような冷酷な瞳だった。
「な? だから言っただろ」みたいな感じで、俺は肩をすくめてみせたが、図師はムキになった。無理もない。彼の一挙手一投足はクラスの耳目を集めていた。しかも今日は入学初日。ここでしくじれば今後に響く。
「い、いや、邪魔とかそういうんじゃな――」
「……仕方ないわね」
菊理は溜め息をつき、淡々と告げる。
「一度しか言わないから、よく聞きなさい。あたしは、お神籤の神託により、こいつと馴れ初めたの。だから、あたしたちの恋路に、文句がある奴、邪魔したい奴、遮る奴は、一人ずつかかってきなさい」
へ?
教室中の人間の頭上に、クエスチョンマークが一斉に浮かんだ気がした。まったく意味がわからない。
「……あ、そういうことなら大丈夫です」
あまりの呆気なさが、逆に納得を呼び起こしたのか。図師はそれ以上突っ込むことなく引き下がり、クラスの面々も次々と「おお」と頷いていった。
いやいやいやいや、どこが大丈夫なんだよ!
「ちょっと待て! みんなが誤解するようなことを勝手に――」
みんなの納得を吹き飛ばすため、俺は声を荒げて菊理の腕に手を伸ばした。
「あたしのお神籤を否定するの?」
そして次の瞬間――俺の身体は一回転して床に打ちつけられた。声を上げる間もなかった。どうやら手首をとられて、軽く捻られたらしい。赤子の手を捻るような見事な手さばきだった。
なんなんだよ、この女!?
「ちょっとした痴話喧嘩だから心配しないでね。たいしたことじゃないの。それと、みんなも何か悩んだり迷ったりしたら、いつでも相談に来て。あたしは菊理。あたしのお神籤は、当たるわよ」
笑顔でそう言いながら、哀れな俺の背中を、サッカーボールよろしく片足で踏みつけた。
俺はカエルが潰れるような声を出して、足の下でもがいた。何ていうホラー映画だ。
一人ひとり確認するように教室を見回したが、誰一人として疑問を抱いていないらしい。それほど菊理の宣言は、抜群の説得力を持っていた。
「俺も……愛してる? かな……」
南無三とばかりに呟くと、菊理はすっと足を離した。
俺は這うようにして逃げ出した。
そうそう、タイトルはこれだ。『エントランス・セレモニー・オブ・ナイトメア』。B級ホラータイトルにはぴったりだろ。Jホラーならストレートに『入学式』。これが俺の一生一度の高校デビュータイトルだ。