第五十九話 過去の記憶! それは地獄以外の何ものでもない!
それはアスプリクにとって、思い出したくもない地獄のような光景であった。
見覚えのあるその光景は、“かつて”の自分自身に降りかかってきた記憶の映像化されたものだ。
「さあ、まずは見せてやろう。お前の生まれた日の記憶を」
「や、やめろ!」
アスプリクは耳元で囁く鼠を振り払おうとするが、ヒョイヒョイッとかわされた。
鼠は世界の意思であり、アスプリクに過去を見せようとしていた。
アスプリクはその映像を振り払おうとするが、刻まれたように頭から離れなかった。
頭を抱えて蹲るも、その映像は消えはしない。
脳に直接焼き付けられたものであるからだ。
王宮にある一室で執り行われた出産は、王族の出産としてはごくありふれた光景であった。
医師がいて、産婆がいて、立会人を兼ねる術士や教団関係者がいる。
ただ、普通と違う点があるとすれば、妊婦が森妖精である点であろう。
国王フェリクに見初められ、寵姫となったアスペトラと言う名のエルフだ。
旅のエルフにして腕の良い薬師でもあり、病に伏せていたフェリクを助けた事が縁となり、そのまま宮中にて囲われる事となった。
正妃が亡くなっていた事もあって、フェリクはこの美しいエルフを殊の外溺愛し、ついに子供さえ身籠った。
その出産が今から始まろうとしている。
「やめろ! それを僕に見せるな!」
アスプリクの悲痛な叫びは虚しく響くだけで、それを受け止める者は何もない。
魔王は苦しみもがくアスプリクを見ながら、愉悦の笑みを浮かべるほどだ。
「まあ、お前の生まれ落ちる瞬間だ。さあ、その目に焼き付けるがいい」
焼き付ける、という言葉がこれほど当てはまる出産と言うのは例がないであろう。
なにしろ、生まれ出た赤ん坊は産婆の手の内にあるが、それが突如として燃え盛ったのだ。
産婆はその炎熱を浴びせられ、大火傷を負いつつもどうにか炎の内よりかは逃れることができた。
だが、赤ん坊の母であるアスペトラはそうはいかなかった。
燃え盛る炎に包まれ、悲鳴すら炎にかき消されてしまい、燃え尽きて果ててしまった。
立ち会っていた術士が数人がかりで、ようやく赤ん坊が放つ炎を抑え込んだ時には、寝台は燃えてなくなり、遺体もまた黒焦げの“炭”になっている有様だ。
隣室にて控えていた国王フェリクは、騒ぎを聞き付けて分娩室に入り、その凄惨な光景を目の当たりにしてしまった。
丸焦げの寵姫、火傷で負傷している立会人達、そして、その地獄のような光景にあって、穏やかな寝息を立てている赤ん坊が、静かな分、逆に不気味に感じるのであった。
しかも、その容姿たるや、白大理石を彫り込んだような肌で、髪も白銀のようであった。
気が動転するフェリクは、生まれたばかりの我が子を直ちに処分するように命じるが、教団関係者がそれを諫めた。
あまりにずば抜けた術士の才能を有し、生まれたばかりの赤ん坊でありながら、この場の誰よりも強い魔力を得て生まれてきたのだ。
火の神オーティアの下された奇跡であるとして、大切に育てるようにと上奏した。
そして、地獄が始まった。
「恵まれた才能、神よりの恩寵を受けし白無垢の少女。天からの恵みである。しかし、大きすぎる才能は人々の嫉妬と恐怖を生む。その手は血と炎で赤く染まり、決して拭う事の出来ない罪と言う名の重荷と成り果てた」
「う、うぁ……!」
「目を背けるな。そして、思い出せ。いかに人間と言うものは、どうしようもないクズだという事を」
アスプリクの目の前に現れたのは、目、目、目。人々から向けられた目だ。
物心が付いた頃からずっと見られてきた。
愛情の一切ない、猜疑と恐怖の目だ。
大人達から向けられた目は、いつも冷ややかだった。
父親からは実質、棄てられた。
廃棄品のお姫様だ。
教団からの要請がなければ、生まれた直後に処分されていた事だろう。
妾の子供、半人半妖の娘、死者のごとき白無垢の姿、血と炎で染まる赤い眼、そして、母親殺し。疎まれる理由はいくらでもあった。
父親から笑顔を向けられたことは一度もなく、抱きかかえられた事もはおろか、十歩以上近付くこともなかった。
三人の兄も表面上は平静を装っていたが、どこかよそよそしい態度ばかりで、妹を可愛がるという事もなかった。
宮仕えもそうだ。正式に認められたものではないが、仮にも一国の姫君に対する態度ではなく、まるで腫物に触れるかのような姿勢であった。
水桶を抱えた侍女が常に付き従い、その中身が役立った事は一度や二度ではなかった。
膨大な魔力を持ちながら、幼さ、未熟さゆえに制御ができず、火事を起こす事、百は下らないほどだ。
「さあ、思い出せ。そこからが本当の地獄であろう?」
「いやだ! 思い出したくもない!」
「お前に拒否権など、存在しない。どれほど周囲に迷惑をかけた? 母親を焼き殺した、いけない子供は誰だったか? 王宮に何度、付け火したかな?」
「わざとじゃない! 僕は焼こうとして焼いたわけじゃない!」
「焼いた、と言う事実の前では、いかなる言い訳も通用しない。そら、そんな悪い子には、ちゃんと“躾”をしてやらんとな」
そこからが、アスプリクにとっての本当の地獄であった。
十歳を迎えると、王宮を離れ、神殿へと入れられた。
王侯貴族と言えど、術の才能を持つ者は例外なく神殿に入り、術士となる修行を行うのが決まりであるからだ。
ただ、アスプリクに関しては色々と特別であった。
なにしろ、妾腹の身とは言え国王の娘であるし、しかも類まれな術の才能を有している事はすでに知られていたため、“特別な訓練”が施されたのだ。
何人もの高位聖職者が“付きっ切り”で手解きし、最高の術士を作り上げるべく訓練がなされた。
その訓練は苛烈を極め、失敗は許されず、不甲斐ない訓練結果は体罰へと及んだ。
だが、それは体罰と言う名の辱めであり、指導とは名ばかりの凌辱であった。
高貴なる血筋にして珍しい容貌は、幾人かの欲情を掻き立てる結果となった。
国王の娘と言えど妾の子であり、その点でも監督者達の抑止がなかったと言える。
アスプリクの術の腕前が飛躍的に伸びたのも、才能もさることながら、“夜の補習”が大嫌いだったからに他ならない。
文句のない結果を出せばいいのだろう、と必死になった。
それでも何かと理由を付けては、呼び出される事もあり、状況は変わらなかった。
火の大神官という地位も、所詮は名ばかりのものであり、扱いは表向きは丁寧であっても、実態は奴婢と変わらぬものであった。
なんで自分がこんな目に合わなければならないのかと、自分も含めてあらゆる事象を呪ったものだ。
だが、そこに光が差し込まれた。
次兄ジェイクが密かに人を出し、状況を探りに来たのだ。
誰も気付いていない。自分だけが気付いている。
状況を知れば、じきに何かしらの助けを寄こしてくれるだろう。
そう考えたアスプリクであったが、結果は“何も起こらなかった”のだ。
期待は絶望へと変わり、まずは激しい憎悪を、次いで、失望を抱いた。
そして、アスプリクは心を閉ざし、闇に呑まれた。
神を呪い、世間を呪い、肉親を特段に呪った。
いずれ全てをぶち壊しにしてやると、名すら知らぬ闇の神へと願ったほどだ。
「さあ、アスプリク、お前は何者だ? 闇の神へ身を捧げる、白無垢の鬼子ではなかったか?」
「うるさい! 黙れ!」
アスプリクは必死でもがき、カシンの言葉に耳を傾けないようにと、自分に言い聞かせるように叫んだ。
だが、湧き起こる心の闇はこの上なく濃いのだ。
「ほぉ~れ、ほぉ~れ、微かに残る理性とやらが拒絶しようとも、心や身体の方は疼いてくるようだな かつての恨みを晴らすのであればどうすべきか、よく分かっているようだ」
「ぐうぅ……。ぼ、僕は、僕は、屈したりしない!」
「その強がり、いつまで続くかな? もうお前の体の中に、魔王の因子が入っているのだぞ。もう止められん。助けも来ない。そう、かつてのようにな!」
病魔を介在する鼠の囁きは、アスプリクにとって苦痛でしかない。
苦痛を和らげるのには受け入れるしかないのかと、心が折られるほどに痛い。
それ以上に、かつての記憶が痛いのだ。
体にも心にも染み付いた大人達の目が、、あるいは辱めた肌の感触と下卑た声が、助けてくれなかった絶望が、少女をなおも締め上げるのであった。
~ 第六十話に続く ~
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