第二十一話 効率化! 行政改革はカシャカシャという音と共に!
カウラ伯爵家側によるヒーサの寝室の探索は不首尾に終わった。
それどころか、完全に失敗であった。なにしろ、ヒーサが用意した“自作の春画本”にまんまとティースとマークが毒されてしまい、ナルが頭を抱えることとなったのだ。
真面目人間ほど、身を崩した際の破綻度合いが大きいと聞いていたが、まさかそれに主人と義弟を当てはめる日が来ようとは、さすがに想像もしていなかった。
完全にヒーサへの警戒が解かれたというわけではないが、家探しの前と後とでは、二人のヒーサへの態度が露骨なほどに変わってしまっていた。
そして、ここでヒーサの更なる一手が打たれた。
「今日からティースには、私の秘書官になってもらう」
これが三人組の度肝を抜いた。
秘書官とは、事務仕事の補佐役である。つまり、ティースに公爵領の行政に携わらせると宣言したに等しいのだ。
まだ公爵領に移り住んで日が浅いと言うのに、いきなりの抜擢である。これにはさすがのティースも少しばかり焦った。
「ほ、本当によろしいのですか?」
「よろしいも何も、読み書き計算ができるなら十分だ」
貴族と言えど、読み書き計算ができるとは限らない。特に下級の貴族はひどい有様で、領地経営などよりも武芸に打ち込んで、騎士として名を馳せるなどと考える輩も多く、そうした者ほど学問に対して軽んじた態度を取ってしまうのだ。
このため現在、カンバー王国における識字率は五割程度に留まっている。しかも、この五割という数字は“貴族”の数字であって、庶民となると大幅に落ちる。
自分の名前すら書けない、計算も足し算引き算ができればいい方、という有様がまかり通っている。読書や高度な計算を使える者など、ごく僅かだ。
まして、女性ともなると、さらに数字が悪くなる。歌や踊りなどの芸事には秀でていても、学に関してはさっぱり、などという貴族令嬢もかなりいるのだ。
その点で言えば、ティースは稀有な存在と言える。学問を修め、武芸にも通じ、かつては自領の巡察まで行っていた。それこそ、領主として勤め上げるのにも、実力的に問題ない程度の能力があったのだ。
今の境遇は、本当に“悪い奴”に目を付けられ、“運が悪かった”としか言いようがないのだ。
「なにより、ティースは公爵夫人だ。ならば、私の側近くにいたとて問題あるまいて」
このヒーサの意見も、異端であった。
女は美しく着飾っていればいい、と考える男性の貴族は多い。調度品や装飾品程度にしか女を見ておらず、あるいは世継ぎを生むための手段と割り切ってしまっている者もいる。
そうした女性蔑視の考え方が蔓延しているのも、現在の社会情勢であった。
しかし、ヒーサは違った。ただでさえ少ない女性の就学者を遊ばせておく方が勿体ない。そう考えるからこそ、ティースを自分の秘書官にと誘っているのだ。
なお、現在、公爵家の屋敷で務める者の中で、きっちりとした読み書き計算ができる女性と言えば、ヒサコ(自分)、テア(侍女)、ティース(嫁)、ナル(嫁の侍女)、アサ(侍女頭)だけである。
アサが後釜にと考えている女官数名もできなくはないが、少し能力的には不安がある、とヒーサは考えており、任せることはできなかった。
そのため、父マイスの代では、行政に携わるのは全員男性であり、ヒーサのように女性スタッフを入れているのは、まさに異例中の異例と言えた。
「それで、どうするかね? 引き受けてくれるかね? もちろん、断ってもらってもいいし、そうした場合は領内なら好きに過ごしてもらっていい」
「いえ、当然、お引き受けいたします」
ティースは即答で引き受けた。
なにしろ、領主の執務に携われるということは、そこにある機密性の高い数字、情報に触れることができることを意味していた。公爵領内のことを知るのであれば、直接見て回るよりも遥かに効率がいいと判断したからだ。
その点はナルも同様のようで、主人の判断を尊重することにした。侍女の仕事を務める傍らで、どうにか時間を作って様々な調査を行うつもりでいるが、それにも限界があった。
だが、ティースが機密情報に触れられるのであれば、話は変わってくる。より精度の高い情報が得られるし、それを元にした的を絞った調査ができるというわけだ。
しかし、それだけにナルは不信に思うこともがあった。自分がこうした発想をできる以上、ヒーサもその考えは持っていてもおかしくない。にも拘わらず、ティースに秘書官の地位を与えたのである。
単に、読み書きのできる女性という理由で登用したのか、あるいは“偽情報”を掴ませて、こちらの撹乱を行うつもりなのか、この点で判断が迷うのであった。
(現状では、なるようにしかならないか)
情報をもたらすのはティース、それを掘り下げていくのがナルとマーク。これで現状はいくしかないと、ナルは考えた。
分かっていたとはいえ、人手が圧倒的に足りないのだ。覚悟を見せ付ける意味で、従者を少数精鋭で固めはしたが、もう二、三人くらいは連れてきてもよかったかもしれない。
あの時の判断が間違ったものとは考えていないが、もう少しやりようはあったかもしれないなと、ナルは思った。
***
そんなわけで、場所を執務室に移り、早速ティースはヒーサの働きぶりを間近で見ることとなった。
そして、あまりに桁外れな速度に度肝を抜かれた。
(嘘でしょ、速過ぎるわよ、これ……)
その日の執務は財務に関する物が主であったが、ヒーサの計算があまりにも速過ぎたのだ。
机の上に積まれた書類や巻物を開いては、次々と計算していき、ササッと書き込んで次へと進む。これの繰り返しだ。
「あ、あの、ヒーサ、それ、なに?」
ティースはヒーサの計算が早い理由は分かっていた。それは机の上でパチパチと音を鳴らせている、無数の珠が連なってい盤状の存在だ。
「ああ、これか? “算盤”という計算するための道具だ」
ヒーサは算盤を手に取ってカシャカシャと鳴らせ、ティースに手渡した。初めて見る計算の道具にティースは興味津々で、ジッとそれを眺めた。
「無数の珠が連なっていて、それが真ん中で区切られている。上に二珠、下に五珠。それが何列も横並びになって……」
「そうそう。で、これで数字の“一”を表す」
ヒーサはパチンと珠を一つ弾いた。
「それから、これが“二”、これが“三”」
「おお、なるほど」
「で、“五”で“六”」
「おお、これで上の珠の意味が……」
「で、桁が変わって、“十”や“二十”がこうなる」
次々と弾かれる珠にティースは釘付けとなった。意味を理解すると、まるで魔法みたいに次々と“数字”が頭の中に思い浮かび、子供のようにはしゃいだ。
「しかし、これではあくまで数字を表しているに過ぎない。しかし、“四則演算”をこいつを用いて行うことができる。例えば……」
ヒーサは手近にあった書類を一枚広げた。領内にある町の、去年と今年の人口増減に関する書類であった。
「まず、去年の人口がこれ。で、死者数がこれで、産まれた新生児、流入した人の数がこれ。で、これを増減させると」
パチンパチンと珠を弾き、今年の人口を盤上の珠で表した。
「で、こうなると」
「うわ、すごい。ちゃんと数字が出た」
「簡単だろう? 加法、減法、乗法、除法、どれも可能だ」
ちなみに、算盤は戦国日本から持ち込んだ技術であった。
この異世界『カメリア』には、戦国日本と比較して、ある物とない物が混在していた。そのため、ヒーサはカメリアにない物の中ですぐに導入でき、かつ簡単に作れそうな物を取り入れていた。
算盤がまさにそれなのだ。
「私、数字の計算は筆算でやっていたんですけど、これの方が断然早いですね」
「まあ、筆算にも利点はある。計算の途中式が見れるし、計算能力に関係なく何桁でも計算できるからな。位取りや繰り上げ、繰り下げを間違えなければ、十分に通用する。速度という点では、算盤の方が優れているが、これを扱うにはそれ相応の技術がいる」
そう言うと、ヒーサは持っていた算盤をティースに手渡した。
「それはティースに渡しておこう。好きに使うといい」
「いいんですか?」
「ああ。予備もあるし、木工職人にどんどん作らせているからな」
だから気にするなと笑顔を向け、ヒーサは書類に再び視線を落とした。予備の算盤を引き出しから取り出し、また、計算を再開した。
そんな夫の顔をティースはじっと見つめ、心臓が高鳴りを打つのを感じていた。その凛々しい横顔がたまらないほど好きになっていたのだ。
自分とヒーサの婚儀は、こじれた関係となったシガラ公爵家とカウラ伯爵家の関係修復が主な目的である。
しかし、それは表向きな話で、ティースにとってはこじれる切っ掛けとなった毒殺事件の真相を探ることであった。特に、全ての鍵を握っているであろう毒キノコの出処である“村娘”、これの捜査、捕縛が最重要課題なのだ。
裏の事情を抱えた結び付き。両者の婚儀はまさに典型的な政略結婚なのだ。
ところが、夫たるヒーサはそんな事情を熟知したうえで、ティースには優しくて礼に則った態度を示してくれていた。子供のようにはしゃいだかと思えば、舌を巻くほどの冠絶する策謀を巡らし、それでいて普段は温和で理知的だ。
はっきり言えば、能力、財力、容姿、性格、どれを取っても文句の付けようもない完璧な夫なのだ。間違いなく、自分は世界一幸せな女だ、と実感できるほどであった。
(そう、義妹さえなければ、本当に完璧なのよ)
ヒサコという性格の歪みまくった義理の妹さえいなければ、素晴らしい夫と幸せな結婚生活を送れたはずなのだ。
昨夜の結婚初夜も、この優しい夫との初めての契りとなるはずであったのを、見事に妨害してくれたのだ。その点では明確な殺意すら抱いていた。目の前にいたら、義妹という点さえ考慮せずに、斬りかかっているはずだ。
ヒーサはティースを窘めてくれてはいるが、それすら不十分に感じる。この点だけが、夫に抱くティースの不満点であった。
などと思案しているうちに次々とヒーサは仕事を片付けていき、ティースが気が付いた時には決済すべき案件が奇麗に片付いていた。
「よし、こんなもんだな」
「うん、やっぱり早い」
改めてヒーサの実力を見せつけられ、ティースは感心した。
そして、片付いた書類や帳簿に目を落とすと、ふと疑問が浮かんできた。
「ヒーサ、この帳簿、なんかおかしい。あ、いえ、計算が間違っているとかじゃなくて」
「ああ、これな。これは“複式簿記”と呼ばれるものだ。ティースの伯爵領では、おそらく“単式簿記”を用いていると思うが、公爵領の行政府ではこちらなのだ」
ヒーサは帳簿を手元に持ってきて、ティースを手招きし、いくつもの数字を指さした。
「すべての取引に言えることだが、取引の原因と結果によって、金銭、財産が増減する。“単式簿記”が資金の収支を重視しているのに対して、“複式簿記”は財産や債務状況に重きを置いている。借方、貸方に振り分け、同一金額を書き込んでいくわけだから、合計額が常に一緒になるというわけだ」
「なるほど……。財政の全体状況や、損益の状態がすぐに把握できますね」
こういうやり方もあるのか、ティースは素直に感心した。
「まあ、金銭の流れを追うだけなら、単式簿記でもいいのだろうが、行政機構が複雑になってくると、こちらの方が全体像を見やすくていいのだ」
「手順としては複雑になりますが、資金の動きだけでなく、他の財産やなんかを把握すると言う点では、圧倒的に優れてますね」
この“複式簿記”については、戦国日本になく、こちらの世界のやり方であった。
次元の狭間において、《知識の泉》から異世界に関する情報を取得した際、“複式簿記”の存在を知ったのだ。そして、“元”商人である松永久秀は、これの有用性にすぐ気が付いた。
そのため、公爵領を差配できるようになると同時に、複式簿記に改めるように指示を出したのだ。
実はこの複式簿記については、まだ一部の商人に使用され始めたばかりで、一般的にはまだ普及していない制度であった。
当然ながら、領内の行政官や会計官などは困惑したが、《大徳の威》によって絶対的な忠誠心を植え付けられている者達ばかりなので、ヒーサの指示に従った。
結果、有用であることが証明されたため、過去の書類に遡って帳簿の整理に当たっており、どこも大忙しという状態になっていた。
それに合わせて、書類決済の書式を改め、官僚機構を整備し、今に至っているのだ。
算盤の導入、複式簿記への切り替え、書類決済と官僚機構の整備、この三本柱を軸に改革が勧められており、徐々に新体制が固まりつつあった。
これにより、シガラ公爵領はこの世界においては、他の追随を許さぬほどの行政効率を手に入れ、飛躍への前段階を突き進んでいるのだ。
「しかし、ティースよ、算盤のことといい、帳簿の様式といい、すぐに判別がつくとは驚いた」
「お褒めいただき、ありがとうございます」
出来の良すぎる夫には遠く及ばないが、それでも褒めてもらえることは純粋に嬉しかった。ティースは気恥ずかしそうに顔を赤らめ、貰った算盤を強く握りしめた。
それに対してヒーサは椅子から立ち上がり、妻の肩に手を置いた。
「ティース、改めて感じたよ。美人で、利発的で、行動力もある。やはり、ティースは私に必要な女性だと、思い知らされた」
「私などでお役に立ててうれしく思います。本来なら、すべてを奪われても文句の言えぬ身でありながら、ここまで丁重に扱っていただいて恐縮です」
「ま、かなりエロいところが玉に瑕ではあるがな」
「もう! せめて“かなり”ではなく、“少し”と表現していただきたいですわ」
「エロいことを否定しないのは潔いな」
頬を膨らませて抗議するティースがなんとも可愛らしく、ヒーサはそっと抱き寄せた。
ティースもヒーサの背に手を回し、ギュッと抱き締めた。
「まあ、これなら、テアが“いなくなっても”問題はなさそうだな」
「……え?」
何かとんでもない爆弾発言が飛び出したと、ティースはその耳を疑った。専属侍女がいなくなるとはどういう意味なのか、理由がわからず頭も体も硬直してしまった。
そこへ、問題のテアが執務室へと入ってきた。
「お楽しみのところ、申し訳ございません」
「構わん。続きは夜にする」
「ちょっと、ヒーサ!」
はちゃけた夫の言葉にティースは抗議の声を上げたが、いつの間にか真面目な顔になっていたので、自分も口を紡ぐことにした。
「妹君がお戻りになられましたが、いかがいたしましょうか?」
テアの言葉に、ティースは露骨に嫌そうな顔をした。と同時に、昨夜のことを思い出し、怒りが込み上がってきた。
「分かった。すぐにここへ呼べ」
ヒーサの言葉もいつになく冷たく、こちらも相当怒っていることをティースは感じ取った。そして、いよいよ本気で妹を叱るつもりになったのだと安堵した。
「ティース、すまんが、ナルとマークも呼んできてくれ。ヒサコの“処分”は身内で決めよう」
ついに飛び出した“処分”という言葉。やはり間違いなく、これでヒサコもこっぴどい罰を受けるのだと、ティースは心の中で握り拳を作った。
「分かりました。すぐに呼んで参ります」
待ちに待った時が来たと、ティースは軽い足取りで部屋を出ていった。
そして、足音が完全に消え去ったのを確認してから、ヒーサは目の前に手を出して広げた。
「人体投影」
発せられた言葉からみるみるうちに人の形を成し、ヒサコが姿を現した。自分よく似た、魂の入らぬ抜け殻のような存在。ヒーサの罪を覆い隠し、背負うことだけに生み出された、偽りの妹だ。
ちゃんと生成されたのを確認し、ヒーサは再び椅子に腰かけた。
「いよいよ、最後の閉めね」
テアはヒーサの横に立ち、こちらも作り出されたばかりのヒサコを見つめた。
「ああ、何と言う悲劇だ。このような可愛らしい妹を追放せねばならんとは」
「棒読みぃ・・・。あと、顔、笑っているわよ」
実際、テアの言う通り、抑えきれない衝動が顔ににじみ出ていた。
「素直に言ったらどうですか? 茶が飲みたい、と」
「それな! まあ、せいぜい励んでもらうとしよう。頼むぞ、我が妹よ」
「自分が妹になるくせに」
そう、あとはヒサコを追放し、ヒサコに変じて、一路エルフの里を目指すのみだ。
偽物は置いていく。自分の姿をした、自分自身という代役を、だ。
間もなく始まる冒険に、戦国の梟雄は胸を高鳴らせるのであった。
~ 第二十二話に続く ~
松永久秀のいた戦国日本の算盤は、上二珠下五珠の算盤で、現在使用されている上一珠下四珠の算盤になったのは、昭和に入ってからです。
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