1:捨てられ王女のひみつ婚(1)
「なんで泣いてるんだよ、お前」
突然間近で聞こえた若い男性の声に驚いて、クローディアはぴょこんと飛び上がった。
ざあざあと雨の降る王都の町の大通り。クローディアに声をかけてきたその青年は、眉間に皺を寄せ、怪訝そうな表情で目を眇めている。
「こんなところで傘もささずに突っ立ってたら、風邪ひくぞ。まあ今は九月だし、そんなに寒くはねえけど……お前みたいなちびっこには堪えるだろ」
青年は自分がさしていた傘をクローディアに差し出してくる。ぱらぱらと傘を叩く雨の音を聞きながら、クローディアは潤んだ瞳で彼を見上げた。
一瞬知り合いが声をかけてくれたのかと思ったのだけど、残念ながら全然知らない人だった。
「……あなたは、だあれ?」
「俺はランドルフ。辺境騎士団の団長をやってる。だから、怪しいものじゃねえよ」
「らんどるふ?」
「お前みたいなちびっこに呼び捨てにされる覚えはねえな。『さん』をつけろよ、『さん』を」
ランドルフと名乗ったその青年は半眼になって文句を言いつつも、黒い騎士服のポケットからハンカチを出して、濡れたクローディアの髪を優しく拭き始めた。毛先だけ桃色をした長い金髪の上を、白いハンカチが何度も往復する。
もうすぐ日も暮れるという時間だからなのか、街を行き交う人はクローディアたちをちらりと一瞥するだけで、みんな急ぎ足で去っていく。
冷たい雨の音が少しずつ強くなってきた。
クローディアの髪を拭いていたハンカチは、すぐにぐっしょりと濡れて水を吸わなくなる。ランドルフは傘を持っていない方の手だけでハンカチを軽く絞ると、そのままポケットに突っ込み、雨の様子を窺いつつ肩をすくめた。
「お前、そんな格好をしてるってことは、城のメイドなんだろ? 早く城に帰って着替えろよ。ほら、城まで送ってやるから」
ランドルフの言葉に、クローディアはふるふると首を振った。
濃いグレーのワンピースに、白いエプロン。頭にはホワイトブリムと呼ばれる白いフリルのヘッドドレス。そんな格好をしたクローディアは、確かに城のメイドにしか見えないと思う。
けれど、クローディアはメイドではなく、この国の「第二王女」だった。
捨てられる王女に豪華なドレスなんて必要ない、と侍女にこのメイド服を着せられただけ。
そう――クローディアは、王女なのに捨てられてしまったのだ。
「私、城には帰れない。捨てられちゃった、から」
「は? なんで?」
なぜ捨てられたのか。その答えの代わりに、クローディアは大粒の涙を零すことしかできなかった。
捨てられた理由に心当たりはある。けれど、正直なところ、それが原因で捨てられるなんて思っていなかった。
この国の第二王女として生まれて十八年。国王である父も王妃である母も、それから姉と兄も、クローディアをずっと可愛がってくれていたから。
だから、いざとなったら、助けてくれると信じていた。それなのに。
家族に裏切られた今、クローディアに帰れる場所なんて存在しない。悔しくて、悲しくて、クローディアの紅色の瞳から涙がぽろぽろと零れ落ちた。
ランドルフが弱り切った声で尋ねてくる。
「ああ、泣くなよ。理由を言うのがそんなに嫌なら、言わねえでいいから。それより、他に行けるような場所は? 家族や親戚のところとか、友達のところとか」
またもふるふると首を振ると、ランドルフは遠い目をしながら「まじか」と呟き、がしがしと頭を掻いた。
「お前、行くとこねえの? 本当に、どこにも?」
「うん」
小さく頷いてみせると、ランドルフは渋い表情になり、ため息をついた。
どんよりとした灰色の空はだんだんとその色を濃くし、今や重苦しい黒に近くなっている。辺りが暗くなるにつれ、ぽつぽつと街に明かりが灯り始めた。
「しかたねえな。とりあえず俺と一緒に来い。これも何かの縁だ、少しの間なら面倒みてやるよ」
クローディアの目の前に、ランドルフの大きな手が差し出された。戸惑っていると、少し乱暴に手を取られてしまい、驚いて「ひゃあ!」と声が出てしまう。
けれど、ランドルフはそれを無視してさっさと歩きだした。
「お前、すぐに迷子になりそうだからな。手、繋いでた方がいいだろ」
ぱしゃ、ぱしゃ、と水が跳ねる音。クローディアは手を引かれるまま、ランドルフについていく。
(あったかい……)
繋いだ手は温かかった。大きくて頼りがいのあるしっかりとした手は、クローディアの小さくて弱々しい手とは全然違う。ほわりと心の奥が温かくなり、頬がほんのりと熱を持った。
捨てる神あれば、拾う神あり。
クローディアはランドルフを見上げてお礼を言う。
「ありがとう、らんどるふ」
「……だから、お前みたいなちびっこに呼び捨てにされる覚えはねえって。『さん』をつけろよ、『さん』を!」
怒ったような口調なのに、握ってくれている手は優しいままだ。
言葉と行動がちぐはぐな彼を、クローディアは不思議に思いながら見つめる。
背が高く、どちらかといえば細身の体型。筋肉もほどよくついているようで、黒い騎士服がよく似合っている。
深い海のような藍色の髪は、クローディアに傘を差しだした時に濡れてしまったのか、全体的にしっとりしている。横に流した前髪の先には小さな雫がついていた。
切れ長の瞳は、新緑を思わせる爽やかな翠色。すっと通った鼻や形の良い唇に、クローディアは少しだけどきりとする。
年は二十代半ばくらいだろうか。大人っぽくて、素直にかっこいい人だと思う。
十八歳になったというのに、まだまだ「ちびっこ」と言われてしまう小柄なクローディアとは全然違う。ちょっと悔しい。
そんなことを考えていると、ふと彼の足が止まった。
「ここ、俺が泊まってる宿屋」
ランドルフはそう言うと、小さな明かりが灯った白い壁の建物を指し示した。入口の前で傘を畳み、何度か振って雨粒を落とす。
そして傘を宿屋の従業員に預けて、くるりとクローディアを振り返った。
「今夜は俺と同じ部屋で寝てもらうことになるけど、別にいいよな?」
「同じ部屋……」
「おい、変な想像はするなよ? 俺はちびっこに興味ねえからな?」
(変な想像って……?)
ランドルフの言うことは正直よく分からなかったけれど、とりあえずクローディアは神妙な顔で頷いておいた。ここで見捨てられたら困る。
ランドルフはクローディアの反応に満足したのか、軽くクローディアの頭を撫でた後、宿屋の奥へと入っていった。置いていかれないように、クローディアも彼の背中を追う。
木の板で作られた廊下は、一歩踏み出すごとに軋むような音がした。
しばらく廊下を進むと、ランドルフが泊まっているという部屋の前へと辿り着いた。
するとここで、ランドルフが何かを思い出したように「あ」と声を漏らす。
「そういえば俺、明日は王都を出発して辺境に戻る予定だった。今夜はここに泊まるからいいとしても、その後、俺がお前の面倒をみるのは不可能だ」
「え?」
拾ってもらえて安心したのも束の間、また捨てられる危機がやってきた。