39:一番大切な人(1)
三月になり、春の花が少しずつ咲き始める頃。
いつもより温かな風の吹く晴れた日の午後、久しぶりに姉が城に遊びに来た。せっかくだからと兄も呼んで、城の庭園で姉、兄、そしてクローディアの三人でお茶を楽しむことにする。
庭園の花壇では今、白いマーガレットの花が育てられていた。真珠のような美しい色をした花びらがとても綺麗で、なんだか眩しい。
その可憐な花を眺めながら、姉がクローディアに話しかけてくる。
「そういえばクローディア。どの人とお見合いをしてもすぐに断ってるって本当なの?」
三年前に結婚してこの城を出た姉は、母によく似た紅い髪を軽く指に巻き付けながら不思議そうに首を傾げた。長い睫毛の下の紅い瞳を興味深そうにきらめかせながら、こちらを見つめている。
クローディアは姉の視線に戸惑いつつも、こくりとひとつ頷いてみせた。
「うん。もう一度会いたいって思える人がいないの」
「まあ、お見合いで相手をいきなり気に入るってことはないかもね。私も、旦那様に初めて会った時はまさか結婚するとは思わなかったし」
姉はお見合い結婚をしている。けれど、どうやら初対面の時から相手のことを気に入っていたわけではないらしい。姉とその旦那様である公爵は今や相思相愛の仲良し夫婦として有名なので、意外な事実にクローディアは驚いてしまった。
目を丸くしているクローディアに姉は微笑みかけてくる。
「一回会っただけじゃ分からないことも多いわよ。気に入らないところがあっても、とりあえずもう一度くらい会ってみたら? 印象が変わるかもしれないわよ」
姉はクローディアにそうアドバイスをした後、紅茶を一口飲んだ。それから、ふと思い出したかのように尋ねてくる。
「クローディアは結婚するならどんな人がいいの?」
「え……」
ぱっと思い浮かんだのはランドルフの顔だった。どきりと心臓が大きな音を立てる。けれど、クローディアは小さく首を振り、頭の中に浮かんだ彼の顔をなかったことにする。
「えっと、私は私を一番大切に想ってくれる人と結婚したいの……」
しょんぼりと俯きながら、消え入りそうな声で言う。そんなクローディアを見て、それまで黙って会話を見守っていた兄が口を開いた。
「一番大切に想ってくれる人、か。……自分が一番大切に想っている人、ではなく?」
「うん。だって、私が一番大切に想っている人には振られちゃったもん」
「えっ」
「えっ」
姉と兄が揃って目を丸くする。そして、二人揃って身を乗り出すようにしてクローディアに詰め寄ってくる。姉も兄も紅い髪に紅い瞳をしているので、まるで双子みたいだ。
実際は姉の方が兄より二つ年上なので双子ではないのだけれど、なぜかこういう時のシンクロ率は昔からすごかった。
「クローディアったら、一番大切に想っている人なんていたの? え、誰なの?」
「しかも振られたってどういうことだ?」
真剣な表情をした二人に詰め寄られ、クローディアは少し後ずさった。足が軽くテーブルにぶつかり、上に置いてあったティーカップがかちゃんと小さな音を立てる。
自分が振られた話なんてあまり話したくはないのだけど、姉も兄もじっとこちらを見つめているので逃げられそうにない。クローディアは諦めて簡単に事情を話した。
辺境騎士団の団長ランドルフに拾ってもらって、一緒に過ごして、気付いたら彼に恋をしてしまっていたこと。でも、彼には一番大切な存在が他にいて、相手にしてもらえなかったこと。
たどたどしく、けれどクローディアは泣かずに話をした。さすがに「ひみつ婚」をしたことについてまで話してしまうと涙が我慢できそうになかったので、そこは伏せたままだったけれど。
クローディアの話が終わると、姉がため息をつきながら言った。
「はあ、なるほどね。そんなことがあったのね……」
姉は片手を自分の頬に添え、小さく唸る。眉をキュッと寄せてしばらく考え込んだ後、はっと何かに気付いたような顔をして立ち上がった。
「ちょっと待ってて。いいものをあげるわ」
「え、お姉様? いいものって?」
クローディアがきょとんとしていると、姉はにこりと微笑みを浮かべ席をはずした。
庭園にはクローディアと兄の二人が残される。春の風が花壇で咲いているマーガレットの間をふわりと吹き抜けていった。
兄が風に乱された髪を手で軽く直しながら、クローディアを見つめてくる。兄の瞳は、眩しいものを見るかのように優しげに細められていた。
「それにしても驚いたよ。ちょっと前まで泣き虫のお子様だったクローディアが、泣かずに……しかもこんなに大人っぽい表情をするようになっていたなんて」
ぽんぽんと兄の大きな手がクローディアの頭を撫でた。兄は穏やかな微笑みを浮かべ、しみじみと言う。
「クローディアには好きな人がいたんだな。だから見合いも断ってばかりだったのか」
「そ、それは関係ないよ」
「でも、彼のことがまだ好きなんだろう?」
クローディアは兄の言葉にびくりと体を震わせ、それから戸惑いつつも頷いた。
そう、クローディアは他の人と結婚すると覚悟を決めたはずなのに、彼のことをまだ忘れられないでいる。振られたのにどうして、と自分でも思うけれど、彼が好きだという気持ちはそう簡単に消えてはくれないのだ。
なんだか情けなくて、クローディアはしょんぼりと俯く。と、そこに姉がドレスの裾を華麗に翻しながら庭園に戻ってきた。
「お待たせ! はい、クローディア。これをあげるわ」
手のひらサイズの板のようなものが二枚、それと小さな袋。それらを姉からぽんと渡されたクローディアは、まずは板のようなものをじっと見つめる。そして、「あ」と声を上げた。
「これ、通信の魔導具……?」
「そうよ。袋の中の魔石はうちの公爵家で製造したものだから遠慮なく使って。この魔導具と魔石を辺境騎士団に送れば、すぐに連絡がとれるようになるはずよ」
クローディアの心臓が小さく跳ねる。
ランドルフに送った手紙の返事はいまだ来ることはなく、クローディアが去った後の辺境騎士団の様子は全く分からない。なので、連絡がとれるようになると助かるといえば助かるけれど。
袋の中を覗くと、魔石が思ったよりも多く入っていた。二十個くらいはあるだろうか。これだけあれば、離れていてもランドルフの声をたくさん聴くことができそうだ。
でも、この魔導具を辺境に送ったところで喜んでもらえるかどうかは分からない。もしかしたら迷惑に思われるかもしれなかった。
(迷惑、かもしれないけど……)
クローディアはランドルフの声が聴きたかった。
大好きな人の声を、魔導具越しでもいいから、耳にしたかった。
「……うん。ありがとう、お姉様。私、ランドルフにこれを送ってみる」
クローディアが魔導具を胸にぎゅっと抱き締めて微笑むと、姉もふわりと微笑んでくれた。その隣で兄も柔らかな笑みを浮かべて言う。
「クローディア。僕も姉様も、君の幸せを願ってる。……きっと、父様や母様も、ね」
庭園に温かな風が吹く。白いマーガレットの花がくすくすと笑い合うように揺れた。
穏やかな春の午後。
クローディアは遠く離れた大好きな人を想いながら、どこまでも続く青い空を見上げた。
白いマーガレットの花言葉は「心に秘めた愛」。
他にもマーガレットには「恋占い」「信頼」「優しい思い出」「私を忘れないで」などの花言葉があるみたいです♪




