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第二十八話  最悪の罪過! 母は子を殺し、悦に浸る!

 袖口から、襟元から、ヒサコの来ている衣服の隙間から“それ”は伸びていった。

 モクモクと立ち込める煙のような黒い触手は、ヒサコの抱える赤ん坊マチャシュに巻き付いていき、そして、見えなくなった。

 何度かモゾモゾと蠢いた後、マチャシュは跡形もなく消え去っていた。


「ああ、とうとうやってしまったか」


 ヒーサはその光景を見て呟き、憐れむようにヒサコを眺めた。

 ティースはヒサコを睨み付け、その拳は震えていた。

 その二人の視線の先にいるヒサコは、何とも言い難い満たされた表情になっていた。まるで食事を終えた時のような、実に満たされた表情のようだ。

 そして、その恍惚とした表情は、僅かな時間で悪鬼の形相へと変わり、ヒーサとティースへと向けられた。


「フフフ……、こうなったのも、全てお兄様のせいなのですからね。その事を分かっておいでですか?」


「何を言っている。罪を重ねたのは、ヒサコと言う人物であって、ヒーサではない。そこの点を勘違いしてもらっては困る」


「この状況で挑発しますか、ヒーサは」


 止めい止めいと言いたげにティースはヒーサの袖を引っ張ったが、ヒーサは完全無視で不敵な笑みをヒサコに向けた。

 ヒーサの立ち位置は決して変わらない。この世界に降り立つ前、『時空の狭間』で思い付いて以降、この世の悪事は全て“ヒサコが悪い”で通してきた。

 男性体ヒーサの手を極力汚さず、汚れ仕事や荒事は女性体ヒサコに任せる。

 名誉や称賛はヒーサに。悪名や怨嗟はヒサコに。これをずっとやり続けてきた。

 しかし、その閃きの結果が“これ”である。

 ヒサコは人類の絶対悪とし、最後は消すつもりでいた自らの影が勝手に動き出し、魔王と同調し、世界を滅ぼす存在へと成り果てた。

 今、息子を食らった事で、“母の子殺し”という最悪の罪過を背負い、いよいよ魔王としての完全な状態を手にした。

 ヒサコはあくまでヒーサの生み出した“触る事の出来る幻”であり、存在自体は虚ろなものであった。

 目の前にいて、触れる事はできるが、そこには誰もいない。いるものだと、“神の加護”によって錯覚しているに過ぎないのだ。

 だが、ヒサコは今や完全な存在となった。

 “自我”を以て自律し、“自分”と言うものをこの世界に打ち込んだ。

 確かな存在として、世界に楔を打ち込んだのだ。


「来ました! 来ましたよ……、ついに!」


 ヒサコは今まで感じた事のない絶頂感が、全身くまなく走り抜けるのを感じた。

 今まで押し込められたものが一気に流れ出した、圧倒的な解放感と言ってもよいだろう。

 実体のなかったヒサコは、今やマチャシュと一体化する事により、完全な存在へと変じた。

 もはや虚ろな幻などではなく、その存在を世界に認められた確たる存在になった。


「素晴らしいですわね、この力! この感覚! 糸の切れた操り人形マリオネットは崩れ落ちるのが定め。されど、あたしは違う! 今や誰はばかることなく自分の足で立って歩ける! 誰に従うことなく自分の意思で!」


 高笑いと共にヒサコから膨大な魔力が吹き出し、誰の目からも完全に覚醒したことが分かった。

 湖畔周辺を追っていた瘴気は魔力の本流に吹き飛ばされて消えてしまい、代わりに重荷を背負わされた感覚にヒーサとティースは襲われた。

 ジワジワくる息苦しさが、圧倒的な威圧感とそこから来る肉体的な締め付けを感じているのだ。

 急変しすぎる状況に戸惑う二人に対して、ヒサコは物は試しとばかりに、バッと手を払ってみると、すぐ側の湖が凄まじい轟音と共に、真っ二つになってしまった。

 衝撃波が湖面を走り、膨大な水飛沫や波を生じさせ、湖底を肉眼で確認できたほどだ。


「でたらめな強さですね」


「まったくだ。理不尽極まる」


 その威力を目撃するや、魔王にとっての兄と姉はそう宣うよりなかった。

 なにしろ、今までかかっていた制限が消え去った。

 ヒサコは幻であり、その思考もヒーサこと松永久秀の模倣に過ぎない。

 だが、魔王としての意識に目覚める事と、ヒーサが不要であると捨てたスキル〈自律〉を用いて自我に目覚めた。

 不安定極まる実体無き魔王は、女神テアを捕縛し、それを魔力源とすることで体を維持してきたのだ。

 しかし、その不安定な状態も、血を分けた息子であるマチャシュを吸収することにより、確たる存在として受肉を果たした。

 体の維持に使っていた多くの魔力を、今や自在に使えるようになった。

 隠しようもない漏れ出た魔力や威圧感が、それを如実に物語っていた。


「もはや世界を破壊するに足りる力を得た! ああ、これですべてが終わる! 無へと帰する!」


 ヒサコの高笑いは止まらない。

 人類の絶対悪という器に魔王を宿し、さらに神の力をも飲み込んだ強大極まるの存在へと、ヒサコはついに“成った”のだ。

 操り人形に過ぎなかった自分が、ついに最強の存在となった。

 蔑まれ、利用され、苦渋を味わうしかなかったこの世界で、今や自分こそが最強へと変じた。

 何もかもが思うがまま。誰も止められない存在へと覚醒した。


「さあさあ、お兄様、もう止まりませんよ! もうあたしは止まりません! 最後の時を迎えましょう!」


 ヒサコには似つかわしくない、実にハイテンションな姿を見せていた。

 酔っている、と評すべき状態であるのか、高笑いが湖畔に響き渡った。

 その姿からは、息子を犠牲にしたと言う事への後悔も罪の意識も、その一切を感じることはできなかった。

 生母ティース義母ヒサコの差があるとすれば、母としての“痛み”であり、それが“人間”と“魔王”の差でもあった。

 生みの苦しみ、罪の意識、そこが両者の決定的な差なのだ。


「ガキね、ヒサコ。あれかしら、マチャシュを吸収したから、二人の年齢を足して二で割って、九歳児にでもなったかしら? それだったら納得」


「あら、言いますわね、お姉様。すぐにでも減らず口を叩けない体にして差し上げましょうか?」


 ヒサコも本気だ。

 手振り一つで湖を吹っ飛ばせる今の自分なら、非武装の女一人、肉塊にするくらい造作もない。

 それとも、死なない程度に全身の関節と言う関節を外して、芋虫のように転がそうか。

 あれこれティースにしてやろうかと言うことが思い浮かび、ニヤリと笑いながら一歩進み出た。

 途端、ヒーサが両者の間に割って入った。


「お兄様、どいていただけますか? 少し痛い目をみていただきたいので」


「却下だ。今のお前では、間違いなくやり過ぎる」


「死んだら死んだときですわよ。どうせ遅かれ早かれ、世界と共になくなってしまいますから」


「では、私諸共殺してみるかね? 攻撃を“わざと”食らうくらいはできるぞ、今の私にも」


 ヒーサの脅しになっているのかどうか微妙な言葉に、ヒサコは僅かに躊躇いを覚えた。

 神と魔王の力を併せ持つ最強の存在になったが、それでもなおできないことがある。

 それは世界の“規定ルール”の書き換えだ。

 その手を加えられないものの中で、現段階で一番厄介なのは、“英雄、ないし魔王が倒れると、世界はその時点で停止する”というものだ。

 あくまで異世界『カメリア』は神々の遊戯盤であり、見習いの神の実力を計る場所であり、試験会場であるのだ。

 そのため、今やられると困るのは“ヒーサの自害や自棄”であった。

 それをやられるとやり直しリセットされてしまう。


(それはダメ。世界はやり直しリセットを求めていない。求めるものは消去デリートだ)


 それが今一つヒサコの積極性を奪っていた。

 うっかりヒーサを殺してしまっては取り返しが付かなくなる。

 この世界は再び神の玩具として使役されるだけの、修羅のちまたがやって来るのだ。

 今こうして見習いとはいえテアを捕らえ、延々と続く戦いの日々とその古傷も、消去と言う名の無への回帰で成す事が出来る。

 ここまで条件を整えながら、ヒーサの死で全部が台無しになってしまうのは避けねばならなかった。


(一瞬で決めなくてはならない。でも、問題がある。お兄様の実力を“知らない”と言う事よ)


 実はヒサコはヒーサが“本気”で戦っている場面を知らないのだ。

 本体と分身体は意識が共有されているため、人形の時であったときの情報も、記憶の残滓として今も頭の中にある。

 だが問題は、ヒーサが今の今まで“全力”で戦った場面がないのだ。


(そう、お兄様……、松永久秀は“頭”を使って戦う事が多い。罠を用意し、あるいは相手に嘘を吹き込み、自分に有利な状況を作り出す事にかけては天才。これは疑う余地なくその通り。でも、自分の力だけで全力を出して戦った事がない。それだけに、情報が欠落している)


 どの戦いにおいても、それこそ一番の激戦であった皇帝ヨシテルとの戦いにおいても、松永久秀は指揮官や策士としての立ち位置を崩すことは無かった。

 一応、戦闘には参加していたが、“戦士”として全力を出す事はなかった。あくまで、牽制要員や策士として戦っていた。


(だからこそ分からない。お兄様の実力がどの程度なのか。もちろん、戦えば余裕で勝てる。でも、勝つ事が目的ではない。あくまで、あたしが世界を破壊するその瞬間まで生きている事、これが絶対条件)


 ヒーサはヒサコを殺せるのに、ヒサコにはヒーサを殺す事が出来ない。

 実力的には余裕で殺せるのに、時期が来るまでは絶対に手が出せないのだ。

 それが分かっているからこそ、ティースを庇うような姿勢を取り、平然と挑発してきた。

 松永久秀と言う男を知っていれば、これは有り得ないと分かる。人を盾にする事はあっても、その逆はない事を。

 まして、食らえば一発で人生終了の一撃を放つ魔王相手である。

 防御も回避も不可能な状況で、挑発してくること自体が異常なのだ

 

(いったいこの状況で、お兄様の手札に何が残っているというの? テアを奪われた以上、もうスキルはほとんど使えない。すぐに魔力が枯渇するから、数回使えればいい方。かと言って、それを補える武器や道具の類も見えない)


 ここへ来て、読めない相手の状況に、ヒサコは困惑していた。

 本当に神妙にしてくれて、このまま世界の最後を迎えてくれるというのであれば問題はない。

 だが、ヒサコにはヒーサの余裕の態度が何か引っかかっていた。


(何? この状況で何を隠せる? 実力差は歴然としているのに、ひっくり返す何かを持っているの?)


 予想が付かない。情報がない。それだけで十分に不気味であった。

 ヒーサからすれば、殺したいが殺せる術がない。

 ヒサコからすれば、殺せるが殺せない理由がある。

 互いに動き辛い状況が形成され、膠着が続いた。



           ~ 第二十九話に続く ~

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