35:もう泣かない(4)
クローディアが指さした先は本棚だった。そこには絵本が何冊か置いてある。ジルフレードはクローディアの指す絵本を見て、静かに頷いた。
「どうぞ、持っていってください。ここにある絵本はすべて、クローディア姫のために買ってきたものですから」
「……ありがとう、ジルさん!」
クローディアは本棚から絵本を取り出して、一冊一冊表紙を確認していく。どれもランドルフと一緒に読んだものばかりだ。じっと表紙の絵を眺めていると、読んだ時のことをいろいろ思い出す。
一番最初にランドルフと一緒に読んだのは、聖女様の絵本だった。ベッドに並んで座り、一ページ一ページ大切に声に出して読んだ。
あの時はまさか、自分が聖女になるなんて思ってもみなかった。
次に読んだ本も、そのまた次に読んだ本も、思い出がいっぱいだ。クローディアが音読したものもあるし、逆にランドルフが読み聞かせてくれたものもある。
ランドルフの優しい温もりと、穏やかな読み聞かせの声。幸せだった時間を思い出すたび、心がじわりと熱くなる。
最後に手に入れた本は、ランドルフが見つけてきてくれたものだった。
桃色の可愛らしいもふもふ竜が出てくるお話で、ランドルフは「クローディアが好きそうだと思ったから」と照れ臭そうに言っていた。
絵本の表紙に描かれた、桃色のもふもふ竜の絵をそっと指で撫でる。黒髪の騎士に抱っこされたもふもふ竜の女の子は、幸せそうに微笑んでいる。
絵本を見ていると、なぜか視界が歪み、鼻の奥がツンとした。
ぽたり、と涙の雫がもふもふ竜の絵の上に落ちる。
「……う、ぐすっ」
一粒、また一粒と、涙の雫が絵本を濡らしていく。クローディアは涙で顔をくしゃくしゃにしながら、堪えきれずにうずくまった。
ランドルフと離れたくなかった。もう少しだけ、傍にいたかった。
でも、それは叶わない。
(ランドルフ……)
痛い。
胸がすごく痛い。
こんなに急にお別れしなければならなくなるなんて思っていなかったから、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。
絵本を胸に抱いたまま嗚咽するクローディアの背中に、ジルフレードがそっと手を添えてきた。
「クローディア姫、やはりランドルフが帰ってくるまではここにいられるよう、あの騎士たちに交渉しましょうか。このまま別れるのは辛いのでしょう?」
「……大丈夫、だよ」
クローディアはごしごしと涙を拭うと、なんとか笑ってみせる。
「私は、この辺境騎士団を危険にさらしたくないの。だから、今すぐ出て行く」
「クローディア姫……」
「ジルさん。私が泣いたこと、ランドルフには言わないでね。ランドルフに心配かけたくないの」
ジルフレードは戸惑うように視線を揺らしたけれど、こくりと頷いてくれた。それを見てクローディアは微笑み、それから胸に抱いていた絵本を鞄に詰め込んだ。
さあ、準備はできた。
クローディアは少し重くなった鞄を手に立ち上がると、まっすぐに前を向いた。
王都に向けて、クローディアが乗り込んだ馬車が走り出す。
ここから出て行くことをあまり大袈裟にはしたくなかった。そのため、見送ってくれたのはジルフレードひとりだけだった。
クローディアは走る馬車の窓から、ぼんやりと外の景色を眺める。まだまだ寒い冬空の下、そびえ立つ辺境騎士団の建物がどんどん遠ざかっていく。
レンガ造りの高い塀。濃い灰色の石壁の建物。規則正しく並ぶ四角い大きな窓。
見慣れた風景はあっという間に小さくなり、かすんで見えなくなってしまう。
クローディアはもう泣いていなかった。
ただ大人しく運命を受け入れていた。
ぼんやりと窓の外を眺め続けるクローディアの向かい側の席には、王都の騎士たちが座っている。王女を連れて王都に帰ることができるのが嬉しいらしく、二人ともにやにやと口元に笑みを浮かべていた。
「ああ、そうだ。王都に連絡を入れておかないとな」
一人の騎士がそう言って、ポケットから手のひらサイズの板のようなものを取り出した。騎士は板についたボタンを押した後、板を耳に当てて話し始める。
「姫様を無事保護いたしました。これから王都までお連れします……はい、了解しました」
まるで誰かと会話をしているみたいだ。一体何をしているのか見当もつかなくて、クローディアは眉を顰めて騎士を見た。クローディアの視線に気付いた騎士は、板を見せつけながら自慢げに言う。
「もしかして姫様、これをご覧になるのは初めてですか? ははは、当然かもしれませんね。これは王都でも最新の魔導具ですから」
騎士はそう言いながら、板をくるりと回してみせる。
「これは通信の魔導具なんです。二台一組で使うものなんですけどね、これを使えばどんなに遠くにいる人とでも話ができるんです」
どうやらペアになっているもう一方の板を持っている人と、場所を問わず会話ができるという魔導具らしい。そんなものがあったのか、とクローディアは目を丸くする。
この国では、遠くの人と連絡を取りたい時には手紙か伝令を使うのが一般的だ。こんな風に直接声を届けて会話をするなんて、魔力が高く、なおかつ繊細な魔法を使える人にしかできないはずだった。
(これがあれば、王都にいても辺境騎士団のみんなと、お話できるのかな……)
少しだけ気分が上向いたのも束の間。
続く王都の騎士の言葉で、期待は打ち砕かれる。
「でもまあ、これは魔石に込められた魔力をものすごい勢いで消費するんですよね。剣三本は買えるくらいの値段の魔石で、一分くらいしか話せません」
その事実を知って、クローディアは真顔になった。
クローディアは辺境騎士団のお財布事情を、誰よりもよく知っている。はっきり言って、この通信の魔導具を使うような金銭的な余裕は、あの騎士団にはない。
はあ、とため息をついて、クローディアはまた馬車の外を眺める。
(とりあえず、お城に戻ったらランドルフにお手紙を書こう。今までのお礼と……お別れの言葉を伝えないと)
また少しだけ鼻がツンとして、目が熱くなってくる。でも、クローディアはそれをぐっと堪え、強く前を向いた。
もう泣かない。泣いたりなんかするもんか。
クローディアはもう十八歳――子どもではないのだから。
目の前を流れていく冬の景色を、クローディアは何も言わず、ただ眺め続けた。




