41:一番大切な人(3)
その音が聞こえてきた瞬間、クローディアは布団の中で目をつむったまま身を固くした。
なぜ、扉ではなく窓ガラスが叩かれたのだろうか。クローディアの自室は三階にあるので、空を飛んだりしないかぎり窓ガラスを叩くなんてできないはずなのに。
しかも、今は夜も更けてみんなが寝静まる時間だ。どう考えてもおかしい。
(……気のせい、だよね)
きっと風が窓を揺らし、叩くような音を立てただけだろう。そう自分に言い聞かせて、クローディアは少しだけ体の力を抜く。
けれど今度はコンコンと二回、窓ガラスを叩く音が響いた。
気のせいではない。確実に窓の向こうに誰かがいる。
一体誰がこんなことを。
クローディアの心臓が嫌な音を立て始める。
こんなに不安な夜は初めてだ。何もかもが良くない方向へ転がっているような気がしてくる。とりあえず、この部屋からは出た方がいいだろう。隣の部屋にはメイドが控えているだろうから、そこに助けを求めに行こう。
ごくりと喉を鳴らし、布団を体に巻き付けたままベッドをそろりと下りる。
けれども、足が床に着いた瞬間、窓ガラスが連続で叩かれ始めた。その音は決して大きくはないはずなのに、部屋中に響いてクローディアの恐怖をあおる。
見ないように、振り返らないようにしようと思っていたのに、クローディアはつい窓の方に視線を向けてしまった。ささやかな月明かりを遮るように、小さな影が浮かんでいるのが目に飛び込んでくる。
「ひっ」
足の力が抜けて、その場にぺたんと座り込んでしまう。布団が肩から滑り落ちて、ぱさりと床の上に広がった。声を出したくても、わずかな息が漏れるだけで声にならない。
クローディアはがたがた震えながら、その影を凝視する。
「……あれ?」
窓を叩いている小さな影。そのシルエットにやたら見覚えがある気がした。
小型犬のようなもふもふとした体。ふんわりしたしっぽがゆらゆらと揺れ、背中にある小さな羽がぴこぴことはばたいている。
その小さなもふもふは可愛らしい手で、窓ガラスを一生懸命叩いているようだった。
「ヴァルちゃんっ?」
クローディアは立ち上がり、すぐさま窓へと駆け寄った。窓の向こうには思った通り、見慣れた青いもふもふ竜がふわふわと浮かんでいる。ガラス越しにまん丸な黒い瞳と目が合い、その瞬間窓を叩く音が止んだ。
急いで窓を開けると、春の夜風が柔らかく部屋に吹き込んでくる。同時に、ヴァルターがクローディアに向かってにこりと笑いかけてきた。
「久しぶりなんだぞ、クローディア!」
「え、本当にヴァルちゃんなの? なんでここに……」
「くふふ、その話はあとで! とりあえず、おれさまはちょっとやることがあるんだぞ」
ヴァルターはそう言いつつ、窓を叩いていたのとは反対側の手に持っていた銀色のかぎづめのようなものを、窓のふちに引っ掛けた。かぎづめには長いロープがくくりつけてあって、どこまでも下へと垂れ下がっている。
木々の影になっているせいで、ロープの伸びた先に何があるのかはよく見えない。けれど、ヴァルターは迷いなくその先に向けて急降下していった。
ぴん、とロープが引っ張られるように小さく揺れる。そして、かぎづめとロープの結び目が、ぎゅ、ぎゅ、と締まるような音を立て始めた。
(そんな、まさか)
夜の闇からロープを伝って登ってくる人影に気付いた瞬間、クローディアは両手で口を覆った。
夜が訪れる直前の空のような藍色の髪。夜風に翻る黒い騎士服。ロープを掴んでいる大きな手。
木々の影から抜け出して月明かりに照らされたその人影は、クローディアがずっとずっと会いたかった大好きな人のものだった。
「ランドルフ」
クローディアの口から、その名が零れた。
信じられなくて、何度も目を瞬かせてしまう。
ロープを伝って壁を登ってくるランドルフのすぐ傍には、ヴァルターが寄り添うように飛んでいた。
ランドルフは順調に壁を登りきると、ヴァルターと共に窓からひょいっと部屋の中へと入ってくる。新緑を思わせる翠の瞳がまっすぐにクローディアを捕らえたかと思うと、ふっと優しく細められた。
「クローディア」
魔導具越しでもいいから聴きたいと願っていた声。その声がクローディアの名前を呼んだ。
耳の奥がじんとして、少しくすぐったい。心臓がとくとくと甘い音を鳴らし始める。
「ほ、本当にランドルフなの? ……夢? それとも幻?」
夢でも幻でもよかった。心の中の叫びに応えて現れてくれたランドルフに、クローディアはふにゃりと笑いかける。
会えて嬉しい。すごくすごく嬉しい。
そっと手を伸ばすと、ランドルフがすぐにその手を取ってくれた。そのまま手を引かれ、ぎゅっと抱き締められる。
そこにある確かな体温。穏やかな夜の森のような優しい香り。何もかもがクローディアの知っているランドルフそのもので、じわりと視界が歪んでしまう。
ランドルフはクローディアを抱き締めたまま、耳元で小さく囁いてくる。
「夢でも幻でもねえよ。俺はお前に会いに来たんだ」
耳に触れるかすかな吐息。さっきよりもずっと近くで聞こえたランドルフの声に、クローディアの頬はじわじわと熱くなる。
夢でも幻でもないと囁いたランドルフは、抱き締めていた腕の力を緩めると、じっとクローディアの顔を覗き込んできた。
新緑の瞳に見つめられ、クローディアはますます頬を火照らせる。淡い月の光に照らされたランドルフは、今までよりもずっと大人っぽくてかっこよく見えた。とくとくと甘く鳴っていた胸が、痛いくらいにきゅうと締めつけられる。
しばらくそのままじっと見つめ合った後、ランドルフがふっと照れ臭そうに表情を崩した。
「女性はある日突然花開く、か。……本当だったんだな、あれ」
「え? 何のこと?」
「ピクニックに行った時、ジルが言ってただろ? 覚えてないのか?」
そんなこともあったような、なかったような。こてりと首を傾げると、ランドルフは苦笑しながらクローディアの頬をそっと手で包み込んだ。
「ずっとずっと子どもだと思ってたけど、今のお前は年相応に見える。……綺麗になったな、クローディア」
一瞬何を言われたのか理解できなくて、ぽかんとしてしまう。けれど、すぐに褒められていることに気付いて慌てふためいた。ランドルフの口からこんな言葉が飛び出てくるなんて、予想外すぎてどうしていいか分からない。
やっぱりこのランドルフ、夢か幻なのでは。
会いたくて会いたくてたまらなかったから、クローディアの頭が勝手に理想のランドルフを創ってしまったのかもしれない。なんてものを創ってしまったのかとぐるぐる考え込むクローディアの額に、ランドルフが自分の額をこつんとくっつけてきた。
理想のランドルフは囁くように小さな声で告げる。
「クローディア。俺はお前のことが好きだ。だから、俺と結婚してくれないか」
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