第四十一話 野点の茶会! 英雄は一席設けて魔王を招く!(11)
「カシンめ……、余計な真似を」
ヒーサは苛立ちを込めてそう言った。
自分が飲むように勧めた“毒の入っていない茶”をヒサコが飲むと、妹は苦しみのあまりにのたうち回った。
この世のあらゆる享楽を望む松永久秀の因子と、世界の破滅を企図する魔王とのせめぎ合いの結果であった。
極上の茶と共に、この世の“楽”を説き、世界を消し去るなどと言う馬鹿げた考えを改めさせ、ヒサコを説得しようと試みた。
英雄と魔王の八百長、それこそヒーサの望む状態であった。
この世界は英雄と魔王を戦わせる神々の遊戯盤であり、どちらかが倒されない限り存続するという法則に縛られている。
この法則に目を付けたヒーサは、八百長による延長戦を目論んだ。
折角手に入れたこの世界における財力と権力を使い、しばらく遊び倒すつもりでいたためだ。
公爵家次男坊の町医者から始まり、今や息子に王位を継がせてそれを操れる立場にまで上り詰めたのだ。
国外の敵は言うに及ばず、国内の不穏分子も一掃し、さあ遊ぶぞと言うところでヒサコの魔王化である。
(第一の策は魔王化の阻止だ。魔王候補の二人、アスプリクは私に惚れさせ、マークはティースを出汁に歯止めをかける。これで当面の時間は稼げた。だが、同時に第三候補ヒサコの魔王化にも注意を向けねばならなかった。空っぽだけに何ものにも染まる性質。傀儡の糸を掴んだ者が、ヒサコの支配者になる。魔王の隠れ場所が“自分自身の中”であると察した瞬間から、これは始まっていた)
ヒーサはかなり早い段階で魔王の精神が、自分の中に隠れ潜んでいる事を察した。
ちなみにこの件は“共犯者”のテアにも話していない、秘中の秘であった。
あくまで素知らぬ顔を続けて、事が起こればひっくり返すつもりでいた。
(もっとも、いつどこで事が起こるかは、流れ次第であったがな。アスプリクが攫われた際に、そろそろ来るなと感じて、ルルに急いで用意していた茶道具を持って来させたが、徒労であったな)
予想はできても、防げない策と言うものは存在する。
ヒサコが魔王として覚醒した場合、真っ当な戦闘で勝つのはまず無理だと考えていたため、茶席と言う奇手を用いねばならなかった。
ヒサコの中に模写された“松永久秀の欲望”の強さに、最後の望みをかけていた。
あるいは、茶によって刺激されて、秘めたる欲望が疼き、多少は時間を稼げると踏んだ。
実際、その策は成功したのだが、結果としてひっくり返されてしまった。
(やれやれ、カシン、余計な事を。今少しでヒサコをこちら側に引き戻せたのに、せっかちな事だ)
万策尽きたと言わんばかりに大きなため息を吐き、そして、側に控えていたティースとルルに視線を向けた。
「すまんな、二人とも。此度の戦はお手上げだ」
「いやいやいやいやいや」
ティースは納得がいかなかったのか、ヒーサに詰め寄った。
ルルの方は困惑するだけで、ヒーサとヒサコを交互に見るだけであった。
「あんだけ『してやったり!』みたいな顔しといて、いきなり負けましたってどうなの!?」
「カシンが余計な事をしてくれた。もう少しでヒサコを引き戻せたのに、追い込みをかけて“心の闇”を濃くしたようだ」
「だからって、もう手はないの!?」
「残念ながら、私ができるのはここまでだ。ほれ、取りあえずこれでも食って落ち着け」
そう言って、ヒーサは持っていた菓子箱の蓋を開け、中の饅頭をティースに差し出した。
「ふざけてないで、もうちょっと考えなさいよ! 狡い頭が、あなたの唯一の取り柄じゃない!」
「顔立ちもよくて、性格も慈悲深い名君を捉まえて、頭だけが取り柄って酷くないか?」
「そういう態度のどこが慈悲深いって!?」
「頭の上からつま先に至るまで、愛に満ち溢れているが……。一体何が不満なのかね、我が麗しの妻よ?」
「だからそういう態度ぉぉぉ!」
ルルはまた夫婦喧嘩が始まったよ、と思ったが、今回はいつものという訳にはいかなかった。
先程までのたうっていたヒサコが、いつの間にか立ち上がっており、兄夫婦を睨んでいたからだ。
今までなら苦笑いを浮かべていたのだが、今回は明らかに明確な不快感があらわになっており、うんざりしているのがルルにも分かった。
「お兄様、イチャイチャするのは、あの世に行ってからにしていただきましょうか!」
口調はもちろん、溢れ出る魔力にも怒りが迸っており、その濁流に飲み込まれそうになるほどの荒々しさだ。
だが、この夫婦はそれを無視した。
「ティース、お前なぁ、これでも私は結構頑張ったんだぞ? どだい無理な話だったのだ。魔王のデタラメな強さはどういうものなのか、ヨシテルと戦ったお前なら分かるだろう?」
「だったら、その狡い頭でどうにかするのが、ヒーサの役目でしょうが!」
「やった! やったさ! 脳髄絞り出して、色々考えたぞ! 辛うじて勝てそうってところまでは来たのだ! が、結局、相手の手札がこちらを上回っていたという話だ!」
「ハンッ! 今まで散々弄っていたくせに、テアがいないと何にもできないの!?」
「いや、ほんと、それ! なんやかんやで、結構役立ってたんだな、あのけしからんしゃぶりたくなる体の女神様は」
「その台詞を妻に対して言いますか!?」
「女神と張り合わんほうがいいぞ。体型を自在に変えられる術もあるし」
「なにそれ!? 欲しい! ちょっと産後で体型が弛んでいるし、少し引き締めたい!」
「などと言いつつ、皇帝や魔王と切った張ったしていた点はどうなのだ? とても産後半年程度の経産婦とは思えんのだが?」
「ほぼ強制的に戦場に引っ張り出したのは、どこのどちら様でしたか?」
激高するティースと、それを流すヒーサ。いつも起こる見慣れた光景だ。
それを見ているルルにしろ、ヒサコにしろ、またか程度の反応しか見せない。
ただ、魔王を目の前にして、それをやれる図々しさと言うか、周囲に一切流されない姿勢だけは反応に困った。
なんとなしに割って入るのも憚られるほどだ。
(また闘争の空気を緩められた)
分かってやっていれば大した胆力、度胸だと思わないでもなかったが、すでにヒサコの意思は固まっていた。
と言うより、固められていた。
(腹立たしい! 何もかもが腹立たしい! いつもそうやって見せ付けてくれましたものね! 最後の最後までコレですか!)
ヒサコにはかつての記憶がほとんどない。
松永久秀の記憶をある程度だが継承し、それを記憶の根幹としていた。
だが、ヒサコとしての記憶はない。
人形に心や魂などと言うものがなく、操られるがままに動いていたに過ぎないからだ。
今ある記憶も、体に染みついた記憶の断片と、カシンがもたらした情報を習合に過ぎない。
そんなヒサコも、確実に覚えていることがある。
それは、人間的な温かみなど、ただの一人も与えてくれなかったという事を。
(誰もあたしを愛してくれなかった。温かみを与えてくれなかった。人形だから? ……違う。ヒサコと言う人間を演じ、完璧に擬態していた。裏事情を知らない者には、ただの貴族のお嬢様でしかなかったはず。なのに……!)
実際、ヒサコの周囲には多くの人々が集まっていた。
だが、そのどれもこれもがヒサコの立場や血筋、あるいは智謀を利用するためであった。
公爵家の令嬢でしかも美人で独身とくれば、婚姻の申し出は後を絶たず、闊達に動き回る行動力に加えて、他の追随を許さぬほどの智者としての振る舞い。
利用を考える者など、いくらでもいた。
だが、“ヒサコ”そのものに焦点を当てて、付き合ってくれたのはたったの二人。アスプリクとアイクだけだ。
もっとも、この二人にも厳密な意味においては、付き合っていたとは違うのだ。
アスプリクはヒサコと親しく接していたが、それは裏の事情を知っていたからで、常にヒサコの後ろにはヒーサの、松永久秀の影を見ていた。
アイクはヒサコの類まれな芸術的感性に惚れ込んでいたが、その感性の大元は“数奇者・松永久秀”であって、ヒサコそのものとは言い難かった。
つまり、ヒサコの人間関係は全て“兄からの間借り”でしかないのだ。
(妬ましい! 妬ましい! 全てを持って行く、お兄様が妬ましい! “同じ”なのに、なんで誰もあたしを見てくれないの!?)
今、目の前で繰り広げられている兄夫婦のやり取りなど、ヒサコからすれば憤激に値した。
そもそも、ヒーサはティースの財産を搾り取るために結婚し、事が終われば捨てるはずだったのだ。
ところが、妹をけしかけて色々と試し、そこへ優しく手を差し伸べるという、度し難いマッチポンプをやってのけた。
これはものの見事に成功し、“身バレ”さえなければ、今も円満な夫婦として過ごしていることだろう。
だが、今やヒーサの方がティースに惚れていた。
数々の試験を突破したのみならず、見事に覆い隠された真実に自力で到達し、ヒーサの正体を暴き出したからだ。
成長した。愛でるに能うほどの大名物へと変じた。
それがヒーサの、松永久秀のティースに対する感情であり、本当に妻として寵を与える事にしたのだ。
(でも、それは本来、あたしにこそ向けられるべきもののはず。なのに……!)
結局のところ、ヒーサにとってヒサコは自分自身であり、同時に影でもあり、人形に過ぎなかっただけの話であった。
妹ではなく、使い勝手のいい手駒。それ以上にはなれなかった。
もちろん、意識を持たない人形であればこそ、そうした反応にはなるであろうことは分かっていた。
だが、こうして“自律”してからも、その根の部分は決して変わらなかった。
(ならばもう、あたしは妹でもなんでもない。魔王として、何もかもを潰すだけ!)
ヒサコは兄夫婦の営みを見て、自分が決して味わえない甘美な時を過ごしている事に嫉妬した。
茶も美味しかったが、より甘くて濃厚な“人と人との繋がり”を堪能している様が、何よりも憎くて仕方がないのだ。
自分で味わえぬのなら、自分の稼ぎを掠めた兄に思い知らせてやろう。
何もかもをぶち壊してやると、ヒサコは心の中に残っていた僅かな兄への期待をも消し去ってしまった。
~ 第四十二話に続く ~
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