31:目覚める力(6)
夕日色に染まる廊下を走る。今はとにかく、あの場から離れたかった。
(ランドルフの意地悪! ひどい、ひどい!)
泣きながら階段を下り、また長く続く灰色の廊下を走る。
(私の気持ちも知らないで!)
ばんっと大きな音を立てて扉を開けると、そこは誰もいない訓練場だった。冬の冷たい風がクローディアの髪を勢いよくなぶる。
「はあ、はあ……う、ぐすっ」
クローディアはその場にしゃがみこむと、声を出して泣き始めた。
訓練場は静まり返っていて、クローディアの泣き声だけが寂しく響く。
(……分かってる。ランドルフは、何も間違ったことなんて言ってない)
クローディアはいつか絶対に城に帰ろうと思っていた。城に帰って、優しい家族と一緒に仲良く暮らす日々を取り戻したかった。
そのために、魔法が使えなくても誰かの役に立てる人間になろうと思っていた。ひとつひとつ自分にできることを増やして、みんなに受け入れてもらえるように――。
ランドルフはクローディアのその努力を認めてくれていた。だから、ランドルフがクローディアを城に帰そうとするのは当然のことなのだ。
彼が「ひみつ婚」を終わらせるというのも当然だ。
だって、もともとこの婚姻は王女であるクローディアを誘拐したと勘違いされないように、あくまでもランドルフの身を守るために、しかたなく結んだものなのだから。
聖女として目覚めた今のクローディアを見たら、辺境騎士団で大切に保護されていたとすぐに分かってもらえるはず。
(それに、この『ひみつ婚』は……)
そう、この「ひみつ婚」には期限がある。半年という期限が。
ランドルフとクローディアが「ひみつ婚」をしたのは九月のこと。その時に「この婚姻は半年だけ」「必ず白紙に戻す」とランドルフは言っていた。
その先にある正式な結婚なんて、はじめから求められてはいなかった。
半年後――三月になれば、嫌でも終わる。
ずっと気付かないふりをしていたけれど、ランドルフとクローディアの「ひみつ婚」の終わりの時はどんどん近付いてきていた。
今は一月。どんなに終わらせたくないと願ったとしても、この関係でいられるのはあと二ヶ月しかない。
ランドルフの隣には、あと少しの間しかいられない。
クローディアの目から、またぼろぼろと涙が零れ落ちていく。
「……クローディア」
うずくまって泣いているクローディアの頭上から、ランドルフの声が降ってきた。その声は穏やかにクローディアの名を呼んでいる。けれど、クローディアは顔を上げることができなかった。小さく首を振って、また泣く。
ランドルフはそんなクローディアの頭をそっと撫でてきた。
「心配するな。お前が城に帰っても、全く会えなくなるわけじゃねえ。俺も王都に行く機会があれば、その時はお前に会いに行くし、お前だってここにまた遊びに来ればいい」
クローディアのすぐ傍にランドルフがしゃがみこむ。そして、クローディアの頬に優しく手を添えると、顔を覗き込んできた。
「お前はもう『魔力なし』の『役立たず』なんかじゃねえし、城での生活も今までより待遇が良くなるはずだ。だから、何も心配しなくいい」
ランドルフの親指がそっとクローディアの涙を拭う。その指先も、頬を包み込む手のひらも、どちらもとても温かかった。
それでもクローディアの胸の痛みはやっぱりおさまらず、涙も全然止まらなかった。ランドルフが優しいからこそ、また泣けてきてしまう。こちらを見つめてくるランドルフの翠の瞳をまっすぐに見つめ返し、クローディアは告げた。
「ランドルフ。私……私は、あなたのことが、好き」
ランドルフの指の動きが止まった。この気持ちは絶対に伝えないと決めていたはずなのにどうしても抑えきれず、クローディアの口から彼への想いが溢れ出す。
「ごめんね。好きになるなって言われてたのに、私……ランドルフのこと、好きになっちゃったの。だから、お城には帰りたくない。ずっと、ずっと、ランドルフの傍にいたいの。『ひみつ婚』が終わった後も、ずっと、傍に……」
「クローディア」
ぱっと頬からランドルフの手のひらが離れた。冬の風が涙に濡れたクローディアの頬を冷やしていく。
ランドルフは視線を逸らし、唇を嚙んでいた。なにか苦いものでも食べた時みたな険しい顔をしている。しばらくそのまま黙っていたけれど、ふと覚悟を決めたようにクローディアに向き合った。
そして、真剣な声で告げる。
「俺も、いろいろ考えてた。お前のことはすごく可愛いと思ってる。お前のことが嫌いなわけじゃない。でも、俺にとっての一番はやっぱり『救いの天使』なんだ。俺は『救いの天使』に全てを捧げたい。恋人とか結婚相手とか、そういうのはいらないんだ。……だから、お前の気持ちには応えられない」
だんだんと日が沈み、空が暗くなっていく。
「お前は良い子だよ。すごく良い子だ。だから、俺なんかじゃダメだ」
ランドルフは目を逸らさない。
「お前は、お前を一番大切に想ってくれるやつと一緒になった方がいい」
それは残酷な言葉だった。
クローディアの胸の奥に鋭く突き刺さり、ズキズキと痛ませる。
でも、残酷ではあるけれど、予想をしていた答えでもあった。
ランドルフの「救いの天使」への想いは、きっと、とても強い。
どんなに彼のために心を込めてシフォンケーキを焼いたとしても。
どんなに彼のことを好きだと訴えたとしても。
きっと、クローディアは「救いの天使」を超えられない。
クローディアは、自分の手でごしごしと涙を拭った。
「……分かった。私、お城に帰る」
拭っても拭っても涙は出てくるけれど、それでもめげずに言う。
「お城に帰って、私を一番大切に想ってくれる人と一緒になる」
クローディアの涙声の宣言に、ランドルフは静かに頷いた。
「それがいい。その方が、俺の傍にいるよりも幸せになれる」
「うん。……でも、ひとつだけ」
「ん?」
「ひとつだけ、お願いがあるの。お城から迎えが来るまでの間は、今まで通りにしてほしいな。今まで通り、ランドルフと仲良く過ごしたいの」
潤んだ瞳で、ランドルフをじっと見つめる。ランドルフは驚いたように目を丸くしたけれど、すぐにくしゃりと笑った。
「お前がそうしたいなら、もちろん今まで通りにする。……ほら、このままこんな寒いところにいたら風邪ひくぞ。部屋に戻ろう」
「うん」
ランドルフが差し出してきた大きな手に、クローディアは自分の小さな手を重ねる。手を握られたその時、ランドルフの「ごめんな」という小さな声が聞こえたけれど、それは聞こえなかったふりをする。
空はもうすっかり夜の色に染まっていた。深い、深い、藍色の空。
その色はなんだかランドルフの髪の色によく似ている気がして、クローディアはまた少し、その視界を滲ませた。
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