ハローダイバーシティ
ここではない、遠い世界の話。そこには常識があり、当然があり、普通があり、平均があり、差別も区別も不平等もあった。しかし、そんな世界の中で唯一、常識から外れ、当然が通用せず、普通がなく、平均は滅茶苦茶で、差別も区別も不平等もないと謳っている都市があった。
その都市を、皮肉を込めて人々は多様性と呼んだ。
ダイバーシティには今日も、平等を求める人々が訪れる。
夜、薄明かりの中、一人の少女がダイバーシティの門を前にした。
不安と希望をない交ぜに抱えた少女の瞳は、じっと一点に注がれている。
黒いフードを被り、細い腕はぶかぶかな長袖に隠れている。
その少女に、見回りをしていた人物が話しかける。
「やあ。ダイバーシティに何の用で?」
すると、少女は小さい口を開いた。
「ここは、差別も何もないの?」
「ああ、そりゃあもちろんさ。ここは差別を受けて苦しんでいる人の味方だ」
「じゃあ、ここには普通がないの?」
「そうだよ。もしお前もこの中に入るなら、普通や常識はなくせ。差別をするな」
「ということは、みんなが幸せなの?」
「その通り! ダイバーシティでは苦しむ人なんていないんだ。皆が多様性を認め合って、互いを尊重して理解してるんだ」
「じゃあ、ここには同性愛者も無性愛者も黒人も白人も大人も子供も障害者も健常者も不細工も美人も信者も無宗教の人も、どんな人でも認めてもらえるの?」
「ああ、そりゃそうさ。お前はどうなんだ?」
「私?」
男の問いに、少女は不思議そうに目を瞬いた。無表情のまま考えるように俯き、唐突に顔をあげた。
「私は、一般的に差別は受けていないわ。でも、みんなの語る普通が誰かを傷つけていることに耐えられなくて逃げてきたの」
「なんてことだ!」
と、男は声をあげた。少女は訝し気に目を細める。
「どうしたの?」
「ダメだ駄目だ! 普通の人はここに来ちゃいけないんだよ、なんだ、馬鹿にしに来たのか! 差別主義者め!」
先ほどのフレンドリーな笑みとは打って変わり、男はまるで親の仇でも見るかのように少女を睨んだ。
少女は臆することなく淡々と口を動かした。
「私は別に、差別なんてしていないわ。ただ、世間一般で言う、普通に入るだけで――」
「それが差別だって言っているんだ! 帰れ帰れ! ここは差別されている人を守る都市なんだ!」
言葉の意味が分からず、少女は頭の中が困惑に塗りつぶされた。
「普通と呼ばれることが差別という理屈が分からないわ。それこそ差別に入るんじゃないかしら」
「俺たちが差別をしてるって? これだから差別主義者は……。差別しているのはお前のほうだよ! ここはお前みたいな普通の人が来る人じゃないんだ」
この男と対話をすることの愚かさを感じ取り、少女は門に背を向けた。
「はッ! やっと認めたか! もう二度と来るんじゃねえぞ!」
少女は宵闇の中、その瞳を昏く濁らせた。
居場所がない。疲れた。もうどうなったっていい。
投げやりな気持ちで、感覚すらも失われ、だらりと血液が垂れている足を動かし続けた。
少女は普通であった。ほんの少し悲観的で、極端で、それゆえに酷くネガティブで、子供っぽい、普通の人間だった。
その数日後、また少女は門に立っていた。
冷たい風が傷口を刺して通り過ぎる。
血液でべとべとになった全身を気持ち悪く思いながら、見回りをしていた女に話しかけた。
「ここは、普通の人が入れない都市?」
「いいえ、全ての人を受け入れる多様性の街よ。普通、普通じゃないなんて括りで壁を作ることこそ差別になるわ」
「……私が前、訊ねたときは普通の人では入れないと言われたわ」
「なによそれ! ……私は女の人を好きになるのだけど、つまりそれが普通じゃないと言われているわけよね? 信じられない!」
昔に批判されていたフェミニズムみたいね、と女は笑った。少女は自身が合っていたことに安堵し、しかしそこでからかいの気持ちが生まれた。ちょうど私は全身血まみれだ、と思い、微かに笑いが漏れた。
「なにが面白いのよ?」
芝居じみた調子で、女はくすりと笑った。
「私は、人を殺したのだけど、多様性ならこれも受け入れられる?」
「……え、嘘よね?!」
「ええ、嘘」
すると、女は驚いたようにほっと息をつく。
「ああ、びっくりした! そうだわ、良かったら私の家に来ない? 門を通ってすぐそこよ。貴方、その恰好では人殺しと勘違いされても仕方ないわ」
「お姉さん、小児性愛者なの?」
「あら、人殺しと同じように、いくら多様性を謳っていても、この都市でも犯罪はあるのよ? それと、私はそんな下心なんてないわよ。もっと明るい子が好きだわ」
さて、と女は門を開ける。
「ようこそ、ダイバーシティへ。ここは誰でも歓迎するわ」
少女は、誰でも歓迎という言葉を快く思いながら、門をくぐった。
星空がきらりと光った。
障害者、と表記しているのは、あくまでも日常生活で障害となるものとしての意味合いが強く、本人を害であるとしているわけではないので、なんの問題もないという作者の勝手なる思想故でございます。もし不愉快に思われた方がいらっしゃいましたら申し訳ございません。