32:もう泣かない(1)
クローディアが聖女であることを報告する手紙を王家に送って、一ヶ月ほどの時が経った。
王家からは何の音沙汰もないまま、ただ平穏な日々が過ぎていく。
なぜ王家から反応がないのかは分からない。手紙が王家まで届く前にトラブルでもあったのか、それとも、一度捨てた王女のことなどもう何とも思っていないということなのか。
(まあ、三月になってもこのまま何も反応がないようなら、ランドルフがお城まで連れて行ってくれるみたいだけど)
あの告白の後も、クローディアとランドルフの関係は何も変わらなかった。告白なんてなかったみたいに今まで通りの関係が続いている。
時々、切なくて胸が苦しくなる。けれど、変わらない関係にどこか安心もしていた。
今は二月。ランドルフと一緒にいられるのはあと一ヶ月だけ。
お別れするその日までは、ランドルフと思いきり仲良く過ごしていたい。
「……よし、今日もランドルフに差し入れを持っていこうっと」
クローディアは一晩寝かせておいたシフォンケーキと温かいお茶の入った水筒を持って、団長室へと向かう。
そう、ここ最近は毎日シフォンケーキを焼いて、ランドルフに差し入れをしているのだ。
ランドルフはいつも嬉しそうにシフォンケーキを食べてくれる。その笑顔を見るのが、今のクローディアの最大の楽しみだった。
「ランドルフ……って、あれ? いない」
団長室の中には誰もいなかった。とことこと歩いて部屋の奥へ行き、窓から外を見下ろして「あ」と声を上げる。
訓練場で騎士たちと訓練をしているランドルフの姿が見えた。
クローディアは急いで訓練場へと走る。そして、ランドルフに気付かれないように、そっと訓練場の中に入った。
訓練場の中では、十人ほどの騎士たちがランドルフの指導の下で訓練を行っていた。今はちょうどランドルフが剣の扱い方について模範の動きを見せているところのようだった。
(わわ、ランドルフかっこいい!)
堂々と剣をふるうランドルフの姿に、クローディアはぽっと頬を熱くする。ついつい見惚れてぼんやりしていると、くるりと振り返ったランドルフに見つかってしまった。
「クローディア、そこで何してるんだ」
「ひゃあ!」
クローディアはぴょこんと跳ね上がる。けれど、すぐにふにゃりと笑って、ランドルフの傍に駆け寄った。頬を熱く火照らせ、胸をドキドキさせながら、シフォンケーキの包みを差し出す。
「あのね、これ、今日の差し入れ。米粉っていう粉で作ってみたシフォンケーキなの」
「米粉?」
「うん。小麦粉よりもしっとりしたシフォンケーキになるって聞いたから、作ってみたの。食べてみて?」
米粉のシフォンケーキは、小麦粉のものよりも作るのが難しい。
なぜかというと、米粉は「グルテン」というたんぱく質を含んでいないから。この「グルテン」というのは小麦粉と水を混ぜるとできる成分のことで、これがあると、シフォンケーキの弾力を作る手助けをしてくれる。
つまり、この「グルテン」が含まれない米粉のシフォンケーキは、弾力を作るのがかなり難しいのだ。メレンゲの質で出来が大きく左右されてしまう。
クローディアはいろいろ試行錯誤した結果、メレンゲはいつもより少し固めに作ることにした。それから泡をつぶしやすい油は減らし、逆に水は増やし、砂糖は少し控えめに……と、配合も米粉に合わせて変えてみた。
そう、今回はたくさんの失敗を乗り越えて作った、努力の結晶のシフォンケーキなのだ。
「うわ、団長ずるいっす!」
「可愛い聖女様からの差し入れを独り占めなんて!」
「いいなあ、オレも健気な女の子から手作りのお菓子をもらってみたい……」
訓練中の新人三人組がランドルフをうらやましがって大騒ぎを始める。
ランドルフは少し頬を赤らめながらも、きゅっと眉根を寄せて三人組を軽く睨んだ。
「お前たちは訓練の続き! ほら、さっさとあっちに行け!」
「えええー!」
三人組だけでなく、一緒に訓練をしていた他の騎士たちも嘆きの声を上げた。けれども、ランドルフの鋭い睨みを受けると、彼らは大人しく訓練へと戻っていく。
ランドルフは騎士たちが自主訓練を始める姿を見届けた後、やっとクローディアの方に向き直った。
「ありがとな、クローディア」
ランドルフの大きな手が、クローディアの頭を優しく撫でる。クローディアはふにゃりと笑って「どういたしまして」と答えた。
まだまだ冷たい冬の風が吹く中、ランドルフは訓練を続ける騎士たちを見守りつつ、クローディアの差し入れを口にする。おいしそうにシフォンケーキを頬張るその横顔にほっとしながら、クローディアは持ってきていた水筒のお茶をコップに注ぎ、ランドルフに差し出す。
「ランドルフ、温かいお茶をどうぞ!」
「ああ、ありがとう。……そうだ、今朝本屋に寄って、新しい絵本を買ってきたんだ。今日の夜にでも一緒に読むか?」
「うん、読む! ふふ、ヴァルちゃんも喜ぶね。私もすごく楽しみ!」
こくこくと何度も頷くクローディアに、ランドルフが優しい眼差しを向けてくる。その眼差しがなんだかくすぐったくて、クローディアの頬がじわじわと熱くなった。
恥ずかしくなって思わず両手で顔を隠すと、ランドルフが笑う気配がした。ぽんぽんと、大きな手がまたクローディアの頭を撫でてくる。
平和で穏やかな時間。
クローディアは、この時間がずっと続けばいいのにと願っていた。
けれど。
その平穏な日々は、やっぱり長くは続かなかった。
数日後のこと。
辺境騎士団に、王都から来たという騎士が二人やってきた。白と金をベースとした王都騎士団のきらびやかな制服を身にまとうその騎士たちは、どちらも偉そうな態度で周囲を窺っている。
「やっぱり田舎だな」
「五年前に作られたばかりだというから、もっと綺麗な場所かと思ってたんだが。辺境騎士団も大したことないな」
応接室の椅子に腰かけて、王都の騎士たちはふんと鼻で笑った。大きな窓の向こうに見える景色を見ながら、何もないだのつまらないだの、好き勝手なことを口々に言っている。
ジルフレードが眉間に皺を寄せながらも、彼らにお茶を出した。木製の長机に置かれたそのお茶を、騎士たちは偉そうな態度のままごくりと飲んだ。
「うわ、安物の味がするな。さすが辺境」
「お茶を出すメイドもいないなんて、貧乏すぎるだろう」
騎士たちがあまりに失礼な言葉を繰り返すので、クローディアはむむむと膨れっ面になった。
この騎士たち、どうやら王家に送った手紙の真偽を確認するためにここへ来たらしい。なので追い返すわけにもいかず、しかたなく応接室に通したのだけど、失礼すぎてどう扱っていいものか悩む。
しかも、間の悪いことに今はランドルフが不在だった。魔物が出没したので、その討伐に行っているのだ。彼がこの場にいてくれたらと思うけれど、こればかりはどうしようもない。
(ううう……。ランドルフ、早く帰ってきて……!)




