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第六十三話  禁欲!? 戦の前に女を抱いてはならない!

 見張りマークがいなくなり、今度こそ二人きりになったヒーサとアスプリクであったが、静寂はそのまま続いた。

 正直なところを言えば、アスプリクはヒーサに抱き締めて欲しかった。

 ずっと我慢を重ね、ようやく肌を重ねれたと思ったら、それは真っ赤の偽者で、散々な目にあった。

 カシンにそう言ったように、ヒーサに抱かれてすべてを忘れ、上書きしてもらわねば癒せるものも癒せないのだ。

 しかし、ここでガッついてはしたないと思われるのも気が引けたので、今一度の我慢のしどころだと、逸る気持ちを抑え込んだ。

 そんな健気な少女の想いを察してか、ヒーサはまたその頭を撫でてあげた。そのまま撫で下ろして頬に優しく添えた。

 脳に直接伝わるような温かみが手から伝わり、自然とその手に自分の手も添えていた。


「ヒーサの手、温かい」


「心の中身はヒエッヒエだがな」


「そうは思わないけどね。僕には優しいし」


「計算の上でな」


「またそんな、身も蓋もない事を言う」


 他愛ない会話ではあるが、それがアスプリクには何よりも嬉しかった。

 誰も自分を見ようとせず、ただ利用することだけを考えていた以前に比べて、ヒーサの打算に満ちた優しささえ温かく感じてしまうのだ。


「マークの件は、かなり綱渡りだった。お前と違って、惚れさせる事はできんからな」


「それって関係あるの?」


「大いにな。単純な話だ。誰かに恋してドキドキしている奴が、魔王に墜ちる程の闇を溜め込むと思うか?」


「あ〜、なるほど。そういう発想もできるのね」


 アスプリクにとってヒーサの言は、まさに自分自身に当てはめることができた。

 今自分はヒーサに惚れている。打算の上での好意であっても、それすら愛おしく感じるほどにのめり込んでいた。

 もし、マークが女子であれば、似たような手段に訴える事ができるが、残念な事にマークは男子である。

 衆道にかこつけて“たらしこむ”つもりは、さすがになかったのだ。


「代わりにと言ってはなんだが、若い男児の刺激となるよう、春画本を“さり気なく”見せておいたのだがな」


「え、あれも計算ずくなの!?」


「良い刺激となって、色と言う名の煩悩に目覚めたであろうよ」


 ニヤニヤ笑うヒーサには、さすがのアスプリクもドン引きした。

 春画エロ本を使って魔王降臨を阻止するなど、どう評価してよいやら分からなくなったのだ。


「これもまあ、大人の義務と言うやつよ。若者に知識と経験を積ませ、研鑽を促すのは年配者の務めだ」


「いやいやいや。どう考えても、若い子に悪い遊びを教えているようにしか見えないけど!?」


「それもまた義務よ。ちょい悪親父の、ささやかな悪戯みたいなものだ」


 なお、そう言うヒーサもまだ十八歳である。見た目では間違いなく若者の部類に入るのだが、そこは中身が七十のジジイである。

 “悪い遊び”を若人に伝授するのが、これまた楽しくて仕方がないのだ。


「ヒーサ、それってちょい悪で済むの!?」


「春画本で興味を持たせつつ、アスプリクとは違う意味での、胸の高鳴りを覚えるだろうて。かくして、色恋に目覚め、色欲により魔王の因子を潰す。面白かろう? ククク……、マークが興味に駆られて尋ねて来れば、奥義も伝授してやるつもりだぞ」


「奥義って……」


「色々あるのだ。ああ、そうだ。これを機に、あの書物を“魔王復活を阻止した本”として、聖典の列に加えよう。皆もきっと喜ぶぞ」


 春画本を経典として正式採用することが決定され、風紀の乱れが進むことが定まってしまった。

 その未来が見えるだけに、アスプリクも開いた口が塞がらなくなった。


「一部が喜ぶかもしれないけど、教団が崩壊するんじゃないかな? 邪教の教えだとかで断罪されかねない!」


「まあ、何と言おうが、布教はするぞ。私の著書を皆に配布してやるのだ」


「改革どころか、変質までしかねないな~。教団最大の危機かも」


「世の中な、面白ければよいのだよ。笑いを誘うは、数奇者としては本望よ」


 ヒーサは誰はばかることなく大口を開けて笑い出した。

 普段はなかなか見せない心の底からの笑いであり、その姿はアスプリクを唖然とさせた。

 同時に、この上なく魅力的に感じている自分がいることに、アスプリクは気付いた。

 あれほど冷徹で悪辣な策を繰り出す智謀の士でありながら、その実、誰よりも笑いを欲する好々爺でもあるのだ。

 無論、見た目は二十歳にも満たない若者だが、中身は乱世を生き抜いた老人である。

 その老人が行き付いた先は、一笑の世界。

 笑い、喜ぶことこそ至上であるとの心意気を得た。

 前世で叶わぬ夢を、今世では叶える。どれほど嫌らしい策を用いようとも、自らが進みたい道を進み、邪魔者は排除する。

 それが魔王であれ、神であれ、例外はない。そう言わんばかりの笑いだ。

 そして、アスプリクはその笑いの輪の中に、自分が含まれていると感じ、自然と笑みがこぼれていた。


(ああ、そうか。これが、これがヒーサの作りたい“世界”なんだ。僕もそれに加われる。こんなに嬉しい事はないよ! 君に付いて来て良かったと、心の底から思う!)


 自分は魔王で、世界を破壊する。

 だが、それは定めではない。笑って流し、覆すことができると、目の前の男は態度でも行動でも示してくれていた。

 これに勝る勇気を与える激励は存在しなかった。


(そうだ。僕は僕だ! 魔王になんかになったりしない!)


 決意を新たにするアスプリクであったが、どこまでも常道を外す男がすぐ横にいた。

 気合を込めて握り拳を作っていた少女は不意に腕を引かれ、寝台の上に組み敷かれた。

 一瞬、何が起こったのか分からなかったアスプリクだが、自分の体が横になり、それに覆いかぶさるようにヒーサが顔を覗かせているのを認識し、そこで悟った。

 長々と話していてすっかり忘れていたが、そもそも男の寝所に女が招き入れられたのである。

 “やる事”と言ったら、一つしかない。

 胸の高鳴りを、今度ばかりは抑えなくてもいいと歓喜に打ち震えながら、アスプリクは瞳を閉じて、ヒーサの口付けか、あるいは抱擁を待った。

 だが、それはなかった。

 ヒーサは立ち上がると、横になったアスプリクに毛布を掛け、そのまま地べたに横になってしまった。


「……あれ?」


 まさかの放置。これにはアスプリクも困惑し、体を半回転させ、寝台の上から地面に横たわるヒーサを見下ろした。


「あの~、ヒーサ? こういう場合ってさ、優しく抱き締めて、熱い口付けを交わして、勢いのままに床入りって流れじゃないの!?」


「普段ならな。だが、今夜の相伴役は“こいつ”なのだよ」


 ヒーサに抱かれているもの、それは“剣”であった。自身の佩剣であり、ヒサコに渡してある炎の剣《松明丸ティソーナ》を除けば、最も愛用している得物であった。


「戦を前にして、己が欲望を揺蕩たゆた白汐しらじおを女子相手に解き放てば、気が萎えてしまう。ゆえに、戦の前の夜伽相手は、己の得物と相場が決まっている」


 夜伽の相手は、可憐な乙女に非ず。一本の刀剣だと、きっぱりと言い切った。

 据え膳食わぬは“男”の恥なれど、女に現を抜かすは“武人”の恥である。

 今この状況でどちらを優先するかは、言うまでもないことであった。

 それはアスプリクの理解するところではあったが、高ぶる感情は行き場を失い、不完全燃焼となった。

 理解と納得は別物であり、不貞腐れて頬を膨らませるほどだ。

 その膨らんだ頬に、ヒーサはそっと人差し指を差し込み、プフゥ~っと空気を吐き出させた。


「それとな。なにより重要なのは、“体調”だな。先程、マークに渡した本にも書いておいたのだが、行為に及んではならぬ戒めがある。私はこれを『五傷の法』と呼んでいる」


「『五傷の法』って何?」


「ん~、平たく言うとだな……」



                  ***



 『五傷の法』


一、 女性の気分が盛り上がっていないのに、無理にやってはいけない。肺を痛める原因となる。


二、 女性がしたいときにしないで、やる気をなくした頃にするのもよくない。 無理にやろうとすると、女性が婦人病の一種になってしまう。


三、 齢を重ねて性器が機能しないのに無理に若い女性とまぐわって精を出すと、必ず目を悪くし、最後は失明してまう。


四、 月の時の女性とまぐわうと、男女双方とも腎臓を悪くする。


五、 酔っているときに無理して精を出すと、顔色が黄色になる。



                  ***



「これが『五傷の法』だ。以上の五項目を戒めとし、決して行為に及んではならんとしている。さらに、これに加えて、先程も言ったが“体調”の理を忘れてはならん。これを『五調の禁』と呼ぶ」



                  ***


 『五調の禁』


一、 憂鬱な気分や落ち込んでいるようなとき。


二、 怒りで逆上しているとき。


三、 疲労困憊でへばっているとき。


四、 食べすぎや飲みすぎで内臓の調子が悪いとき。


五、 病み上がり。



                  ***



「これを『五調の禁』とする。行為に及ぶ際は、この『五傷の法』と『五調の禁』を念頭に入れ、やってもいいのかどうかを判断する」


「な、なるほど」


「それで、アスプリクよ、お前、相当疲れがたまっているな? ゆえに、『五調の禁』の第三項に反している」


 そう言って、ヒーサはアスプリクの頬を摩った。少しくすぐったかったのと、図星を刺されて、アスプリクは身じろいだ。


「だ、大丈夫! 平気だから!」


「だが先程、引っ張り倒したとき、明らかに反応が鈍かった。不意を突いたとはいえ、抵抗するでもなく、あるいは受け身を取るでもなく、流されるままに倒れ込んだ。無意識下にこそ、体調と言うものは本音を吐き出すのだ。私は医者でもあるのだぞ? 誤魔化しは利かん」


「う~」


 ヒーサは公爵であると同時に、名の通った天下の名医でもある。その名医が養生しろと、きっぱり言い放ったのだ。

 とてもではないが、反論の余地はない。

 宰相邸での事件以降、ひたすら逃亡を繰り返し、負傷したアスティコスを抱えて、ようやくこうして安心して寝られる場所まで来れたのだ。

 張り詰めていた緊張が解れ、今まで溜めに溜めていた疲労が吹き出してもおかしくはなかった。

 それをまんまと見抜かれたのだ。

 不満はあった。優しく抱擁して、そのまま思うがままに貪って欲しかった。カシンに汚された体を、記憶を、上書きして欲しかった。

 しかし、ヒーサはそれを拒んだ。

 戦を前に気の高ぶりが萎えることを嫌い、また疲れの溜まった娘を抱くことをよしとしなかった。

 戦に勝つと言う当主としての義務感と、医者としての優しさが、敢えての拒絶を選択した。

 情に流されるのであれば、抱いて、貪って、果てたことだろう。

 事実、そうなりたかった。

 だが、拒絶された。

 嬉しくもあり、悲しくもある現実だ。

 それでも泣き喚かなかったのは、もうアスプリクはわがまま放題の少女なのではなく、分別のある淑女となっていたからだ。

 容姿で言えばまだまだ子供なのだが、無理やわがままを通して相手を困らせては、却って見捨てられることを恐れたからだ。


「でも、ヒーサ、これだけは約束して」


「何をだ?」


「この戦いが終わったら、ちゃんと僕を一人の女性として扱って、抱いてくれることを、ね」


 愛妾として、ヒーサの側にいる。今のアスプリクはそれこそが最も欲しい居場所であった。

 ティースからの許可も出ているし、もう誰はばかることなく、その位置に立つことができる。

 あとはもう、ヒーサの気持ち次第なのだ。

 そして、その当人は期待と不安で少し震えるアスプリクの手を握った。


「約すまでもなく、今でも淑女として扱っているぞ」


「ヘヘッ、そうなんだ。なら、今日はもう寝る。おやすみ!」


 アスプリクは握ったヒーサの手を少し乱暴に振り、パッと放して毛布に包まった。

 不満が残る二人で過ごす最初の夜だが、そうも言ってられないのが今の状況だ。

 なにしろ、これからわざと捕吏の手にかかり、審問の場に引き出され、この不利な状況をひっくり返さねばならないのだ。

 逆転を狙い、愛して止まない寝台の下で寝転がる男は、全力で頭を動かしているのである。

 その中身は神の計算すら狂わせる、恐ろしい策謀が詰め込まれているのだ。

 邪魔をしては、後々にまで恨まれてしまう。そんな恐ろしい事は御免であった。

 今は疲労の回復に努めよう。術士としての自分をきっと必要としてくれる。そう思いながら、ドッと噴き出てきた疲労に襲われながら、アスプリクは眠りについた。

 その静かな寝息を聞き、ヒーサもまた安堵して休むことができた。



           ~ 第六十四話に続く ~

松永久秀が著したSEXのハウツー本については、詳細が分かっていませんが、一部残っています。


作中の『五傷の法』がそれです。


基本的には、久秀のエロ関連の師匠である天下の名医・曲直瀬道三まなせどうさんが著した『黄素妙論こうそみょうろん』が大元になっているそうです。


と言うか、国持大名クラスの大勢力になっていた時もある松永久秀が、エロ同人を書いて家中で配布していたというのが面白い。


こういうところが、ただの極悪な梟雄だけでなく、稀有な文化人的素養の深さを伺うことができ、久秀の魅力を挙げているような気がします。


( ̄▽ ̄)




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ヾ(*´∀`*)ノ

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