8:狂狼は恐くない(2)
騎士団に戻ってきてからも、クローディアはしょんぼりしたままだった。
ランドルフと一緒に暮らしている寮の部屋に戻ってからも、夕食が終わってからも、寝る前になってからも、気分は落ち込んだままだった。
夜、クローディアに与えられた小さな部屋。
ベッドに座ってため息をついてばかりのクローディアに、もふもふ竜のヴァルターが心配そうに声をかけてくる。
「クローディア、どうしたの? お顔がずっと暗いんだぞ?」
「……ヴァルちゃん」
「あ、シフォンケーキ食べる? 今日食堂に行ったらもらえたんだぞ!」
ヴァルターは小さな袋を持ってとてとてと歩いてきた。もふもふの手の中にある薄い茶色の紙袋の中にはシフォンケーキが一切れ入っているようで、ふんわりと甘い香りが漂ってくる。
けれど、クローディアはふるふると首を振った。
「ううん、私はいい。ヴァルちゃんが食べて」
「そう? なら、おれさま遠慮なくいただくんだぞ!」
ヴァルターはもふもふの両手でシフォンケーキを掴むと、ぱくりと口に入れた。もきゅもきゅと口を動かし、幸せそうに笑う。ふわふわのしっぽがぶんぶんと高速で揺れ始めた。
「おいしーい!」
口の端にシフォンケーキのかけらをくっつけたまま、ヴァルターは両手をほっぺに添えた。
あまりに幸せそうなその姿。幸せのお裾分けがもらえそうな気がして、クローディアはその小さな体を抱っこしてぎゅっと抱き締める。
ヴァルターがうらやましい。何も悩みがなさそうだ。
「ヴァルちゃんは、何か悩んだりすることってある?」
「ふぉっ?」
クローディアの問いに、ヴァルターが黒い瞳をぱちぱちと瞬かせた。それから、当然とばかりに大きく頷く。
「もちろん、あるんだぞ! おれさまはいつも悩んでるんだぞ!」
「え、そうなの?」
「そうなんだぞ! おれさま、お菓子大好きなのに、あんまり食べさせてもらえないの! これ、すごく大きな悩みなんだぞ!」
どうでもいい悩みだった。
というか、ついさっきシフォンケーキを食べておいて言うセリフではないと思う。
クローディアはまたひとつ、大きなため息をついた。
(ヴァルちゃんは捨てられるかもって不安はないんだね……)
ヴァルターは「あ、歯磨きしないと」と言って、クローディアの腕の中からぽんと飛び出していった。本当に自由気ままなところがうらやましい。
ヴァルターが歯磨きを終えて戻ってきてから、部屋の明かりを消す。ベッドに横になると、ヴァルターがささっと傍に来て、クローディアの枕元でくるりと丸くなった。
さあ眠ろうと目をつむったところで、ふと魔物と戦っていたランドルフの姿を思い出す。
(私も、ランドルフみたいに何かすごいことができる人になりたいなあ)
もう、二度と捨てられたりしないように。
誰からも「役立たず」と呼ばれずにすむように。
クローディアは身を縮こまらせ、自分の姿を隠すように布団を頭からかぶった。
そうして眠ったその日の夜、クローディアは夢を見た。
ランドルフに見捨てられて、一人ぼっちになる――そんな悪夢だった。
悪夢を見た次の日から、夜が来るのが恐くなった。
一人で寝るのが恐くて、ヴァルターを抱っこして一緒に寝るようにしたのだけど、それでもよく眠れなくなった。
だんだんと寝不足になっていき、一週間ほど経った頃。
とうとうクローディアは音を上げた。涙でべしょべしょの顔をして、ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、ランドルフの寝室の扉を叩く。
「ランドルフ……」
「こんな夜中に何の用だ……って、なんで泣いてるんだよ、お前」
扉を開けてクローディアの姿を見た瞬間、ランドルフは呆れ顔になった。けれど、すぐに追い返すことはせず、部屋の中に入れてくれる。
ランドルフの寝室は、カーテンや布団が青い色で統一されていた。木製のナイトテーブルに、引き出しのついた小さめの衣装棚。床にはいろんなものが散乱していて、足の踏み場がほとんどない。
ランドルフはひょいひょいと器用に床に散らかっているものを避けて、部屋の中を歩く。クローディアもそれを見習って、ものを踏まないように気をつけながら、ぴょこぴょこと移動した。
「まあ、とりあえず……ベッドに座れ」
「うん」
他に座れそうな場所がなかったので、ランドルフに言われた通りにベッドの端にちょこんと腰掛けた。ランドルフも床に散らばったものを雑に隅の方へ寄せた後、クローディアの隣にどっかと腰を下ろす。
「あれ、そういえばヴァルターは?」
「よく眠ってたから、私のお部屋に置いてきた」
ヴァルターはクローディアのベッドで大の字になって眠っていた。ぽっこりしたお腹をどんと出して、鼻ちょうちんまで膨らませていたので、本当は一緒に連れてきたかったけれど我慢したのだ。
ランドルフは眉を顰め、「二人っきりかよ……」と呟いた。
なんとなく気まずい空気が流れる。
クローディアは慌てて立ち上がった。
「わ、私、ヴァルちゃん連れてくる!」
「いや、いい。それより何か俺に用があるんじゃねえの? 言えよ」
ぐいっと腕を引っ張られ、クローディアは大人しくベッドに座り直した。
「あ、あのね……」
「うん?」
「えっとね……」
「早く言えよ」
「ランドルフ、私を捨てないで」
声が、震えた。
止まっていたはずの涙がまた溢れてきて、じわじわと視界が歪んでいく。
「私、捨てられたらどこにも行くところがないの。お願い、捨てないで」
「……捨てるつもり、ねえけど?」
ランドルフがあまりにもあっさりとそう言うので、クローディアの涙がぴたりと止まった。ぱちぱちと二回、目を瞬かせて、クローディアはこてりと首を傾げる。
「捨てないの?」
「捨てねえよ」
ランドルフは少し乱暴に、ぐしゃぐしゃとクローディアの頭を撫でた。クローディアの腰まで伸びた長い髪の毛の毛先が、ぴこんぴこんと揺れる。
しばらくそうやって撫でた後、彼は半眼になって聞いてきた。
「ここ最近ずっと暗い顔をしてたのは、それが心配だったからか?」
「うん。ランドルフは、私を捨てると思った」
「なんで」
「ランドルフはすごい人だから。なのに、私は役立たずだから」
ランドルフが怪訝な顔になる。
「役立たず……? なあ、俺、ずっと気になってたんだけどさ。そもそもクローディアは、なんで王女なのに捨てられたんだ? その理由……そろそろ知っておきたいんだけど」




