46:一番大切な人(8)
ランドルフが大切な宝物を扱うみたいに、クローディアを優しく抱き締めてくれる。穏やかな夜の森のような彼の香りに包みこまれ、クローディアはふにゃりと笑った。もっともっと彼に近付きたくて、甘えるように彼の胸に頬を寄せる。
今、ここに誰もいなくてよかった。この場所に他の人がいたら、気が散って何も思い出せなかったかもしれない。そうしたらこんな風にランドルフに抱き締めてもらえなかっただろう。
人目を気にせず、思い出の場所で、こうして彼と触れ合えて――胸の奥が幸せでいっぱいになる。
ランドルフはクローディアを抱き締めたまま、小さな声でぽつりと零した。
「でもまさか、ずっと探し続けてた天使がこんなに近くにいたとはな」
「……がっかりした? 『救いの天使』が私で」
少し不安になって、ランドルフの顔を上目遣いで見つめてしまう。そんなクローディアに、彼は頬をじわじわと赤く染めながら答えた。
「がっかりなんてするわけねえだろ。むしろ安心した」
「安心?」
「これからは迷うことなく、クローディアを思う存分愛していける。俺が愛してるのは、一番大切に想うのは、クローディアだけだったんだから」
ランドルフは照れ臭そうな顔のまま、クローディアの耳にそっと口を寄せ、甘く囁く。
「覚悟しろよ、クローディア」
そう言うやいなや、ランドルフはクローディアの耳に軽くキスを落としてくる。突然耳に感じた温かくて柔らかな唇の感触に、クローディアの身体がびくりと跳ねた。
キスをされた耳のところが一気に熱くなる。
「あ、あの、ランドルフ……?」
「キスされるの、嫌か?」
「ううん、嬉しい。でも、ちょっとだけ恥ずかしい」
「……お前って本当に素直だよな。そういうところ、すごく可愛い」
ランドルフはふっと笑うと、今度はクローディアの額にキスを落とした。その次は鼻の頭に、それから頬にと、次々とキスを降らせてくる。甘いキスの雨を大人しく受け入れながら、クローディアは胸の奥がむずむずするのを感じた。
(溺愛ルート一直線……本当に、そうかも)
ジルフレードが言っていた通り、たぶんランドルフは一度こうと決めたら頑なにそれを貫くタイプなのだ。だからこそ、一番大切と決めた「救いの天使」以外に気持ちを向けないよう、今までは常に警戒していたに違いない。
でも、「救いの天使」はクローディアだった。もうその警戒は意味がない。ランドルフの態度が一気に甘くなるのも当たり前だった。
「クローディア、あの夜の続きをしようか」
ランドルフが少しいたずらっぽく瞳をきらめかせたかと思うと、クローディアの返事も待たず、唇を重ねてきた。
あの夜――二人が初めてキスをした時よりも、今度は長く。
とくん、とくん、と少し速めに鳴る心臓の音。
重なった唇から感じる、熱いくらいの体温。
甘すぎて、溶けてしまいそう。
クローディアは目を閉じて、ただランドルフの与えてくれる心地よさに身を任せる。
青空の下、春の風が二人を優しく包み込んだ。しばらくそのまま風はくるくると二人の周囲を舞い、それがふと止んだ時にようやく唇が離れる。
「ランドルフ……」
嬉しくて、幸せで、少し瞳を潤ませながらランドルフを見上げた。そこでランドルフの顔を改めて間近で見て、クローディアはじわじわと頬を火照らせてしまう。
甘く細められた翠の瞳。
キスの直後だからか、少し濡れて艶めいて見える唇。
軽く乱れた呼吸をする彼は、とんでもなく色っぽかった。
「まだ、足りないよな?」
からかうような笑みを浮かべ、ランドルフがクローディアを見つめてくる。きらめく太陽の光が照らすその笑顔が眩しくて、胸がきゅうと締めつけられた。
クローディアが小さく頷くと、ランドルフは笑みを深める。
「本当、素直で可愛い」
また、ランドルフがゆっくり顔を近付けてくる。クローディアはそのまま目を閉じて、彼のキスを待った。
闘技場から馬車へと戻ったのは、太陽が少し傾きかけた頃だった。
ずっと馬車の中で待機していたジルフレードが、ようやく帰ってきたランドルフとクローディアを見て目を眇める。
「遅かったですね。あまりに遅すぎて、ヴァルターくんは寝てしまいましたよ」
ジルフレードが指し示した先で、ヴァルターは確かに眠っていた。ふかふかの馬車の座席の上で、ぽっこりとしたお腹をどんと出して、鼻ちょうちんまで膨らませている。夢の中で何かお菓子でも食べているのか、幸せそうな顔でくふくふ笑っていた。
「……それで、なぜランドルフがクローディア姫を抱っこして帰ってくることになったんですか」
ジルフレードは半眼になって、呆れたように尋ねてくる。ランドルフが少し気まずそうに口を尖らせながら言い訳をする。
「いや、クローディアを可愛がってただけなんだけど、気付いたらこうなってた」
クローディアは恥ずかしさに悶えながら、抱っこしてくれているランドルフにしがみついて顔を隠した。まだまだ恋愛初心者のクローディアに、ランドルフの溺愛ルートは刺激が強すぎたのだ。先ほどまでのことを思い出すだけで、顔から火が出そうになる。
ぷるぷるしながら身を縮こまらせるクローディアを抱っこしたまま、ランドルフは馬車の座席に腰を下ろした。そうして当たり前のようにクローディアを膝抱っこすると、軽く抱き締めてくる。
全く離れようとしない二人にジルフレードはこめかみを押さえながらも、しかたないと苦笑した。
「まあ、一区切りついたようでよかったです。これで『救いの天使』を探すために王都まで足を運ぶ頻度も減らせますね」
「あ、それなんだけど。『救いの天使』、見つかった。クローディアだった」
あっさりとしたランドルフの言葉に、ジルフレードが目を見開く。
ランドルフとクローディアは、ジルフレードに「あの日」のことを説明した。幼いクローディアが魔法で髪の色を変えてもらっていたこと、ランドルフを励ます言葉をかけたこと、おやつのシフォンケーキを渡したこと。
ジルフレードは一通り話を聞き終わると、疲れたようにため息をついた。
「なるほど、魔法で……。どんなに探しても見つからないわけですね」
「びっくりさせてごめんね、ジルさん。武闘会の時にランドルフと会ってたこと、私もすっかり忘れてたから」
クローディアはジルフレードからランドルフへと視線を移す。目と目が合うと、ランドルフは照れ臭そうにくしゃりと笑った。
「ああ、そういえば。俺がクローディアを拾ったあの雨の日……実はあの時も『救いの天使』を探すために王都に来てたんだ」
「そうだったの? ふふ、じゃあランドルフは知らないうちに、その目的を達成してたんだね」
「そういうことになるな」
ランドルフとクローディアはこつんと額と額をくっつけると、くすくすと笑い合った。
これがただの偶然なのか、それとも運命だったのか。
それは分からないけれど。
あの日、会えてよかった。ランドルフに拾ってもらえて、本当によかった。
辺境に向かってゆっくりと馬車が走り出す。窓の外の景色がゆるやかに流れ、馬車は王都の中心地からどんどん離れていく。
窓から吹き込んでくる春の風が心地よい。
クローディアは遠ざかっていく王都の街並みに、心の中でさよならを告げた。




