3.嘘つき少女とフェアリーテイル 4
山の向こうに沈んでいく太陽が、街を温かいはちみつ色に染めている。
白い建物が並ぶセリディアは、夕暮れ時が一番美しいという。柔らかな光を反射する運河と、そこにたゆたうゴンドラの影。温かい色彩に街全体が包まれて、なぜだかとても穏やかな気持ちになる。夕暮れは寂しいものだと思っていたレネは、光に溶けていくような街並みに、ゆっくりと息を吸い込んだ。
吹き抜ける風に、潮の香りが混じっていた。
『夕食は、各自でお願いしているんです』
申し訳なさそうにタリアに言われ、荷物を置いて一休みしたレネとエリアスは夕景の広がる街に出た。
優しい明かりの灯る繁華街で食事を済ませ、外に出ると、街はすっかり薄闇の中だった。
暗くなり始めた街に、運河の水音だけが響いている。日差しを失った街を吹き抜ける風が、涼しい。
「足元、気を付けろよ」
さりげなく気遣ってくれるエリアスを追いかけて、レネは石畳の道に踏み出す。そのすぐ横を、黒く光る鱗粉をまき散らしながら、黒い蝶が飛び去ろうとするのが見えた。
「あっ!」
レネの声に振り向いたエリアスが、ルゥアを見つけて手を伸ばす。
ホテルで見た、あの蝶だ。悲しみを吸って大きくなった翅。その細い足が、エリアスの指先を掴もうとしたときだった。
「ダメ! 触らないで!」
人通りのほとんどない路地に、どこか幼さを残した声が響く。
驚いて振り向いたレネの目の前で、月明かりに透き通るアッシュブラウンの髪が躍った。
突然現れたのは、昼間どこかに出て行ってしまったリリィだ。
彼女は空中に伸ばされたエリアスの手を掴み、手荒く蝶から引き離した。形の良い爪の先が引っ掛かり、エリアスの手に傷を残す。
「ちょっと!」
咎めるような強い口調で声を上げたレネを、エリアスの手が制した。
昼間会った少女は、悲しみを讃えた目で夜空に高く舞い上がったルゥアを見ていた。
「あれは、パパとママが送ってくれた遣いなの。あたしをいつも見守ってくれてるの」
「何言って……。あなたのご両親は」
「レネ!」
レネの言葉を遮ったエリアスが、ゆっくりと首を振る。言うな、という意図が伝わって、レネは口をつぐんだ。
「悪かった。ご両親の遣いだと思わなくて。触らないから、安心してくれ」
エリアスの言葉に、リリィはふっと肩から力を抜いた。
「リリィ。おまえも、あの蝶が見えるんだな」
警戒を解いた様子の少女に、エリアスが言葉を掛ける。
「みんなには、見えないものなの?」
「普通は、な」
「ふうん。あたし、おかしい?」
「大丈夫だ。おかしくない」
エリアスの言葉にほっとしたような笑顔を浮かべたリリィは、細い水路の脇にゆっくりと座り込んだ。彼女に付き合うように、エリアスが隣に腰を下ろす。
「夜になるとね、あの蝶がパパとママからの手紙を運んできてくれるの。だからあたしは、パパとママに返事をするの。今日も元気だったよって。寂しくなんかなかったよって」
星が瞬き始めた夜空に、リリィの細い腕が伸ばされる。
「あたしのパパとママはね、旅の騎士なの。今は、すごく遠い場所で世界を守ってる」
「そのうち、戻って来るのか?」
「もちろん! それまでは、あたしがおばさんのことを守るんだ」
エリアスの言葉に、少女は陰りのない心からの笑顔を浮かべて見せた。
「あなた、そんなふうに笑えたの?」
「ちょっと、それどういう意味?」
ぼそりと零れたレネの言葉に、即座に仏頂面になったリリィが振り向く。吹き出したエリアスの笑い声が、夜風にさらわれて消えた。
「パパとママが帰ってきたらね、いつかみんなで空に浮かぶ島に行くの。そこに行けば、もう誰もいなくならないんだって」
小さな子供に聞かせるおとぎ話のような話を、リリィは目を輝かせて語る。まるで、悲しみから逃れようとするように。
暗い闇の中、不意に舞い戻った黒い蝶が鱗粉を散らす。これまで見て来たルゥアと違い、その姿はどこか色褪せて見えた。疲れて、弱っていることがレネにもわかった。
「リリィ。あの蝶は、弱ってきてる」
急に真面目な口調で、エリアスが隣に座る少女に語り掛けた。
「え? ああ、そうよね。今日はもう遅いし、少し休ませてあげなくちゃ」
戸惑いがちに言葉を返すリリィに、ノクターの青年は静かに首を振った。
「あの蝶は、おまえを悲しみから守ってる。けど、その力が弱まってきてる」
「悲しみ?」
その言葉に、突然リリィの表情が強張った。
「悲しみってなによ! あたし、悲しくなんかないもん。パパとママは、すぐ帰ってくるの! 悲しいことなんか、何も起きてない!」
「落ち着けよ。俺たちノクターは、あの蝶とおまえの悲しみを癒やしたいだけだ」
エリアスが、ふっと表情を消した。感情の凪いだ瞳に見つめられ、リリィは口をつぐむ。浅い呼吸が少しずつ早くなり、彼女は歯を食いしばる。
「あたしだってノクターだもん。蝶のことはよくわかってるし、ひとりでも大丈夫なの!」
「ちょっと。言ってることがめちゃくちゃ……」
レネの言葉に、リリィは勢いよく立ち上がると夜の闇へと駆け出して行く。
「レネ」
静かに名前を呼ばれて、レネははっとする。
「ごめんなさい」
ゆっくりと立ち上がったエリアスは、レネの頭に大きな手を置き、ふっと微笑んだ。大丈夫だ。そう言われていることがわかった。
レネは、静かに口を開く。
「あの子、自分の悲しみに気付かないふりをしてるの?」
「そうだな」
「嘘を吐くことで、自分のことを守ってるの? 両親は、死んでいないって」
「そうだろうな」
「どうしたら、悲しみを癒してあげられるの?」
「そうだなぁ」
レネの問いに、エリアスは再び同じ言葉を呟いた。けれど、それ以上の言葉は出てこない。自分で考えてみろ。そう言われている気がした。
別に、私が癒やす必要なんてないじゃない。
ふと、そんな思いがレネの心に広がる。自分はノクターではないし、隣にはノクターであるエリアスがいるし、リリィは他人だ。自分が何かをする必要なんて、ないはず。
なのに、どうしてだか問いは次々に口から零れる。
「このまま放っておいたら、リリィはウィープになるの?」
「そうだろうな」
短い肯定の言葉に、ぞわりと背筋が凍り付く。
悲しみの先には、必ず救いがあってほしいのに。
「あと、どれくらいもつの?」
「さあな。こればっかりは、ルゥア次第だ。二、三日はもつはずだけどな」
リリィの走り去った夜の街は、ひどく暗く見えた。




