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2.ここに咲く 5

「レネ?」

 ダイニングルームに戻ると、すっかり片付けの済んだテーブルについてコーヒーを飲んでいたエリアスが隣の椅子を引いた。

「大丈夫か?」

 微かに頷くレネを、エレナが席に座らせる。

「ごめんね。大変だったでしょう。ありがとう、レネちゃん」

 優しい口調で言った彼女は、レネの前に温かいカフェオレの入ったマグカップを置いた。

 彼女はレネとエリアスの向かいに座ると、温かいコーヒーを一口飲み込んだ。

「ミーナは、何か言ってた?」

「あ、お姉さんの話を、少し」

 エレナはレネの言葉に頷くと、ふっと息を吐いてどこか寂しそうに言葉を漏らす。

「あの子、レネちゃんくらいの姉がいたのよ。ずっと病気がちだった子で。去年の冬に、亡くなったんだけどね。レネちゃんの優しい雰囲気がよく似てたから、気持ちが落ち着かなくなっちゃったのね」

 優しくなんてない。

 そう思うけれど、何と返事をしていいのかわからないレネは、ただ黙って話の続きを待った。

「解放してあげたくて、そろそろ前を向きなさいって言うんだけど、まだ吹っ切れていないのね。毎日のように、カミラと一緒に遊んだ花畑に行っては、泣いているみたい。私も、もうどうしてあげたらいいのかわからなくて」

 どこか疲れた表情で頬杖をつく彼女に、レネは何も言えずにいる。

 助けを求めるようにエリアスに視線を送るけれど、彼のオリーブグリーンの瞳は、静かにレネを見つめ返すだけだ。

 自分の思うようにやってみるといい。

 そう、言われている気がした。

「あの。もしご迷惑でなかったら、私、少しだけお願いがあるんですけど」

 たどたどしく言葉を選ぶレネに、ミーナの母が不思議そうな表情を向けた。




「ねえ、お花屋さんになってみない?」

 朝食に出された焼きたてのパンと温かいスープを食べ終えたレネは、ミーナに声を掛ける。

 朝、いつの間にか部屋から消えていたレネに不機嫌な顔を向けていたミーナは、お花屋さんという言葉にぱっと表情を明るくした。けれど、その表情は次の瞬間には暗く陰ってしまう。

「お花屋さんは、カミラお姉ちゃんとじゃなきゃやらない」

 レネは、ぎこちない手つきで隣に座る少女の栗色の髪を撫でた。

「うん。お姉さんとの約束だったんだよね」

 ミーナは何も言わず、頷いて見せた。その唇がへの字に歪んで、涙をこらえているのがすぐにわかった。レネは思わず、まだ小さな少女の両手を自分の手で包み込む。

「大丈夫。カミラお姉さんは、ちゃんとミーナちゃんを見てると思うんだ。だから、一緒に約束、守りに行こう?」

 レネの言葉に迷いの表情を浮かべていた少女は、やがてゆっくりと頷いた。

 食事を食べ終えたレネとエリアスは、ミーナの手を引いて町の中央広場に向かう。

 早朝の広場は人影も少なく、澄んだ空気が気持ちいい。散歩を楽しむ老人や足早にどこかへ向かう人、影を踏み合って遊ぶ子供たち。思い思いの時間が流れていく。

 露店のために割り振られたスペースでは、商人たちが開店の準備を進めていた。

 広間の片隅。ラベンダー色のワンピース姿の女性が、小さなワゴンに積まれた花を手持ちの籠に移していく。その隣では、同年代の男性が仕入れた花の状態を確認している。

「おはようございます」

 レネは二人に近付くと、遠慮がちに声を掛ける。

「おはよう。今日は、よろしくお願いしますね」

 レネとエリアスの姿を確認した女性は、にっこりと優しい笑顔を浮かべた。

「急なお願いを聞いてくれて、ありがとうございます。よろしくお願いします」

 昨夜。一日だけミーナに花屋の仕事を手伝わせてあげて欲しいと伝えたレネに、ミーナの母は深く頷き、知り合いの花屋を紹介してあげると言った。エリアスと二人で夜の町をさまよい、ようやく辿り着いた家で顔を合わせたのは、昼間二人に花を売ってくれた女性だった。

 夜遅い訪問だったにも関わらず、事情を聞いた花屋の女性とその主人は二つ返事でミーナを受け入れてくれた。

「はじめまして。花売りのセリーナよ。一緒に、お花を売ってくれる?」

 売り子の女性が、レネのスカートを握ったまま所在なさげに立ちすくむミーナと視線を合わせる。

「……これ」

 無口な花屋の主人が、短い言葉とともにミーナに小さな籠を渡した。そこには、色とりどりのスイートピーの花がぎっしりと詰め込まれていた。

「お花、どうして?」

 ミーナの問いかけに、エリアスが笑顔を返す。

「夜のうちに、レネと摘んでおいたんだ。思い出の花なんだろ?」

 ミーナは花でいっぱいの籠を両腕に抱え込むと、何度も頷いて見せた。

「さあ、お仕事しましょう」

 セリーナが、少しずつ人通りの多くなっていく広場を指差した。ミーナは頬を紅潮させ、籠をぎゅっと握り込む。花屋の主人が、無言のままレネとエリアスにも花でいっぱいになった籠を持たせる。

「お花はいかがですか?」

 慣れた様子で人の集まり始めた広場を歩きながら、手本を見せるようにセリーナがよく通る声を出す。少し離れた場所に歩み出たエリアスは、通りがかった若い女性たちに人当たりの良い笑顔を向けた。

「そこのお姉さんたち、お花買わない? 美人揃いだから、きっと似合うと思うんだよね。お願いごとに使ってもいいよ!」

 高い歓声が上がったかと思うと、エリアスの手から飛ぶように花が売れて行く。

 レネとミーナは顔を見合わせると、意を決したように人の波に踏み込んだ。

「せーの! お花、いかがですか?」

 人前で大きな声を出すことに慣れていないレネは、顔を真っ赤にしながらミーナと一緒に歩き出す。

 不意に、杖をついた老夫婦がミーナの抱える籠を覗き込んだ。

「これ、町はずれに咲いているスイートピーかしら?」

「はっ、はい!」

 緊張しながら答えるミーナに、白い髪を上品に纏めた婦人が微笑む。

「懐かしいわ。私とおじいさんの思い出の花なのよ。あの花畑で、プロポーズされたの。足が悪くなってからはもう行くこともなかったけれど、あの花がまた見られるなんてねえ」

「あの。よかったら、いかがですか……?」

 緊張気味に籠を差し出すミーナの頭を撫でて、夫婦はスイートピーを花束にしてほしいと願い出る。

 その様子を見守ってくれていたセリーナが足早に戻ってくると、ミーナの籠に入っていたスイートピーを手早くまとめてリボンで結ぶ。あっという間に出来上がった花束を、ミーナが老夫婦に渡した。

「ありがとうね、小さなお花屋さん」

 老夫婦はミーナの頭をゆっくりと撫でると、人の行き交う広場へ消えていった。

 少し花の減った籠を胸に抱いたミーナは、目元を強く拭うと笑顔で顔を上げる。

「お花はいかがですか? とても綺麗ですよ!」

 晴れた空の下。喧騒の中に、その声は楽しそうに響いた。




 静かな鐘の音が、人通りの減った広場に響く。

 明るく輝いていた太陽は少し前に山の稜線の向こうに消え、町は薄青い色彩に包まれている。まるで、町がまるごと水の底に沈んでいくような夕暮れ。

 空の端を彩っていた朱が薄れて、胸が締め付けられるような物悲しさが湧き起こる。温かい町明かりが、眩しい。

「今日は、ありがとう」

 セリーナが、ミーナの持っていた籠を受け取ろうと手を伸ばす。そのたおやかな指先が、籠に残った白いスイートピーを持ち上げる。

「あら。売れ残っちゃった?」

 その言葉にミーナは大きく首を振り、ちらりと噴水に目を向けた。

「あっ、そうか」

 花売りの女性は優しい笑顔で、小さなスイートピーをミーナに渡した。

「お姉ちゃん。一緒に来てくれる?」

 ためらいがちに、ミーナがレネの手を握る。

「いいよ」

 レネは短く言うと、その手を握り返した。

 しんと静まった水面に、ミーナはそっと花を手向ける。透明な水の上にふわりと浮いた花は、やがて噴き上がる水に乗り、光へと変わった。

 ふわり。

 どこからともなく現れた黒い蝶が、ミーナのそばを舞う。

 レネがそっと指先を差し出すと、蝶は静かに翅を休めた。

 忘れたくない。

 ぴりぴりと指先から伝わる憂い。レネはミーナの傍らにしゃがみ込むと、黒い蝶の止まる手を差し出し、その目を見つめた。

「大丈夫。前を向くことはね、忘れることじゃないと思うんだ」

 ミーナのマリンブルーの瞳から、涙がこぼれる。

「前を向くことって、悲しまなくなることじゃない。泣かなくなることじゃない。忘れることじゃない。ただ」

 レネは一瞬、言葉を飲み込んだ。

 自分には、できるだろうか。いつか、前を向けるだろうか。

「ただね、いなくなってしまった人に遠慮しないでほしいの。やりたいことをちゃんと見つけて、楽しいことをたくさん知って。一生懸命生きてほしいの」

「カミラお姉ちゃんのぶんまで?」

「うん。二人ぶん生きるのって、大変だよ? 楽しいのも嬉しいのも、二人ぶん感じなきゃいけないんだよ。できる?」

 レネは小指を伸ばした手をミーナに差し出す。ミーナはそれに自分の小指を絡め、指切りをする。レネの手にそっと止まった蝶の翅に、少女の小さな指先が触れた。

「できる。頑張る」

 そっと舞い上がった黒い蝶が、光となって夜空に消えていった。


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