表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

骨まで愛して

作者: 八尋







 

 深い森の奥、まるで世界から忘れ去られたかのような場所に、その洞窟は黒々とした口を開けていた。

 苔むした岩肌は湿気を帯び、入り口付近には名も知れぬ蔦植物が不気味な影を落としている。

 

 陽の光すら届かぬその場所で、ひとりの若い女が息を整えていた。長く艶やかな黒髪は邪魔にならぬよううなじで一つに束ねられ、活動的な印象を与える。腰に下げた古びた革袋からは、いくつもの魔除けの護符が覗きカチャリと微かな音を立てていた。エクソシストとしてのキャリアは、彼女自身が認める通りまだ浅い。

 しかしその瞳の奥に宿る強い意志と、時折見せる鋭い洞察力は、彼女が類稀なる才能の持ち主であることを示唆していた。

 

『この洞窟に潜むという悪霊を退治せよ』

 

 数日前、彼女が依頼を受けた村の長老からの言葉が脳裏に蘇る。声には出さねど、長老の顔には憂いと期待が滲んでいた。

 村では近頃、この洞窟に近づいた者が原因不明の病に倒れたり、家畜が姿を消したりといった不穏な出来事が続いていたのだ。その元凶が悪霊の仕業であると、村人たちは噂し、怯えていた。

 そして白羽の矢が立ったのが、若輩ながらもその才を見込まれた彼女だった。一人前のエクソシストとして認められるための試金石となるであろうこの任務に、彼女は武者震いにも似た緊張と、微かな高揚感を覚えていた。


「ここが、噂の『嘆きの洞窟』か…」

 彼女は呟き、ごくりと唾を飲み込んだ。洞窟の入り口から吹き出す冷気は、まるで冥府からの吐息のようだ。深呼吸を一つ、懐から取り出した松明に、慣れた手つきで火打石を打ち付けて火を灯す。パチパチと音を立てて燃え始めた炎が、彼女の緊張した面持ちを頼りなげに照らし出した。

 

 おずおずと、しかし確かな足取りで、彼女は洞窟の中へと一歩、また一歩と足を踏み入れる。ひんやりとした空気が肌を刺し、松明の炎が揺らめくたびに、壁に映る影がまるで生きているかのように踊った。

 

「誰かいますか?…もし、いるのなら、出てきなさい!」

 エクソシストとしての威厳を込めたつもりだったが、声はわずかに震え、洞窟の奥へと吸い込まれるように響き渡った。返事はない。

 ただ、しん、と静まり返った闇の向こうから、微かな、本当に微かな物音が聞こえてくるような気がした。聞き間違いかもしれない。あるいは、自分の心臓の鼓動が反響しているだけかもしれない。

 それでも彼女は恐怖心を押さえ込み、松明を掲げながら慎重に奥へと進んでいく。洞窟の道は狭く、天井も低い。時折頭上の岩から滴り落ちる水滴が、首筋を濡らしては彼女を小さく驚かせた。

 

カサ…コソ…


 不意に、先ほどよりもはっきりとした物音が闇の奥から聞こえてきた。それは、乾いた葉を踏むような音にも、あるいはもっと硬質な何かが擦れ合うような音にも聞こえた。

 そしてその音は徐々にこちらへ近づいてくる。彼女は息を飲んだ。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、手のひらにじっとりと汗が滲む。

 

(来た…!悪霊に違いない!)

 

「お、おのれ、邪悪なる存在よ!聖なる炎の前にて、その醜き姿を晒すがいい!浄化の印を受けよ!」

 恐怖を振り払うように叫びながら、彼女は腰の革袋から聖典を取り出し、震える手でそれを掲げた。

 そして、師から叩き込まれた浄化の呪文を、必死に、しかし途切れ途切れに唱え始めた。炎が一段と強く燃え上がり、彼女の周囲を照らす。

ガラン…コロン…

 洞窟の奥、闇が最も濃い部分から、予想だにしなかったものが姿を現した。

 それは、怨念渦巻くおぞましい悪霊でも、異形の怪物でもなかった。

 そこに立っていたのは――完全な、人骨だった。ところどころ欠け、黄ばんだ骨格は、辛うじて人の形を保っている。ぼろぼろになった鎧の残骸を身にまとい、その手には錆びつき、もはや武器としての用をなしそうもない剣が握られていた。

 

「やれやれ、またエクソシストか。まったく、悪霊ではないと何度言えば学習するんだ、最近の若いのは…」

骨が、話した。

 カコン、と顎の骨が小気味よく動いて、乾いた、しかし妙に落ち着いた男性の声が洞窟内に響いた。

 

「ひゃっ…!? しゃ、喋ったぁぁぁぁぁっ!?」

 彼女は、エクソシストとしての矜持も何もかもかなぐり捨てて、素っ頓狂な悲鳴を上げた。そして、足がもつれ、無様にどさりと尻もちをついてしまった。松明が手から滑り落ち、コロコロと転がって危うく消えそうになる。

「き、きみは…お、お化け? いや、話す骨…? ボーン・スピーカー!?」

 

 パニックで支離滅裂な言葉を口走る彼女を、骨は――正確には、骨の頭蓋骨の空っぽのはずの眼窩が――じっと見下ろしている。

 

「失礼なやつだな、お嬢さん。ボーン・スピーカーとはなんだ。私はこれでも、生前はそれなりに名の知れた騎士だったんだがな…」

 骨は、カコン、と肩の骨を竦めるような仕草をした。もちろん、肩の肉も筋肉もないのだから、そんな動きができるはずもないのだが、なぜかそう見えた。

 そのシュールな光景に、彼女は一瞬恐怖を忘れ、ぽかんと口を開けてしまった。

 

「まあ、今は見ての通り、骨だけだが」

 カランコロン、と骨が軽い音を立てて一歩踏み出す。彼女は慌てて後ずさり、転がっていた松明を拾い上げた。震える手で再び骨を照らし、穴のあくほど見つめる。

 確かに、この骨からは、悪霊が放つような邪悪な気配や、魂を凍てつかせるような冷気は感じられない。むしろ、どこか物憂げで、諦観にも似た雰囲気が漂っている。

 

「あ、あなたは…本当に、悪霊ではないのですか…?」

 おそるおそる尋ねる彼女に、骨はこれみよがしにため息をつくような動きをした。もちろん、肺がないので息は出ない。

「だから、そう言っているだろう。私は人間だった…いや、今も人間だと思っている。ただ、ちょっとした呪いとやらで、肉体をきれいさっぱり失ってしまっただけのことだ」

 

 彼女は、信じられないという思いと、目の前の超常現象に対する純粋な好奇心とがないまぜになった表情で、骨を見つめ続けた。骨は、カチャリと錆びた剣を、これまた錆びた鞘に収めるような仕草をすると、くるりと背を向け、洞窟の奥へと戻り始めた。

 その背中(というべきか、背骨というべきか)は、やけに寂しげに見えた。

 

「ま、待ってください!あなたの…あなたの話を、聞かせていただけませんか?」

 気づけば、彼女はそう叫んでいた。

 骨はぴたりと足を止め、ゆっくりと、ギギギ…という効果音がつきそうなほど時間をかけて振り返った。暗闇の中で、頭蓋骨の眼窩だけが、松明の光を反射して妙に爛々と輝いて見えた。

「ほう…?こんな骨だけの男の話に興味があると?物好きな嬢ちゃんだな。いいだろう、中へ来るがいい。ただし、一つだけ警告しておくぞ。私の話は、恐ろしく長くて…そして、とてつもなく退屈かもしれん。それでも良ければ、だが」


 彼女は一瞬躊躇した。洞窟のさらに奥へ進むことへの恐怖。そして、目の前の「話す骨」という存在への底知れぬ不気味さ。しかし、それ以上に、この奇妙な存在が語るであろう物語への好奇心が、彼女の背中を押した。

 それに、エクソシストとして、呪いの話と聞けば聞き捨てならない。

 

「……はい。お聞かせください」

 彼女は意を決して頷いた。骨は、満足したようにカコン、と顎を鳴らし(彼女にはそう見えた)、再び洞窟の奥へと歩き出す。彼女は、松明をしっかりと握り直し、その不思議な骨の後に続いて、未知なる闇の中へと足を踏み入れたのだった。



 洞窟の奥は、入り口付近の陰鬱な雰囲気とは裏腹に、意外にも居心地の良い空間が広がっていた。壁にはいくつかの松明が灯され、洞窟特有の湿っぽさを和らげている。

 中央には、岩を削って作ったような粗末なテーブルと、同じく岩でできた椅子が二つ置かれていた。

 壁際には、おびただしい数の本が、まるで知識の地層のように積み上げられており、その隣には、先ほど骨が身に着けていたものよりもいくらか状態の良い、しかしやはり錆びついた鎧一式が、亡霊のように立てかけられていた。

 隅には、ワイン樽らしきものまで見える。骨だけの存在が、なぜこんな生活空間を? 彼女の頭には疑問符が乱舞した。

 

「まあ、座れ。岩の椅子で尻が痛むかもしれんが、文句は受け付けん」

 骨は、片方の椅子をカコン、と顎で指し示した。その仕草が妙に堂に入っているのが、またシュールだ。

 彼女は、まだ警戒心を完全には解けないものの、恐る恐るその岩の椅子に腰を下ろした。ひんやりとした感触が伝わってくる。

 骨は、もう片方の椅子に、これもまた慣れた様子で「座った」。もちろん、肉がないので体重で椅子が軋む音はしない。ただ、カタン、と骨盤あたりの骨が岩に触れる乾いた音がしただけだ。

 そして、まるで長年連れ添った友人にでも語りかけるように、ふぅ、とため息をつくような仕草をした。やはり、呼吸する必要などないはずなのに。

 

「さて、どこから話したものか…そうだな、まずは自己紹介からいくべきか。もっとも、今の私に自己など残っているのか怪しいものだが」


 骨は、テーブルに肘をつくようなポーズを取る。肘の骨が岩に当たり、カツンと音がした。

「かつて私は、この国…いや、当時はまだいくつかの小国に分かれていたが、その中でも最も勇猛と謳われた王国の、筆頭騎士だった」

 骨は、遠い昔を懐かしむような声音で語り始めた。その声には、奇妙な説得力があった。

「人々は私を『獅子心王の右腕』だの『不敗の剣聖』だのと、少々大げさな二つ名で呼んだものだ。名誉も、富も、美しい女性たちの賞賛も、望むものはすべて手に入れた。若気の至りというやつで、少々傲慢になっていたかもしれんな。そう、すべてが順風満帆だった。だが、それが…結果として災いを招くことになった」

 

 骨は、ふと語るのをやめ、テーブルの上に置かれた空の木杯を手に取る仕草をした。そして、何もない空間から、まるで透明なワインボトルを取り出すかのように、木杯に何かを注ぐ真似をする。

 トクトク…という幻の音が聞こえてきそうだ。そして、それを飲むかのように、頭蓋骨を傾けた。もちろん、何も飲めないし、味も感じないはずだ。その一連の滑稽とも言える行動に、彼女は思わず口元が緩みそうになるのを必死で堪えた。

 

「おっと、失礼。長年の癖でな。もう味なんぞ、とっくの昔に忘れちまったというのに」

 骨は自嘲するように言って、空の木杯をテーブルに置く仕草をした。

「ある日、私は王から直々に命じられた。それは、王国の辺境に聳え立つ古城に潜み、近隣の村々を恐怖に陥れているという魔女を討伐せよ、というものだった。それまでに、何人もの腕利きの騎士や、果ては高名な魔法使いまでもがその魔女に挑み、そして誰一人として帰らなかったという、いわくつきの任務だった」


 彼女は、思わず身を乗り出して聞いていた。目の前の骨が、かつてはそんな勇壮な騎士だったとは、にわかには信じがたい。

 しかし、その語り口には、紛れもない真実の響きがあった。

 

「私は、いつものように自信満々で古城へと乗り込んだ。お供も連れず、ただ一騎でな。若さゆえの無謀さもあったのだろう。城の奥深くで、ついに私はその魔女と対峙した。噂に違わぬ強力な魔力を持つ相手だったが、激しい戦いの末、私はついに魔女の胸をこの剣で貫いたのだ…」

 骨は、腰の錆びた剣の柄を、カチリと指の骨で叩いた。

「しかし…」


 骨は、ふと言葉を切った。その頭蓋骨の眼窩が、まるで苦渋に歪んだかのように見える。

「魔女は、死に際に最後の力を振り絞り、私に呪いをかけた。それは、おぞましい呪詛だった。『貴様のその強靭な肉体を永遠に奪い、魂だけをこの骨の檻に閉じ込めて、永劫の時を孤独に生き続けよ』…とな」

「そ、それで…あなたは…」

 彼女は息を呑んだ。物語は、彼女の想像を遥かに超えた方向へと進んでいた。

「うむ。その言葉通り、私はこうなったというわけだ。魔女の断末魔の叫びと共に、私の肉体は足元から崩れ落ち、意識が遠のいた。そして次に気がついた時には…この、見ての通りの姿になっていた。死んでいるわけではない。だが、生きているとも言えない。ただの骨だけの存在だ。そして、気が遠くなるほど長い年月を、この洞窟で過ごしてきた」

「呪いを…解く方法は、ないのですか?」

 彼女の声には、いつの間にか同情の色が滲んでいた。

 骨は、ゆっくりと頭蓋骨を左右に振った。カラン、コロン、と寂しげな音が響く。

「分からん。この姿になってから、最初の数百年は必死で探した。古の文献を漁り、ありとあらゆる呪解の魔法を試した。だが、何一つとして効果はなかった。まるで、この呪いは世界の法則そのものに組み込まれてしまったかのように、強固で、解きようがないのだ」


 洞窟の中に、しばし沈黙が流れた。松明の炎がパチパチと燃える音だけが、やけに大きく聞こえる。彼女は、目の前の骨の騎士が背負ってきた途方もない孤独と絶望を思い、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

「あの…お名前は…?」

 彼女は、そっと尋ねた。こんな数奇な運命を辿った騎士ならば、きっと立派な名を持っていたに違いない。


 骨は、少しの間黙っていた。そして、まるでその言葉を吐き出すのが億劫であるかのように、ゆっくりと答えた。

「名前か…そんなもの、もう何百年も呼ばれていない。必要もないだろう。お嬢さん、私のことは…そうだな、『骨』とでも呼んでくれればいい」

「私は…」


 彼女が自分の名を告げようと口を開きかけると、骨は手の骨をひらひらと上げてそれを制した。

「いや、お嬢さんの名前は聞かないでおこう。どうせ、お互い名前など知らぬ方が良い。長老とやらに報告すれば、お前もすぐにこの洞窟から去るのだろうからな。そうなれば、ただの通りすがりのエクソシストと、洞窟に住まう奇妙な骨、というだけの関係だ」

 

 その言葉は、やけに乾いていて、そしてどこか突き放すような響きを持っていた。彼女は、なぜかその言葉に、ちくりと胸の奥が痛むのを感じた。まるで、見えない棘が刺さったかのように。




 翌朝、彼女は洞窟の入り口近くで目を覚ました。昨夜は骨の騎士と別れた後、持参した毛布にくるまり、浅い眠りについたのだ。

 村に戻り、長老に「悪霊はいなかった。いたのは呪われた元騎士だった」と報告すべきか。それがエクソシストとしての正しい判断だろう。

 しかし、彼女の心は奇妙なほどに揺れていた。あの骨の騎士の、物憂げな瞳(眼窩だったが)。何百年もの孤独。そして、解けない呪い。それらが頭から離れないのだ。

 

(このまま帰ってしまっていいの…?)

 

 好奇心、という言葉だけでは片付けられない何かが、彼女の足を洞窟に繋ぎ止めていた。

 

 彼女は意を決して、再び洞窟の奥へと進んだ。骨の騎士は、昨日と同じように岩のテーブルに向かい、分厚い古書を広げていた。もちろん、彼に「読む」という行為ができるのかは謎だが、その姿は妙に様になっている。

 

「あの…」

 

 彼女が声をかけると、骨はゆっくりと頭蓋骨を上げた。カコン。

「少しの間…ここに滞在させていただけませんか?あなたのその呪いについて、私なりに調べてみたいのです。エクソシストとして、呪いを放置しておくわけにはいきませんから」

 半分は本心、そしてもう半分は、この不思議な騎士をもっと知りたいという純粋な興味だった。


 骨は、空っぽの眼窩で彼女をじっと見つめた。もし彼に眉があれば、驚きに吊り上がっていたかもしれない。

「ほう…?物好きなお嬢さんだとは思っていたが、まさか本気でこの骨と関わろうとするとはな。何年もまともに人間と話していなかったから、話し相手がいるのは…まあ、迷惑ではないが。しかし、なぜそこまで?」

「エクソシストとして、呪いを解く手助けをするのは当然の務めです」

 彼女は、少し胸を張って言った。そして、はにかむように微笑んで付け加えた。

「それに…あなたの昔の話、もっとたくさん聞いてみたいんです。王国一の騎士だった頃の冒険譚とか」


 骨は、しばし黙り込んだ後、カコン、と一度だけ顎を鳴らした。それは、肯定の合図のようにも見えた。

「…好きにするがいい。ただし、食料の世話まではできんぞ。私は何も食べんからな」

「はい、それは自分で何とかします!」




 こうして、若い見習いエクソシストと、骨になった元騎士の、奇妙な共同生活が始まった。彼女は、持ち合わせの知識を総動員し、聖典や持参した数少ない呪術書を読み解き、骨の騎士にかけられた呪いを解く方法を探った。

 あらゆる浄化の術を試してみたが、騎士の骨はピクリとも反応しない。それどころか、神聖な術を施すと、骨がカチカチと不快そうに震える始末だった。


 日中は、彼女が洞窟の周辺の森へ出て、木の実や山菜、時には罠を仕掛けて小さな獣を捕らえ、食料を調達した。骨の騎士は、そんな彼女の姿を光の差し込まない洞窟の入り口からぼんやりと眺めていることが多かった。

 

 夜になると、燃え盛る松明のそばで、骨の騎士が語る古の魔法の知識や、忘れ去られた王国の歴史、彼自身が体験した数々の戦いや冒険の話に耳を傾けた。その話は、彼が言った通り長くて、時々脱線もしたが、決して退屈ではなかった。むしろ、まるで壮大な叙事詩を聞いているかのように、彼女は夢中になった。




 ある日の夕暮れ時、彼女が洞窟の中で捕まえてきた兎を捌き、鍋で煮込む準備をしていると、不意に背後でカランコロン、と骨の擦れる音がした。振り返ると、骨の騎士がぎこちない様子で彼女の傍らに立っていた。

「…何か、手伝えることはあるか?」

 骨の騎士が、もごもごと言うように(もちろん口はないのだが)尋ねてきた。

「え? でも、あなたは…その、手が…」

 彼女は、思わず彼の骨だけの指先を見てしまった。肉も皮もなく、ただ白く乾いた骨が五本、ぶら下がっているだけだ。こんな手で、一体何を手伝えるというのだろう。

「失礼な。腕くらいはあるぞ。指だって五本揃っている」

 骨は、心なしかむっとしたように(もちろん表情はないのだが)言って、右手の骨を彼女の目の前に突き出した。カラン。

 確かに、立派な(?)骨の腕と手だ。そのあまりにシュールな光景と、真面目くさった骨の騎士の態度に、彼女は思わず吹き出してしまった。

「ふふっ…! ごめんなさい、そうですよね。じゃあ…このカブを切ってもらえますか? 薄切りでお願いします」


 彼女は笑いをこらえながら、丸々としたカブと、自分が使っていたナイフを差し出した。

 骨の騎士は、少し戸惑ったようにカブとナイフを交互に見た後、おもむろにナイフを骨の指で掴んだ。しかし、肉がないため滑りやすいのか、うまく力が入らないようだ。指の骨がカチカチと音を立て、ナイフは不安定に揺れている。

 見ているこちらがハラハラするほどだったが、彼は驚くほど真剣な顔つき(頭蓋骨だが)で、カブと格闘し始めた。

ザクッ…ゴリッ…バキッ!

 

「あーっ! 薄切りですってば! 粉砕じゃないです!」

 最初のカブは、無残にも三つの大きな塊に割られてしまった。骨の騎士は、バツが悪そうに(もちろん表情はないのだが)頭蓋骨をポリポリと掻く仕草をする。

「むぅ…久しく料理などしていなかったからな。昔は、王宮の晩餐会に招かれては、それは見事な肉料理やら魚料理やらを堪能したものだが…」

 骨は、どこか懐かしむように、しかし寂しそうに言った。

「今となっては、自分で料理をするどころか、その必要すらないとはな。皮肉なものだ」

「どんなお料理が好きだったんですか?」

 彼女は、野菜を切りながら優しく尋ねた。

 

「…覚えていない」

 骨は、ぽつりと言った。

「味を感じられなくなって、もう何百年も経つからな。美味しさも、不味さも、熱さも、冷たさも…何もかも、ただの記憶の断片だ」

 

 その言葉に、彼女はまたしても胸の奥がきゅっと痛んだ。食べることの喜び、温かいものを分かち合う幸せ。そんな当たり前の日常が、この騎士からは永遠に失われてしまったのだ。

 

 やがて、彼女が作った素朴な兎と野菜の煮込みが出来上がった。香ばしい匂いが洞窟の中に立ち込める。彼女は木の器にたっぷりとよそい、岩のテーブルで食べ始めた。

 骨の騎士は、いつものように向かいの岩の椅子に「座り」、彼女が食べるのをじっと見ていた。その空っぽの眼窩が、何を思っているのかは分からない。

 

「…うまそうに食べるな」

 しばらくして、骨がぽつりと言った。

「はい、とても美味しいです。…一緒に食べられないのが、残念ですけど」

 彼女は、少し申し訳なさそうに言った。

「なに、気にするな。お前がそうして美味そうに食べる姿を見るのは…うん、悪くない気分だ」

 骨は、カコン、と軽く頭蓋骨を傾けた。それは、まるで微笑んでいるかのように彼女には見えた。

 その夜から、二人の間の見えない壁が、また少しだけ低くなったような気がした。




 週が経ち、月が静かに満ちては欠けていった。彼女は村の長老に、「洞窟に悪霊の類は存在しませんでした。ただ、古の呪いに関する調査のため、もう少し洞窟に滞在し、そこに残された古文書を調べる必要があります」という内容の報告書を、伝書鳩に託して送った。

 もちろん、古文書があるというのは口実で、実際には骨の騎士の呪いを解く方法を、洞窟に山積みされた本の中から必死に探していたのだ。



 ある晩秋の夜、洞窟の中では彼女が持ち込んだ獣脂のランプが心細げな灯りを投げかけ、壁際には小さな焚き火がパチパチと音を立てて燃えていた。

 

 彼女は、羊皮紙に書かれた難解な古代文字と格闘しながら、ふと顔を上げて、黙って焚き火の炎を見つめている骨の騎士に尋ねた。

「あなたは…その、寂しくなかったのですか? 何百年もの間、ずっと一人で、この暗い洞窟の中で」

 骨の騎士は、視線を炎から動かさずに、ゆっくりと答えた。

 

「最初の百年は…そうだな、気が狂いそうだった。話し相手もいない。太陽の光も浴びられない。ただひたすらに続く暗闇と静寂。何度もこの骨の体を岩に打ち付けて、砕け散ってしまおうかと考えた。だが、この呪いはご丁寧に、そんなささやかな望みすら許してはくれなかった」

 カラン、と彼の手の骨が、自身の膝の骨を軽く叩いた。

 

「だが、時は偉大な治療師だ、と誰かが言っていたな。いや、正確には、麻痺させてくれた、と言うべきかもしれん。孤独にも、絶望にも、次第に慣れていく。感情というものが、まるで古びた鎧のように、少しずつ剥がれ落ちていくのを感じた。そしていつしか、何も感じなくなった」


 その言葉は、淡々としていたが、その奥には計り知れないほどの苦悩と諦念が横たわっているように感じられた。

 彼女は、何と言葉を返すべきか分からず、ただ黙って彼の次の言葉を待った。

「でも…今は?」

 彼女は、小さな声で尋ねた。

 

 骨の騎士は、そこで初めて炎から視線を外し、彼女の方を見た。ランプの光が、その空っぽの眼窩の奥で揺らめいているように見える。

「今は…そうだな。久しぶりに、まともな『人間』と話せて、悪くない。いや、正直に言えば…少し、楽しいとさえ感じているのかもしれん」

 

 その言葉に、彼女は頬が緩むのを感じた。よかった、と心の底から思った。

「私も、です。あなたとこうしてお話しするのは、とても楽しいです。まるで、世界で一番博識な先生に、特別な授業をしてもらっているみたいで」


 その夜遅く、季節外れの激しい雷雨が、森と洞窟を襲った。バリバリッという轟音と共に稲妻が走り、洞窟の入り口を一瞬蒼白く照らし出す。風も強まり、木々が不気味にざわめく音が洞窟の中まで響いてきた。

 彼女は、毛布にくるまっていたが、雷の音にびくびくしてなかなか寝付けずにいた。幼い頃から、雷だけはどうしても苦手だったのだ。

 

「…大丈夫か? 」

 暗闇の中から、不意に骨の騎士の声がした。彼は普段、夜は洞窟の隅でじっと動かなくなるのだが(眠るわけではないらしい)、どうやら起きていたようだ。

 

「あ、はい…大丈夫です。ただ…ちょっと、雷の音が、苦手で…」

 彼女は、少し恥ずかしそうに答えた。

「そうか」

 カランコロン、という軽い音と共に、骨の騎士が彼女の寝床の近くまでやってきて、傍らに「座った」。

 

「奇遇だな。実は、生前の私も雷だけは大の苦手だったのだ。戦場では何千という敵兵を前にしても臆することなどなかったこの私が、空でゴロゴロ鳴る音には、赤子のように怯えていたとはな。仲間たちにはよく笑われたものだ。まあ、今となっては、ただの笑い話だが」

 その意外な告白に、彼女は暗闇の中でくすりと笑った。

「ふふっ。あなたにも、そんな弱点があったんですね。なんだか、少し安心しました」

「当然だ。私も、元はただの人間だったのだからな。弱点もあれば、欠点も山ほどあった」

「今でも、人間ですよ」

 彼女は、きっぱりとした口調で言った。その声には、揺るぎない確信がこもっていた。

「骨だけになってしまったとしても、あなたの心は、騎士だった頃のまま、人間の心です。私には、そう思えます」


 骨の騎士は、何も言わなかった。もし彼に表情筋というものがあれば、きっと驚きと、そして何か別の温かい感情がないまぜになった複雑な表情を浮かべていたに違いない。

 暗闇の中で、彼がどんな「顔」をしているのか、彼女には見えなかったが。

 

「……ありがとう、お嬢さん」

 長い沈黙の後、骨の騎士はようやくそう言った。その声は、いつもよりも少しだけ掠れていて、そして不思議なほど柔らかく聞こえた。


 激しい雷雨が洞窟の外で猛威を振るう中、二人は朝方までとりとめもない話を続けた。骨の騎士が語る、若き日の冒険の数々。巨竜との戦い、囚われた姫君の救出、邪悪な魔術師との知恵比べ。

 それはまるで、吟遊詩人が歌う英雄譚のようだった。そして彼女は、エクソシストになるために受けた厳しい修行の話や、故郷の村ののどかな日常、いつか一人前のエクソシストになって、困っている人々を助けたいというささやかな夢を語った。

 時間が経つのも忘れ二人は語り合った。雷の音も、いつしか遠のいていた。


 そして彼女は暗闇の中で一人、はっきりと気づいていた。この風変わりで、おしゃべりで、そしてどこか寂しげな骨の騎士に対して、自分の胸の中で日に日に大きくなっていく、この温かくて少し切ない感情の正体に。

 それは、紛れもなく恋心だった。


 

 ある晴れた日の夕方、彼女が洞窟から少し離れた森の中で、薬草を摘んでいると、不意に遠くの空に黒い煙がもうもうと立ち昇っているのが見えた。その方角は――彼女が依頼を受けた村の方角だった。

「まさか…!」

 

 胸騒ぎを覚え、彼女は摘んでいた薬草を籠に放り込むのももどかしく、一目散に村へと向かって駆け出した。

 森を抜け、丘を越え、息を切らしながら村の入り口にたどり着いた時、すでに日の暮れた村で彼女は信じられない光景を目の当たりにした。


 村は、おぞましい姿をした魔物の群れに襲撃されていたのだ。角を生やし、鋭い爪を持つ獣のような魔物、ぬめぬめとした体を持つ軟体動物のような魔物、そして空を飛び交う羽を持つ魔物。それらが村の中を蹂躙し、家々に火を放ち、逃げ惑う村人たちを襲っていた。阿鼻叫喚の地獄絵図だった。

 

「なんてこと…!」


 彼女は一瞬立ち尽くしそうになったが、すぐに気を取り直し、腰の護符を握りしめた。

「みんな、伏せて! 私が食い止める!」

 叫びながら、彼女は魔物の群れへと突進していく。聖印を切り、浄化の呪文を詠唱すると、彼女の手から眩い光が放たれ、数体の魔物を打ち倒した。


 しかし、魔物の数はあまりにも多く、次から次へと襲いかかってくる。彼女は必死に応戦し、村人たちを庇いながら戦ったが、多勢に無勢、次第に追い詰められていった。体中の力は消耗し、息は切れ、足元もおぼつかない。


 一体の巨大な、熊のような魔物が、彼女の隙を突いて太い腕を振り上げた。その爪が、きらりと鈍い光を放つ。避けられない――!彼女が死を覚悟した、まさにその瞬間!


 ガランッ!ゴロンッ!という、聞き慣れた骨の擦れる音と共に、一つの影が彼女の前に立ちはだかった。

「――下がれ!」

 それは、ぼろぼろの鎧を纏い、錆びた剣を構えた、骨の騎士だった。その空っぽの眼窩は、まるで怒りの炎を宿したかのように、赤黒く光っているように見えた。


 村人たちは、突如現れた「動く骸骨」を見て、魔物とはまた別の恐怖に顔を引きつらせ、悲鳴を上げた。

「うわぁぁ! 骨だ! 骨のお化けだ!」

「悪霊が、悪霊が魔物を連れてきたんだ!」

「違う! 彼は…彼は悪霊なんかじゃありません!」

 彼女は、息も絶え絶えに叫んだ。しかし、パニックに陥った村人たちには届かない。


 骨の騎士は、そんな村人たちの反応など意にも介さず、魔物の群れへと斬りかかっていった。その剣さばきは、錆びついた剣を使っているとは思えないほど鋭く、そして流麗だった。

 カランコロンと骨の音を立てながら、まるで踊るように魔物の攻撃をかわし、的確にその急所を突いていく。それは、かつて「不敗の剣聖」と呼ばれた騎士の、見事なまでの戦いぶりだった。骨だけになっても、その技と魂は少しも衰えていなかったのだ。

 次々と魔物を斬り伏せていく骨の騎士の姿に、村人たちは次第に恐怖よりも驚愕の色を浮かべ始めた。そして、全ての魔物を倒し終えた時、そこには静寂だけが残されていた。


 魔物を倒した後、村人たちは恐る恐る、しかしどこか感謝の念を込めた眼差しで、骨の騎士と彼女に近づいてきた。

 彼女は、村の長老や村人たちに、骨の騎士が何者であるのか、なぜあのような姿をしているのか、そして彼が悪霊などではなく、むしろ村を救ってくれた恩人であることを、必死に説明した。

 最初は疑心暗鬼だった村人たちも、彼女の真摯な言葉と、何よりも自分たちの命を救ってくれた骨の騎士の勇姿を目の当たりにして、次第に彼を受け入れ始めた。中には、涙を流して感謝する者さえいた。



 

 夜が明ける前に二人は、村人たちからの感謝の言葉とささやかな食料の提供を受け、いつもの洞窟へと戻った。

 道すがら、どちらも口数は少なかった。洞窟に着き、松明に火を灯すと、彼女は真っ直ぐに骨の騎士に向き直った。

 

「どうして…どうして村まで来てくれたんですか? あなたは、何百年もの間、この洞窟から遠く離れた事がなかったのに」

 彼女の声は、わずかに震えていた。


 骨の騎士は、壁に立てかけられた錆びた剣に手を置きながら、静かに答えた。

「…お前が、危険だと感じたからだ」

「どうして、分かったんですか…? 私が危険だって」

 

 骨の騎士は、しばし黙り込んだ。そして、カコン、と小さく顎を鳴らした。

「分からん…ただ、胸騒ぎがしたのだ。お前が森へ出かけてから、妙に落ち着かなくてな。そして、遠くに煙が上がるのが見えた時…ただ、お前のことが、ひどく心配になった。それだけだ」


 彼女は、その言葉を聞いて、胸の奥が熱くなるのを感じた。それは、喜びと、安堵と、そしてもっと別の、言葉にできない感情だった。

 彼女は、数歩前に進み出て、骨の騎士の目の前に立った。そして、勇気を振り絞って、ずっと胸の内に秘めていた想いを口にした。

 

「ありがとう…ございます。あなたに、また命を救われました。それに…」

 彼女は一度、深呼吸をした。骨の騎士の空っぽの眼窩が、じっと自分を見つめているのを感じる。

「私…あなたのことが、好きに、なったみたいです」


 洞窟の中に、静寂が落ちた。松明の炎がパチパチと燃える音だけが、やけに大きく聞こえる。

 骨の騎士は、ピクリとも動かなかった。まるで、時間そのものが止まってしまったかのように。


 やがて、彼はおもむろに頭蓋骨を彼女に向けた。

「…冗談、だろう? お嬢さん…。私は、見ての通りの骨だぞ。肉もなければ、血も通っていない。ただの、動く骸骨だ」

 その声には、いつものような軽口はなく、深い戸惑いと、どこか痛ましさのような響きがあった。

 

「それでも、です」

 彼女は、真剣な眼差しで骨の騎士を見つめ返した。

「あなたの優しさ、あなたの強さ、あなたの知恵…そして、あなたのその…骨っぷりも含めて、全部に惹かれているんです」

 最後の言葉は、少し照れくさそうに付け加えた。


 骨の騎士は、カコン、と頭蓋骨を左右に振った。

「それは…間違いだ、嬢ちゃん。思い違いをしている。私のような骨だけの存在が、お前に何を与えられるというのだ? 温もりも、安らぎも、未来さえも…何も、与えてやれない」

「体がなくても、あなたの心に惹かれたんです。あなたが、あなただから、好きなんです」

 彼女の言葉は、真っ直ぐで、揺るぎなかった。

 骨の騎士は、何も言わずにくるりと背を向け、カランコロンと音を立てて洞窟の奥へと消えていった。その背中(背骨だが)は、いつにも増して寂しそうに見えた。


 

 その夜、二人は一言も言葉を交わさなかった。

翌日、洞窟の中には重苦しい沈黙が漂っていた。

 骨の騎士は、まるで彼女を避けるかのように、洞窟の最も暗い隅で分厚い古書を広げ(もちろん読んでいるわけではないだろうが)、微動だにしなかった。

 彼女は、そんな彼にどう声をかけていいか分からず、ただひたすらに、昨日村から持ち帰ってきた古文書や、洞窟にあった羊皮紙の束を、藁にもすがる思いで調べていた。彼の呪いを解く方法が、どこかに記されているかもしれない。その一心だった。


 彼女の告白は、きっと彼を困惑させてしまったのだろう。もしかしたら、嫌悪感を抱かせたのかもしれない。骨だけの自分を好きになるなんて、常軌を逸していると。そう思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。それでも、諦めたくはなかった。


 何時間も、何時間も、彼女は埃っぽい羊皮紙の山と格闘した。目も霞み、集中力も途切れそうになった、まさにその時。一枚の、ひときゆ古びて変色した羊皮紙に記された、奇妙な一節が彼女の目に飛び込んできた。

 それは、古代の象形文字に近い、特殊な文字で書かれていたが、彼女が師から学んだ解読法を使えば、なんとか意味を読み取ることができた。

 

『――肉体を奪われし者、その魂が真実の愛に触れし時、失われし器は再び形を取り戻さん――』

 

「……真実の、愛…?」

 彼女は、その言葉を何度も何度も口の中で繰り返した。そして、その意味するところを理解した瞬間、全身に電流が走ったかのような衝撃を受けた。

 

「見つけました! 見つけましたっ! あなたの呪いを解く方法を!」

 彼女は、興奮のあまり叫びながら立ち上がり、羊皮紙を握りしめて骨の騎士がいた洞窟の隅へと駆け寄った。


 骨の騎士は、驚いたように(もちろん表情はないのだが)頭蓋骨を上げ、怪訝そうな視線(眼窩だが)を彼女に向けた。

「…何を騒いでいる、嬢ちゃん。私が何百年も探し続けて、それでも見つからなかったものを、お前がそう簡単に見つけられるはずが…」

「いいえ! ここに、ここに書いてあるんです!」


 彼女は、息を切らしながら羊皮紙を彼の目の前に突き出した。

「『真実の愛に触れれば元に戻る』って…! そう書いてあります!」


 骨の騎士は、黙ってその羊皮紙を「見た」。その空っぽの眼窩が、古代文字の列をゆっくりと追っているように見える。やがて、彼はふっと息を吐くような仕草をした。

 

「…馬鹿げている。そんな、おとぎ話のような単純なことで呪いが解けるというのなら、私はとっくに…とっくに…」


 骨の騎士は、そこで言葉を切った。その声には、深い絶望と、そしてほんのわずかな、信じたくないという響きが混じっていた。

 誰も、彼を愛さなかったのだ。


 骨だけの姿になってから、何百年もの間、彼はただ一人、孤独だったのだから。

 

「試してみましょう!」

 彼女は、決意を込めて言った。そして、ためらうことなく、骨の騎士の冷たい骨の手を取った。カサリ、という乾いた感触が伝わってくる。彼女は、目を閉じ、心の底から彼への愛情と、呪いが解けることへの強い願いを込めた。

 

……しかし。

 何も起こらなかった。

 洞窟の中は、静まり返ったままだった。

 

「…見ろ、嬢ちゃん」

 骨の騎士が、悲しげに、そしてどこか諦めたように言った。

「やはり、効果はない。そんな甘い話があるわけがないのだ」

「い、いえ、まだ…まだです!」

 彼女は諦めなかった。必死に頭を働かせ、考え込んだ。

 

「もしかしたら…もしかしたら、一方通行の愛だけではダメなのかもしれません。お互いの…お互いの愛が必要、とか…」

「…お前を、愛せるわけがないだろう」

 骨の騎士は、冷たく、そして突き放すように言った。その声は、まるで冬の北風のように冷え切っていた。

「こんな、骨だけの姿で、一体何を愛せるというのだ? 温もりも、優しさも、何一つ与えられないこの私が、どうしてお前を愛せる?」


 その言葉は、鋭い刃のように彼女の胸を貫いた。顔から血の気が引き、目の前が暗くなるような感覚に襲われる。しかし、彼女はぐっと唇を噛み締め、すぐに顔を上げた。そして、傷つきながらも、優しく微笑んでみせた。

「…嘘つき」

 彼女は、静かに言った。

「あなたは、私を助けるために、あの村まで来てくれたじゃありませんか。何百年も出たことのなかった洞窟から、わざわざ」

 骨の騎士は、黙ったままだった。

「心配したって、言ってくれたじゃないですか」

 彼女は、一歩彼に近づき、その頭蓋骨をじっと見つめながら、優しく、しかしはっきりと言った。

「それが、愛じゃなかったら、一体何だっていうんですか?」


 骨の騎士は、ゆっくりと彼女に向き直った。その空っぽの眼窩の奥で、何か激しい葛藤が渦巻いているように見えた。

「…お前のような、若く、美しく、未来のあるエクソシストに、私のような骨だけの先のない男が、一体何を与えられるというのだ? お前の大切な時間をこんな骸骨に縛り付けて、不幸にするだけではないか」

 

「幸せ、ですよ」

 彼女は、迷うことなく、即座に答えた。

「あなたと過ごしたこの数ヶ月が、私のこれまでの人生の中で、一番…一番幸せでした。あなたの話を聞くのも、一緒にご飯…は食べられないけど、あなたが私のご飯を美味しそうに見てくれるのも、雷の夜にそばにいてくれたのも…全部、全部、幸せでした」


 骨の騎士は、まるで金縛りにあったかのように動かなかった。やがて、彼はためらいがちに、震える骨の手を、そっと彼女の頬に伸ばした。カサリ、という乾いた音が、やけに大きく聞こえる。

「もし…もし、私が本当に、お前を…愛している、というのなら…」


 その声は、途切れ途切れで、まるで風に吹かれる枯葉のように頼りなかった。

「愛しています」

 彼女は、彼の骨の手に自分の手を重ね、その頭蓋骨に両手を添えた。そして、迷いのない、澄んだ瞳で彼を見つめた。

「あなたの体がどうであれ、あなたが骨であろうと、そうでなかろうと、私は、あなたを愛しています」

 そして、彼女はそっと目を閉じ、彼の冷たい頭蓋骨の、かつて唇があったであろう場所に、自分の唇を重ねた。

 

 その瞬間だった。

 洞窟全体が、目も眩むほどの眩い光に包まれた。まるで太陽が洞窟の中に現れたかのような、強烈な黄金色の光だった。彼女は思わず目を固く閉じた。そして、耳元で、ガシャガシャッ、ゴトッ、という、骨が崩れ落ちるような、不吉な音が響いた。

 

「だめっ! しっかりして!」

 彼女は、恐怖と絶望に叫びながら、光の中で必死に彼を支えようとした。しかし、彼の体はまるで砂の城のように、もろく崩れていく感覚だけが伝わってきた。


 

 どれほどの時間が経ったのだろうか。永遠にも感じられた光が、ゆっくりと収まっていった。恐る恐る目を開けると、そこには――信じられない光景が広がっていた。

 さっきまで骨の騎士がいた場所に、一人の男が倒れていたのだ。

 美しい金色の髪が、洞窟の床に散らばっている。逞しい肩、厚い胸板、しっかりと筋肉のついた腕と脚。

 それは、紛れもなく、生身の人間の姿だった。彼がぼろぼろの鎧の下に着ていたであろう、質素だが騎士らしい衣服を身にまとっている。


 男は、うめき声をあげながら、ゆっくりと目を開けた。その瞳は、美しい青空のような色をしていた。

「私…は……?」

 彼は、自分の手を見た。肉と皮があり、血の通った、温かい人間の手を。そして、まるで生まれて初めてそれを見たかのように、驚愕に目を見開いた。

 

「に、肉体が…! 私の体が…戻って…いる…?」

 

「ああ…ああ…! よかった…!」

 彼女は、溢れ出る涙を止めることもできず、その男――かつての骨の騎士――に駆け寄り、力いっぱい抱きしめた。温かい。生きている。その確かな感触に、彼女は声を上げて泣いた。

「呪いが…呪いが解けたのよ…!」

「お前…お前のおかげだ…」

 騎士は、まだ信じられないという表情で、しかし確かな喜びを滲ませながら、彼女の顔を見つめた。その青い瞳は、優しさと感謝の色に潤んでいた。

「本当に…信じられなかった。あの、骨だけの私を…本当に、愛してくれるだなんて…」

「骨だろうと、何だろうと、あなたはあなたですもの」


 彼女は、涙で濡れた顔で、満面の笑みを浮かべた。

「…お嬢さん。いや…もう、お嬢さんと呼ぶのはよそう」


 騎士は、少し照れたように言った。

「お前の、本当の名前を教えてくれないか? もう、私がお前から去ることは…ないだろうから」


 彼女は、頬を真っ赤に染めながら、小さな声で自分の名前を告げた。彼もまた、誇らしげに、しかしどこか照れくさそうに、かつて王国中に轟かせた自分の名を彼女に告げた。



 こうして、何百年もの間、孤独な骨として生き長らえてきた騎士の呪いは、一人の若いエクソシストの真実の愛によって解かれた。そして、二人の新しい物語が、その薄暗い洞窟の中で、静かに、しかし確かに始まったのだった。






 

 

 それから、一年という月日が流れた。


 かつて骨の騎士が孤独に過ごした洞窟は、今では二人にとって思い出の場所となり、時折訪れるだけになっていた。

 彼らは、麓の村の少し外れに、村人たちの助けも借りて建てた小さな、しかし温かい日差しがたっぷりと差し込む家に住んでいた。

 騎士は、その卓越した剣技と経験を活かし、村の自警団のまとめ役として、村の平和を守っていた。時には、かつての「不敗の剣聖」の片鱗を見せることもあり、村人たちからは絶大な信頼と尊敬を集めている。もはや「骨の騎士」と呼ぶ者はなく、皆、彼の名を親しみを込めて呼んだ。

 彼女は、エクソシストとしての活動を続けながらも、村の教会でシスターのような役割も担い、子供たちに文字を教えたり、病人の看護を手伝ったりしていた。その優しさと献身的な姿は、村人たちから深く愛されていた。


 

 ある冬の夜、暖炉の火がパチパチと心地よい音を立てて燃える居間で、彼は編み物をしている彼女の肩をそっと抱き寄せ、尋ねた。

「なあ…本当に、後悔はないか? あんな、骨だけの私に恋をしてしまって」

 彼の声には、まだ少しだけ、あの頃の不安の影が残っているように聞こえた。

 彼女は、編み物の手を止め、くすくすと笑いながら彼の胸に顔をうずめた。

「もう、何度も聞いたわよ、その質問。そして、答えはいつも同じ。後悔なんて、これっぽっちもないわ。だって…あなたは、骨の時も、とっても素敵だったんですもの。ちょっとおしゃべりで、頑固で、でもすごく優しくて賢くて…それに、あのカランコロンっていう歩く音、結構好きだったのよ?」

「そ、そうか…? あの音、自分ではかなり間抜けな音だと思っていたんだが…」

 彼は、照れくさそうに頭を掻いた。その仕草は、骨だった頃と少しも変わらない。

「私にとっては、あなたの生きている証みたいなものだったわ」

 彼女は、いたずらっぽく笑って、彼の頬にそっとキスをした。


 彼は、愛おしそうに妻を強く抱きしめた。暖炉の炎が、二人の幸せそうな影を壁に映し出す。

「それにしても…骨になった騎士と、見習いエクソシストの恋物語、か。後世の吟遊詩人が歌にしたとしても、誰も信じやしないだろうな。あまりにも荒唐無稽すぎて」

「いいのよ、それで」

 彼女は、彼の腕の中で幸せそうに目を閉じた。

「誰が信じなくたって、私たちが信じていれば、それで十分。私たちの物語は、私たちだけのものなんだから」


 二人の穏やかな笑い声が、温かい光に満ちた小さな家に、いつまでもいつまでも響き渡っていた。




 かつて、永劫の孤独を運命づけられた骨の騎士と、若く勇敢なエクソシスト。彼らの数奇な出会いと愛の物語は、おとぎ話のように語り継がれることはないかもしれない。

 しかし、それは確かに存在し、形や外見ではなく、ただひたすらに相手の心を愛することの素晴らしさと、その愛が起こす奇跡の力を、静かに、しかし力強く示しているのだった。














この作品は敢えてネームレスにしています。

そして王道展開もだーい好きです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ