第二十七話 魔王そっちのけ! 喧嘩と銘打つ夫婦漫才!
ヒーサとティースの互いの視線がぶつかり合っていた。
夫婦の間の艶のあるものではなく、怒りと悲しみの入り混じる視線をティースが放ち、それをヒーサが無表情で受け取っているのだ。
しかも、ティースの右手は握り拳でヒーサの顔面に向けられ、ヒーサはそれを手で受け止めていた。
ティースは必死で押し込もうとするも、ヒーサの手は微動だにしない。
この夫婦喧嘩を見守るのは、妹のヒサコのみ。あとはその腕の中で眠る赤ん坊だけだ。
「ヒーサ、あなたには罪の意識も、後悔も、何もないのですか!?」
「ないな。過去に捉われ過ぎては、今を生きるのには重過ぎる」
「切り捨てられた者の事を考えた事もないと!?」
「それもない。生きるか死ぬかの瀬戸際にあっては、そんな事など一々考える事もないし、必要性も認められん。全くの無駄だ。無念であるというのであれば、切り捨てる側に回れるほど強くなれとしか言えんわ」
「……あなたと言う人は!」
ティースはさらに力を込めて握り拳を押し込もうとするが、やはりビクともしない。
そんな必死の形相を見せるティースに、ヒーサはただニヤつくだけであった。
「だがな、ティースよ、お前にはその件で私を糾弾する資格はないぞ。赤ん坊を捨てた母親は、どこの誰であったかな?」
これを言われると、ティースは何も言い返せなくなった。
夫の口車に乗り、生まれたばかりの我が子を捨てたのは他でもない、自分自身なのだからだ。
そう改めて頭が認識させられると、途端に力が抜けた。腕に力が入らなくなり、握り拳もだらりと地面に向かって垂れた。
顔は俯き、様々な感情が全身を震わせ、下を向く目からは涙が止めどなく溢れてきた。
外道を成そうとも、必ず家を再興させると誓いながら、結局果たせずに終わろうとしている。
これでどうして父兄や従者に顔を合わせる事が出来るだろうか。
悔しくて、情けなくて、感情が今になって漏れ出てきた。
何も考えず、戦えている時は良かった。
ただ真っすぐ進めている時は良かった。
だが、世界の理は、不快であり、なにより非情だ。
何もかもままならず、欲するものはスルリと横を通り過ぎていく。
今や残っているものは抜け殻にも等しい自分自身と、そんな自分を“なぜか”優しく抱き締めてくれる夫だけだ。
ヒーサは左手をティースの腰に回してしっかりと抱き締め、右手を頭を優しく撫でた。
汗と泥に汚れた茶色の髪を指で梳き、そして、もう一度頭に手を当てた。
「……なんで優しくするんですか?」
「妻を愛でるのに、一々理由が必要か? まあ、強いて言えば、可愛いし、愉快だし、私にとって必要な存在だからかな」
いつものように含みのある言葉だ。
そう、本当にいつも通りなのだ。
もうすぐ世界が終ろうとしているのに、目の前の男は何一つ変わっていない。
頼もしくもあり、腹立たしくもある、骨の髄までろくでなしの男だとこれでもかと言うほどに再認識させられたティースであった。
目を閉じて、ティース自身もしっかりとヒーサに抱き付いた。
なお、少し離れた所にいるヒサコから、「一発“致す”のでしたら、今少し猶予を差し上げますよ?」という“茶化し”は完全無視であった。
「さあ、ティース、顔を上げて素敵な笑顔を見せてくれないか? 世界の最後を迎えるのには、せめて艶やかな華と共にありたいのだ」
歯の浮く台詞が夫の囁きとして、耳に突き刺さった。
くすぐったい。ほんとこいつ、何言ってんだと、思ってしまう程に“甘い言葉”と“実像”の差異が酷すぎると感じた。
とは言え、荒み切ったティースの心には、そんな言葉にも清涼感を感じてしまうのであった。
促されるままに顔を上げ、その見つめる先に待ち構えていたのは、“でこぴん”だった。
「この愚か者め」
一切の抑揚感のない淡々とした台詞と共に、ヒーサの右手中指が勢いよく弾かれ、ティースの額にいい音を響かせながら命中した。
完全な不意討ちであった。
「ふほぉぉぉぉぉ!」
あまりにも予想外過ぎる一撃にティースは両手で額を押さえ、膝をついて蹲った。
てっきり“接吻”でもするのかと思ったら、まさかの“でこぴん”である。
つくづく人の予想を裏切る事に長けた男であり、蹲る妻の姿を見ながらニヤついていた。
「まったく、どうしようもない奴だな。お前が素早く引いていれば、ここまでこじれなかったのだぞ。無理を押して突っ込み、挙げ句に返り討ちにあって虜となるとは、今少し広い視野を持て」
妻と言えども容赦のない言葉であった。
努力点など一切認めない、結果だけが全てであると言い切り、きっちりとダメ出しまでしておく念の入れ様だ。
ティースは立ち上がり、襟首を掴んでヒーサを前後に揺さぶった。
「なんなんですか、今のは!?」
「デコピンと言うやつだが、それが何か?」
「ふざけないでください! 指一本で醸成した雰囲気をぶち壊しておいて、よくまあ平然と!」
「私は常に大真面目だが?」
「どこがですか!? 今の場面、真面目に考えたら、ええっと、こう、優しく抱き締めた後にですね、せせせせせ接吻の一つくらいは……」
「は? 何それ? と言うか、“ちゅ~”して欲しかったとか、なんとまあ破廉恥な。妹が物凄い形相で見ている中で接吻とか無理だろ。口ではギャ~ギャ~言いながら、相も変わらずムッツリだな、お前は。常識がなさすぎる」
「ヒーサに常識がどうとか言われたくありませんね」
「私は慈悲深く理知的な常識人で通っているが?」
「表向きはね! 一皮剝けば、とんだ俗物な非常識人じゃないですか!」
「私の事を指して非常識人となじるのであれば、ティースよ、お前はスケベエな色情狂とでもしておこうか」
「誰が色情狂ですか!? ヒーサが“あけすけ”に過ぎるのです!」
「ふむ、スケベエである点は否定しないか。その潔さはよし」
「揚げ足取るな! 私は至って普通です!」
「つまり、普通のスケベエである、と」
「殴り飛ばしますよ!?」
「すでに先程、こちらに拳を放ってきたはずだが?」
急に始まった夫婦漫才に、ヒサコは完全に置いてきぼりにされた。
ヒーサの裏事情をティースに知られるまでは、割とよく見られた光景であった。
ヒーサがティースをからかい、顔を真っ赤にして突っ掛かり、アスプリクがこれみよがしに横槍を入れ、たまにテアが巻き添えを食らって、なんやかんやでナルやマークが止めに入る。
ほんの一年ほど前までは見る事の出来た、ごくごくありふれた日常がそこにあった。
それだけに、その光景を見せ付けられたヒサコはこの上ない苛立ちを覚えた。
なぜなら、その光景の一幕に、自分が含まれたことなどないからだ。
いつも笑っているのは光であり、闇は裏で暗躍する。
名声はヒーサに、悪名はヒサコに、このやり方を通してきた。
心無い人形であったときは良かった。何も感じず、操られる糸のままに動けばよかった。
だが、今は自律している。自分で考え、そして動き、一己の生命体となった。
虚しい限りだ。どれだけ手を伸ばそうとも、闇に生きる事を宿命づけられた自分にとって、その眩い光景の中に入ることができない。
僅かに入れたとしても、それは兄が席を外している際に、席を温めておくための賑やかしに過ぎない。
そこに居座る事は許されない罪深き存在にして、いずれ消される身代わりの人形だ。
(でも、もう終わる。何もかもが終わる。さあ息子よ、一つとなる時が来た。受肉を果たせば、何もかもが終わる。未来がなくば、もうこれから先は、怒りも哀しみも虚しさも、一切合財が生まれてくる事は無い)
なおも不毛な口論を続ける二人を後目に、ヒサコは今一度、抱えているマチャシュを強く抱き締めた。
魔王の完全覚醒に必要な受肉の大元に、闇からの触手が伸びてきた。背中から、あるいは袖口から、ニョキニョキと黒い煙のようなものが吹き出し、マチャシュを掴んで飲み込んでしまった。
そして、ヒサコは“母が息子を食べる”と言う新たなる罪を重ねることとなった。
~ 第二十八話に続く ~
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