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1.宵闇の蝶 2

 消えていったはずの蝶の黒い鱗粉が、ふわりふわりと舞い散る夢を見た。

 地面に落ちても消えることのない黒い光が、ゆっくりと世界を塗り潰していく。まるで、輝きを宿した闇に世界が沈んでいくような、そんな夢。

 ねえ、どうやったら消せるの?

 この目障りな黒を。

 視界を埋め尽くす吹雪のような鱗粉を消し去りたくて振り上げた手を、誰かに掴まれた。思いがけず強い力で握り込まれた手に苛立って、不機嫌な呻き声が漏れる。

 ゆっくりと目を開くと、窓から柔らかく差し込む光が見えた。

 夕日。いや、朝日か。

 風雨に汚れた窓ガラスを抜けた光が、見知らぬ室内を優しく照らし出している。端に寄せられた刺繡入りのリネンのカーテンと、小さな机。装飾のない無機質なチェスト。その上に飾られた野の花が温かい雰囲気を作り出している。

 その光の中に、くすんだ茶の髪が見えた。

 藁を敷き詰めたマットレスを使用した木製のベッド。その脇に置かれた古びた椅子に腰かけて、街で出会った青年がレネの顔を覗き込んでいた。

 青年が自分の手を握っていることに気付いたレネは、大きくて温かい手を勢いよく振り払う。

「何のつもり?」

 寝かされていたベッドから身を起こし、震える両手を胸元で握り込んだレネが青年を睨みつける。

 青年は誤解するなよ、とでも言いたげに両手を上げて見せた。

「勝手に運んで悪いな。昨日倒れたこと、覚えてるか?」

 差し出された大きな手に触れたときの、心の奥がふっと緩むような感覚が甦る。指先の震えが止まって、初めて右手に包帯が巻かれていることに気付いた。同時に、怪我をしていたことを思い出す。

「ちょっと悪い」

 青年の手が伸び、レネの額に触れた。体を強張らせるレネを咎めることもなく、彼はすぐに指先を離す。

「うん。熱は下がったな。おまえ、無理してたんだろ。よく頑張ったな」

 温かい手がくしゃりと前髪を撫で、すぐに離れる。

「……ここ、どこ?」

 何とも言えない気まずさを感じ、掠れた声で問いかける。レネの視線の先で、青年はオリーブグリーンの目を優しく細めた。その目の下に、わずかな影があることに気付く。

「ルーセルの宿だ。旅人向けの、な」

 そう言うと、青年は椅子から立ち上がって伸びをした。

 その何気ない動きに、レネは言い知れぬ不安を覚える。置いて行かれるんじゃないかという不安が、呼吸を早くする。

「着替えて降りて来いよ。昼メシ、頼んであるんだ」

 使い込まれた、けれど埃ひとつない床が青年の動きに合わせてぎしりと鳴る。彼はドアノブに手を掛けたところで、動きを止めて振り向いた。

「エリアスだ」

「え?」

「俺の名前。おまえは?」

 ただ、名前を聞かれただけ。それだけ。たったそれだけのことが、一緒にいていいと言われている気がして、少しだけ安心する。

「……レネ」

「おし、レネ。早く来いよ」

 古びた木製扉が閉まる。気が付くと、ベッドの端には見慣れぬ衣類が置かれていた。

 しっかりとした造りのブラウスとワインレッドのベスト。動きやすい膝丈のスカート。厚手の生地を使った茶色のコート。

 少しばかりサイズの大きいブラウスの袖を折り上げ、扉を開ける。

 飴色に磨かれた階段を下りた先に、小さな食堂があった。二人掛けのテーブルが三つ詰め込まれているだけの狭い空間。厨房との境を仕切るカウンター席に、エリアスが座っている。

 レネが踏みしめた階段がわずかに軋む。その音に気付いたのか、顔を上げたエリアスがふっと微笑んで隣の椅子を引いた。

 ほんの少しだけ椅子を遠ざけたレネが座ると、厨房の奥から太い腕が伸び、二人の前に素朴な木の皿が置かれた。見ると、長い髪をきっちりとまとめ上げた炊事婦がカウンターの向こうに立っていた。

 分厚いパンを耳ごと使ったホットサンドに、湯気を立てる温野菜のサラダ。瑞々しい櫛切りのオレンジ。淹れたばかりの温かいお茶。

「あんたたち、もう昼だよ。頼んだのは朝食だっただろ。ったく、片付かないったら」

「ごめんごめん。すごくうまそうだよ。ありがとね、お姉さん」

 食事と一緒に提供された小言をさらりと聞き流し、エリアスが恰幅の良い中年女性に屈託のない笑顔を向ける。

「ったく、調子のいい子だね。嬢ちゃんの熱は、もういいのかい?」

 ため息交じりの言葉に続く気遣いに、レネは少し戸惑う。

「おばちゃん、昨日夜遅くまでレネを心配してくれてたんだぜ。氷嚢用意してくれたりしてさ」

 こっそりと耳打ちされた言葉に、顔が熱くなる。

「あの、ありがとうございます」

「早く食べちゃいな」

 ふん、と鼻を鳴らした女性は、厨房の奥に戻っていく。

 目の奥が熱くなるのを止めたくて、とろとろに溶けたチーズとハムのホットサンドを口に含んで意識を逸らす。

 故郷を出てから、ほとんど何も口にしていなかったことを思い出す。なんてことのない温かい食事が、こんなにも幸せなものだと思わなかった。


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