2.ここに咲く 1
「ねえ。ルゥアって、どうやったら消えるの?」
レネの言葉に、大きく膨らんだリュックを背中に担いだエリアスが振り返る。ベルトで括り付けられたカンテラが揺れて、乾いた金属音を立てた。
ふと顔を上げたエリアスの視界を、カラスアゲハが舞っている。青く光る翅を目で追った彼は、ぽつりと言葉を漏らした。
「あれは、ただのカラスアゲハだな」
「……知ってるけど」
ふい、と視線を逸らすレネに、彼はくっくっと押し込めたような笑いを漏らす。少し休憩するか、という言葉とともに、その指先が道端に生えたプラタナスの木に向けられた。
まだ春も浅い晴れた朝。ようやく芽吹き始めた新緑は木陰を作り出すには心許ないが、幸い日差しはそれほどきつくない。
ルーセルの街は、連なる丘の向こうに隠れてもう見えない。
重い荷物を静かに降ろしたエリアスが、プラタナスの幹に寄りかかる。レネは彼から少しだけ離れた場所に腰を下ろす。
微妙な距離感を咎めることもなく、エリアスは古びた水筒から水を飲むと、ゆっくりと口を開いた。
「ルゥアは誰の心にも棲んでいて、その心が傷ついたときに姿を現す精霊だ。あの蝶は人の心から生まれて、心に還っていく。ルゥアを還すには、宿主の心を癒すのが一番いいやり方だな」
「癒すって、具体的に何をするの? どうしたら、人の心は癒えるの?」
レネの言葉に、エリアスは少し困ったようにプラタナスの梢に遮られた空を見上げ、唸り声を上げた。
「いや、これといって特別なことはしないな。何か問題が起きてるならそれを解決してやればいいし、話を聞いてやってもいい。そばにいてやるだけでもいい。そんで心が晴れれば、ルゥアは自然と心に還る」
「なにそれ。そんなことでいいの? 失敗したら? 癒やせなかったら?」
「いいも何も、どんな言葉が癒やしになるかは、人それぞれだからな。どう対応するべきかなんて正解はないし、毎回賭けみたいなもんだ。失敗したら、誰かほかのノクターを頼ったっていいし、様子を見たっていい。まあ、いざとなれば、奥の手もあるけどな」
「奥の手って?」
「奥の手は、奥の手だ」
のらりくらりとした返答が、なぜか気に障った。
「ノクターって治癒術師みたいなものなんでしょ? そんないい加減な……」
なぜだか、心がざわめく。不安と苛立ちと心細い感情が入り混じった感覚に、無意識のうちにレネの語気は荒くなる。
その様子をじっと見つめていたエリアスのオリーブグリーンの瞳が、柔らかく細められた。
「レネ」
優しい声に名前を呼ばれて、レネはぴたりと言葉を止めた。口の端をゆるやかに持ち上げた穏やかな笑顔に、焦燥に似た感情がわずかに薄れる。
「悪い。俺がノクターにならないかなんて言ったから、不安に思ったんだろ?」
レネ自身も気付いていなかった焦燥感の裏にある不安の理由を言い当てられて、彼女は口をへの字に曲げる。
その頭をくしゃりと撫でて、エリアスは大丈夫だ、と呟いた。
「悪かった。焦らせる気はなかったんだ。おまえがなりたいと思ったらそうしたらいい。嫌だったら、ならなくてもいいんだ」
「だって、ならなかったら……」
置いていかれるじゃない。
怖くて口にできなかった言葉が、胸の奥をじわりと黒く染めていく。心臓がじくじくと腐っていくような、そんなぞわりとした感覚に、服の胸元を必死に握り込む。
その様子を見たエリアスが、ずい、と体を寄せてくる。
「おまえもしかして、ノクターにならないって言ったら置いて行かれるとか考えてねえ?」
またしても気持ちを言い当てられて、レネは勢いよく後ろを向いた。
背後でエリアスが立てる快活な笑い声が弾けた。
「何がおかしいのよ!」
怒鳴りつけるレネの言葉に、エリアスが笑いを引っ込める。
振り向くと、ハの字に歪んだ眉の下。優しく細められた目がどこか虚空に向けられている。その目が動き、今度はまっすぐにレネを見た。
「レネ」
呼び声に反発するように背中を向けたレネに、エリアスは言葉を続ける。
「大丈夫だ。おまえがノクターになっても、ならなくても、ここにいていい。旅の途中でおまえが居たい場所ができたり、やりたいことが見つかったりしたなら離れてもいい。ぜんぶ、おまえが決めていい」
低い響きの声が、波立つ心をなだめていく。
「だから、今は一緒に行こう。おまえがそうしたいって思えるなら、でいい」
エリアスの言葉に、レネは静かに頷いた。