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6.灰の町 後編 1

 細い腕に抱えた体が身じろいだ気配で、レネはゆっくりと目を開けた。

 廃墟と化した灰の町。気が付けばレネは、固い石畳の上に座り込んでいた。膝の上に抱え込んでいたエリアスは、いつの間にか青年の姿に戻っている。

 まるで短く悲しい夢を見ていたような、そんな感覚。

 座り込むレネを見下ろすようにして、ノアがすぐそばに立っていた。まるで、絶望に沈む二人を見て楽しむように。

 レネの目元に溜まった涙が頬を伝い、青年の顔に落ちる。その雫に気付いたのか、エリアスが微かに呻いた。

「あ、エリ…アス……?」

 微かな声を漏らすレネの前で、エリアスがゆっくりと身を起こした。

 途端に、魔物に成り果てたノアの表情が強張った。

 ぼんやりとした思考の中でウィープに体を貫かれていたことを思い出し、レネは慌てて青年の背中に手を伸ばす。

 しかしその背に傷はついていなかった。血液の跡はおろか、確かに見たはずのタールのような真っ黒い何かもきれいに消えている。

「傷は……?」

 混乱して呟くレネに、エリアスはいつもと変わらない笑顔を向けてくる。

「大丈夫だ」

 その言葉に、表情に、なぜだかとても安心する。エリアスは静かに立ち上がると、目の前の魔物と向き合う。

「ウィープは一番辛い記憶を呼び起こすことで、相手を絶望に沈めるんだ。けど、残念だったな。その悲しみは、もう乗り超えた」

 悔しさと怒り、わずかな怒り。そんな感情が混ざり合った表情を浮かべたノアは、座り込んだままのレネに敵意の矛先を変えた。

 強膜が真っ黒く染まった目が、レネに向く。鋭い爪の先が迫って、レネは強く目を閉じた。

 しかし、レネを守るように立ちふさがったエリアスが、ノアの腕を横に弾く。彼は、バランスを崩した青年をたやすく地面に組み伏せた。

 馬乗りになって動きを封じたエリアスは、ノアの襟元から覗く首筋に、取り込まれた黒い蝶がうごめいているのを見つけ出す。

 エリアスの手が青年の首筋に当てられ、何かを掴むような動きをし、離れていく。その手には、光を失った黒い蝶が掴まれていた。

「あ……」

 ノアが返して欲しいとでも言うように、ゆっくりと腕を伸ばした。

 けれど、エリアスは静かに首を振る。

「もうそろそろ、開放されていい。苦しんだだろ。おまえの体は、もう死んだんだ。おまえももう、還らなきゃいけない」

 黒い蝶が、エリアスの手の中で光の粒子に変わっていく。

 その輝きが消えるとともに、青年の体はぼろぼろと乾いた泥のように崩れ、風にさらわれて消えた。

「終わったの……?」

 遠慮がちに問いかけるレネに、エリアスはまだだ、と首を振る。

「まだ、この町に悲しみが残ってる」

「え?」

 彼はゆっくりと礼拝堂に近付くと、おびただしい亡骸の山に向かって静かに両手を伸ばした。

 遠慮がちに歩み寄ったレネの目の前で、亡骸の一つ一つが小さな黒い蝶に姿を変えると、エリアスのもとに集まっていく。

 礼拝堂だけではない。

 瓦礫に埋もれた広場から。崩れかけた建物の中から。町の至るところから現れた黒い蝶たちが、次々に寄ってくる。ざわざわと耳に届く羽音が、鼓膜を震わせる。

 失意を抱き、体を失い、還る場所がわからなくなった悲しみたちが、町中を埋め尽くしていた。

「あと少し、もつか……」

 自分の手のひらを真剣な表情で見つめたエリアスが苦しそうに眉根を寄せると、ぼそりと呟く。

 彼はゆっくりと広場の中央に歩み出ると、その両手を天に掲げた。彼のもとに集った蝶たちが、まるで真っ黒な吹雪のように頭上を舞っている。

「もう、悲しみを閉じ込めておく必要はない」

 静寂の中に、エリアスの言葉が低く響いた。

「もう、大丈夫だ。おまえたちの痛みも、涙も、俺が受け取ったから。よく耐えたな。ありがとう。さあ、行け!」

 エリアスの言葉に応えるように、無数の蝶が、藍色の空へと舞い上がった。

 風を切る音にも似た蝶の羽音が遠ざかり、蝶の群れはやがて光となって消えていく。

「今のは?」

 おびただしいルゥアが消えて行くのを呆然と見送ったレネが、ぽつりと問いかける。

「この町に残されたルゥアだ。宿主を亡くして行き場もなく取り残された悲しみの残骸。ウィープにすらなれなかった残骸。癒やすべき心を失った悲しみは、浄化しないと積もり積もって災いを呼ぶ。はぐれちまった悲しみは、強制的に消すしかないんだ」

 気が付けば、空の端がわずかに日の光を帯びている。ブルーモーメント。深い青に染まる空が、ひどく幻想的だった。

 もうすぐ、朝が来る。

 ふと目をやると、エリアスの手が震えていた。口角は上がっているのに、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。こめかみを、汗が伝っていく。

「エリアス……?」

 囁くように声を掛けるレネの視線に気づき、エリアスがいつもの調子でへらりと笑う。彼はそのまま勢いよく地面に座り込んだ。

「ったく、疲れたな」

 そのオリーブグリーンの瞳が、どこか気だるげにレネに向けられる。

「なあ。おまえ、俺の過去を見たんだろ?」

 なんと答えるべきか迷ったレネは、少し逡巡したあとで、ためらいがちに頷いた。

「あれ、やっぱりエリアスだったの?」

 レネは、半信半疑のまま目の前の青年を見つめた。その視線を受け止めたエリアスが、静かに頷く。

「ウィープは、人の体ではなく精神を攻撃するんだ。その時に、哀血……黒い泥のようなものが溢れなかったか?」

「あ……」

 エリアスの体から流れ出たタールのような液体を思い出し、レネは首を縦に振る。

「普通の人間には見えないし、触れられないもの。負の感情や、記憶がどろどろに混ざったものって言えば、わかりやすいか。たぶん、それに触れたせいでお前の意識も引っ張られたんだろうな」

 どうやらレネの意識だけがエリアスの感情に引き込まれ、ルゥアを介して彼の記憶に干渉した、ということらしい。


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