プロローグ
艶やかな漆黒の翅が、ひらりと宙に飛び立つ。そのかすかな羽ばたきに舞い踊る鱗粉のように、闇が、辺りに散った。
ゆっくりと。ゆっくりと。
重みを感じさせない速度で地に落ちるその闇は、周囲の光も音も色もすべて吸い込み、まるで黒曜石のように輝いては消えていく。
その光る闇がとても美しくて、無意識のうちにレネはその光景に魅入ってしまう。
きれいだった。音もなく闇を散らすしなやかな蝶の翅も、絶望を知らしめるように舞い遊ぶ黒い鱗粉も。
その下。地面にうずくまるように座り込んだ幼い少年が、鱗粉を吸い込んだ。途端に、大粒の涙が柔らかい頬を伝った。頬を拭う泥だらけの袖と、歩き出しもしない穴の開いたぶかぶかの靴。
ああ。悲しいんだ。
大きく膨らんだ悲哀の感情が空気に混じってのしかかってくるような妙な圧迫感に、レネの息が浅くなる。
妹らしき子供の手を引いて振り向きもせず遠ざかった女性と、何も言わずにただうなだれた少年。その様子を気にも留めずに、往来を行く人の波。
道端に置かれたベンチに座って目の前で繰り広げられる光景を見ていたレネは、そのすべてに諦めと哀れみが混じったような、少し冷めた視線を向けた。
かわいそうに。でも、くだらない。冷たく濁った感情が湧き上がっては、じくじくとレネの心を腐らせる。
「そんなことが、悲しいんだ」
その程度のことが。
ぽつりと呟いた言葉は、誰の耳にも届かないまま虚空に消えていった。
その時だった。
往来を行く人の波から離れ、風を切るように大股で歩く青年がレネの視線の先にいた少年に近付いた。
二十歳を少し過ぎた年齢だろう。くすんだ茶の髪と、緑がかった茶の瞳。長い脚がぐんぐん前に伸びて、カーキ色のモッズコートが動きに合わせて翻る。
少年の隣に屈みこんだ青年はそのくしゃくしゃの金の髪を掻き撫でると、口角を思い切り上げて笑顔を見せた。
「だーいじょうぶ、だいじょうぶ。母ちゃんに置いてかれたと思ったか?」
次から次へと溢れる涙を拭っていた少年は、青年の言葉に顔を上げた。
「見てみな」
青年が肩越しに往来を指差す。その先。困った表情で街角に立ちすくみ、母親と妹が少年を待っている。
青年は頭上に目を向けると、おもむろに空中に手のひらを伸ばした。その指先に、夜闇を掬い取ったような色合いの蝶が静かに止まる。
少年には蝶が見えていないのだろうか。目の前にいる青年の動きを、少しばかり不思議そうな表情で見つめている。
男は蝶を止まらせた手を、そのまま少年に差し出した。
「ほら、大丈夫だ。早く追いかけな」
その言葉に頷いて、少年は差し出された手を支えに立ち上がる。蝶の翅に少年の手が触れた。
その瞬間、黒い光が辺りに弾けた。黒曜石のように煌めいた闇は、世界に溶けるように消えていく。
駆けだした少年は家族に追いつくと、手を繋いで歩き出す。暮れなずむ夕日が、しっかりと握られた手を照らしている。
「あ、消えた」
蝶が舞っていた空間をぼんやりと見つめ、レネがぽつりと呟く。その声を拾ってか、青年が振り返る。
「おまえ、蝶が見えるのか」
不意に向けられた言葉に、レネは鋭い視線を返した。
「大丈夫。警戒しなくていい」
足早に街を行く人の群れが、レネと青年を避けて流れていく。
彼はレネに片手を差し出すと、何が楽しいのか口角を上げて笑って見せた。
「良かったら、一緒に来な。きっと、必要なことだろうから」