1.宵闇の蝶 3
「さて、こっから本題だ」
二人分の皿が綺麗に片付いたのを確認して、エリアスが口を開く。
「俺らはお互いのことを知らなきゃいけないんだが、レネの故郷はどこだ?」
その言葉に、レネは温かい紅茶を淹れた木製のコップを握る手に力を込めた。
「……言いたくない」
ぽつりと呟いた言葉に、エリアスの視線が向くのを感じた。レネは手元の紅茶に視線を落としたまま、口をつぐむ。
「なら質問を変えるか。これからどこに行くつもりだった?」
「別に、どこにも」
当て所なく歩いてきた足が、急に重くなった気がした。
どこに行こう。
何をしよう。
これからどこに行ったらいいのかも、何をしたらいいのかもわからないのに。
黙り込んだレネの後ろに視線を向けたエリアスが、テーブルに頬杖をつく。
「つまり、今のおまえは目的地は決まってないけど、帰る場所もないって状況であってる?」
エリアスの言葉に、レネがためらいがちに頷いた。
「そりゃ、大変好都合だな」
思いがけない言葉に、レネは隣に座る青年に視線を向ける。柔らかいオリーブグリーンの目と正面から視線が絡み、慌てて目を逸らす。
「なあ、レネ。おまえ、ノクターにならないか?」
「……ノクター?」
聞き慣れない単語に、つい身構えてしまう。
聞き返すレネに静かに頷いたエリアスは、片手をゆっくりと上げた。
いつの間にかその指先には、黒い蝶が止まっていた。
「これ、見えるか?」
「……黒い、蝶」
昨日、街で見たものと一緒だ。しなやかな翅を大きく広げた蝶は、エリアスの手元で静かに休んでいる。
「正解。素質は充分だ。普通の人間には、見えないからな」
エリアスはそう言うと、静かな声で蝶に語り掛ける。
「さて。おまえは誰の憂いだろうな?」
その瞬間、ふわりと空中に舞い上がった蝶が透き通り、食堂の景色に溶け込むように消えていく。
「今のは……?」
「ルゥア。闇夜の蝶って呼ばれてる。人の心に棲んでいる、精霊の一種だ」
「精霊?」
胡散臭そうな表情を浮かべるレネに、エリアスは真面目な顔で言葉を続ける。
「人の悲しみ。後悔。憂い。寂しいとか切ないとか、そういう、いわゆる負の感情ってのは人を蝕む。悲しみに飲まれて気が触れた人間の話とか、聞いたことないか?」
ためらいがちに頷くレネに、エリアスは言葉を続ける。
「ルゥアは、人の心が傷ついたとき、その負の感情を吸い取って人の心を守るために表に出てくるんだ」
「何で消えたの?」
蝶の行方を捜すように、レネはあちこちに視線を巡らせる。
「宿主の心のあり方に影響されんだ。心が前を向きゃ消えもするし、悲しみに沈めば増えたりでかくなったり、な」
少しずつ冷めていく紅茶を飲み干して、エリアスが言葉を続ける。
「ウィープって、知ってるか?」
「魔物の?」
レネの言葉に、エリアスは静かに頷いた。
ウィープ。それは、黒衣を纏った人型の魔物の総称だ。伝承では声なき声で泣き、生者に絶望を呼び込むもの、あるいは死そのものを司る魔物と言われている。
「ウィープは、悲しみに沈んだ人間が異形の魔物になったものだ。強い絶望に飲み込まれて、自我を失った人の慣れの果て。ルゥアは、人が悲しみに飲み込まれないように守ってくれてるってわけだ」
エリアスは蝶が消えた指先を見つめながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「けど、ルゥアにも受け止めきれる悲しみの限界がある。ルゥアを助けて、悲しみを抱えた人間が魔物にならないようにその心を癒やすのが、俺たちノクターだ」
「治癒術師みたいなもの?」
「ま、そんなもんだ。見てみろ」
エリアスがカウンターの向こう側を指差す。
静かな厨房。その奥まった壁に貼られた、無数の紙が見えた。
厨房の真ん中に置かれた作業台に大量のジャガイモが入ったザルを乗せ、彼女は古びた椅子に横向きに腰かけている。
壁を向いて座る彼女の前にあるのはメモではなく、似顔絵や写真だ。ひときわ大きな写真にはぱっちりした目と華奢な体が印象的な若い女性と、彼女にぴったりと寄り添う少年、優しい笑顔を浮かべる夫らしき青年が写っている。
壁を埋める肖像は、ほとんどが少年のものだ。生まれたばかりの姿を写したものから、ひとりだけそっぽを向いた家族写真、大きくなった姿を収めた真新しいものまである。
ジャガイモの皮をナイフで向きながら、炊事婦の目は時折写真に向けられている。
その首の後ろ。頸椎に沿うように黒い筋が通り、タールのようなどす黒い闇がにじみ出た。
不意に起こった異変に、レネは息を飲み込む。
闇はまるで蛹から羽化するように、やがて細長い体と六本の脚に変わり、大きな翅がゆっくりと広がっていく。
写真を見つめる彼女のため息を合図に、先ほど見たものより一回り大きな闇夜の蝶が飛び立った。
ぼんやりと写真に見入っていた炊事婦は、大きく首を振って次のジャガイモを手に取る。光る鱗粉をまき散らしながら厨房を舞い遊んだ蝶が、光に溶けるように消えた。
しかし、少しすると再び蝶が空中を舞っている。
少しずつ大きくなるルゥアを指先に止まらせ、二人分の食器をカウンターに返したエリアスが口を開いた。
「なあ、おばさん。なんか悩みでもあんの?」
「何言ってんだい、がきんちょが。食べたなら、さっさと戻んな」
皮を剥き終えたジャガイモを水にさらし、戻された食器を洗いながら彼女はため息を吐く。
「いいから、いいから。うまいメシのお礼に、聞かせてよ。ため息ついてちゃ気になるだろ?」
炊事婦は、放っておいてくれと言わんばかりに口をつぐんだ。けれど遠まわしな拒絶を気にも留めずに、エリアスは言葉を続ける。
「なあ、あそこの写真って、息子さん?」
根負けした中年女性は、大きなため息とともに小言交じりの言葉を返す。
「そうさ。ちょうど、あんたたちくらいの歳の子だ。自分は音楽をやりたいんだって飛び出して、三年も連絡ひとつ寄越さない、放蕩息子さ。あんたたちを見てたら思い出しちまってね」
「ふうん。行き先はわかってんの?」
「さあね。今頃どこぞで野垂れ死んでるかもしれないしね」
吐き捨てるように言われた身も蓋もない言葉に、エリアスの手元に止まった蝶が大きく羽ばたく。黒い鱗粉が散り、ゆっくりと溶けて消える。女性の目元が、わずかに湿るのがカウンター越しに座るレネにもわかった。
かけるべき言葉が見つからないレネは、ただ黙って二人のやり取りを聞いている。
「大丈夫だよ。息子さん、元気でやってるだろうからさ」
にっ、と口角を上げて、エリアスが女性に笑いかけた。
「ちょっ、そんな無責任な……」
思わず食って掛かるレネの言葉を、エリアスは指先で制した。
「だって、息子さんレオン・ヴェルナーだろ?」
その言葉に、炊事婦の手が止まる。泡だらけの木製コップが床に落ちた。
カツン、という硬質な音を合図に、蝶がエリアスの指先に戻ってくる。
「あんた、あの子を知ってるのかい?」
疑いの色を含んだ声に、エリアスは厨房の壁に貼られた写真を指差した。
「あの写真、見覚えあったからさ。最近、王都でめちゃくちゃ有名なリュート弾きなんだけど、知らなかった?」
エリアスの言葉に、炊事婦の女性はぽかんとした表情を浮かべ、それから乾いた笑い声を上げた。
「……ははっ」
写真の飾られた壁を振り返った女性の笑い声に、涙が混じる。
戸惑いと疑惑。それから希望と安堵。喜びと期待が混じった笑いだ。
「男ってバカだからさ。ちゃんと功績残すまで、帰りたくないんだよね。心配されてんのがわかってればなおさら、次に連絡するのはもっと成功してからにしたいとか思ってさ。結局、自分が納得できるまでいつまでもふらふらすんの」
俺も人のこと言えないけどさ。
そう言って、エリアスは苦笑を浮かべた。
「大丈夫だろ。自分に納得できたら、帰ってくるだろうからさ」
炊事婦の女性が、流しっぱなしになっていた水をゆっくりと止める。
「……ったく。何を知ったような口きいてるんだい、お子ちゃまが」
呆れを含む言葉に、エリアスは握手でも求めるように蝶が止まる手を差し出した。
「もしどこかで会ったらさ、おばさんが待ってたって伝えるよ。その前に、帰ってくるかもしれないけど」
さりげない仕草で涙をぬぐった炊事婦は、少しばかりためらいながらエリアスの手を取る。
「どっかで見かけたら、このバカ息子がって怒っていたと伝えておくれ。その前に、戻ってくるかもしれないけどね」
女性の指先がルゥアに触れ、黒い光が弾ける。
ゆっくりと宙を舞った黒い鱗粉は、雪のように溶けて消えた。