その1
これから一年間、一日のうち約三分の一を費やすことになる教室は閑散としていた。
朝七時だ。まだ一時間以上ある。他に生徒がいるはずがない。
人気のない教室を一層と寂しく感じさせたのは、整然と並んだ机と机の間に椅子が一脚もなかったからだろう。黒板には、必死な可愛らしさで縁取られていた「入学おめでとう! 一年間よろしくね♪」の文字。その一生懸命さがかえって武骨さを露呈していたが、おそらく担任が書いたのだろう。
席順は最高だった。窓際最後列。授業中何をしてもいいし、何もしなくてもいい場所だ。
クラスの女子比率も計算したし、変わった名前もすでに探し終えていた。ギザ十(←ギザギザの縁があるレアな十円玉)を放り投げ、表なら男、裏なら女と、二番手の性別を予測してみると、表が出て男。少しがっかりしたので、もう一度放ったが、やはり男だった。
早起きをした理由。そんなもの俺にはわからない。
「なぜおかわりするの?」と訊かれたら「足りないから」と答えるのと一緒で、「なぜ早起きしたの?」と訊かれたら「目が覚めたから」と答えるしかない。要するに気まぐれなんだが、ひょっとすると退屈だった中学とは違った高校生活に浸りたかっただけなのかもしれない。時間割通りの毎日とは違った、予想できない日々。きっと刺激的で楽しいはずだ。
そんなことを考えていた俺は、すべてにおいて甘かった。
俺が新生活に向けて希望で胸を膨らませている中、その忌々しき入学二番乗りがやってきた。
一年校舎に漂っていた静寂の空気をけちらす轟音に、俺はギザ十の予測の的中を疑わなかった。あの豪快な足音は、男でないはずがない。……結局は外れたんだけどな。
「っんな!!」
その女――菊理は俺を見るなり喉をつまらせた。そりゃ驚くだろう。常識的に考えて誰一人いないはずの時間に余裕を構えた俺がいたのだから。
恥ずかしいのか頬がみるみる紅くなり、上下する肩に裏打つように、ショートの前髪をとめていた髪留めが落ちて、ぱらりと額を覆う。一番乗りできなかったことに悔しいのか、菊理の勝ち気そうな琥珀色の眼が潤んでいた。
女神アルテミスの入浴シーンを覗いてしまったような気がして、俺は慌てて目を伏せた。
「おはよう。ずいぶんと早いんだな」
「……あんたにいわれたくない」
そう言い放つと、その女はいそいそとピンで髪をとめなおし俺に背中を向けた。彼女の席は俺より前の席だし、その前に黒板に書いてある席次表を見なければならないからだ。自然とそうなる。その一連の仕草に不自然なところは一つもないはずなのに、嫌われたというか、突き放されたような感じがして、俺は焦ってしまった。
とりあえず入学初日に潜むという悪魔のせいにしておきたい。