第九話 厳命! 必ず生きて帰るように!
自分以外誰もいない地下牢にて、ナルは悶々と考え事をしていた。目の前には自分が殺した哀れな囚人の死体が山と積まれており、それらを眺めつつ、思考を進めていた。
ヒサコへの暗殺は元より、ヒーサをいかに出し抜くか、あるいはティースやマークのことなど、考えなくてはならないことはいくらでもある。
死体を見つめながらの思考はいささか物騒なものであったが、暗殺者であるナルには気にもならない。
むしろ、ひんやりとした地下牢の空気は、頭を冴えさせる感じさえあった。
ヒーサが立ち去ってしばらくはそのような感じで考え事を続けていたが、不意に何者かが自分に近づいてくる気配を察知した。
足音の数からそれは二人であるとすぐに気付いた。
薄暗い廊下の先からやって来たのは、ティースとマークであった。
「ヒィッ!」
ナルが声をかけるより先に、ティースが悲鳴を上げた。
危うく身重の体が尻もちをつきそうになるが、そこはマークが上手く支えて事なきを得た。
ティースが悲鳴を上げた原因、それはうずたかく積まれた死体の山だ。
なにしろ、毒の実験のために殺し続けて、実に三十人分の死体が目の前にあるのだ。薄暗い地下牢を進んで、いきなりそんなものが目に飛び込んできたら、悲鳴の一つでも上げたくなるであろう。
ティースも普段は気丈に振る舞い、武芸の鍛練も積んではいるが、根の部分は伯爵家のお嬢様なのだ。
死臭漂う戦場や地下牢など、本来ならば似つかわしくないのだ。
(だからこそ、際立つ! あの兄妹の異常さが!)
ヒーサにしろ、ヒサコにしろ、血生臭いやり取りが実に手慣れていた。とてもティースと同い年とは思えぬほどに、荒事の現場に馴染み過ぎているのだ。
人を人とも思わぬ悪辣な策謀、初陣とは思えぬ戦場での差配、どれもこれも異常であった。
先程にしても、この死体の山を前にして、眉一つ動かさずに平然と会話し、おまけに笑ってすらいた。
貴族のお坊ちゃんがそんな現場に慣れているのはおかしいし、あるいは自分やマークのように訓練を施されているのかもしれないかとも思ったが、そうなると公爵家の教育方針はどうなのかと考えてしまう。
医者でもあるから外科手術等で血には慣れているのかもしれないが、それにしてもその異常性は拭いきれるものではなかった。
とはいえ、今は主人の気を落ち着かせるのが先だと、ナルはティースに歩み寄り、その手を握った。
「ティース様、このような場所に参られては危ないですよ。お体に障ります」
身重の体には、地下牢の、まして死体の山の前など、精神衛生上によろしくはない。一刻も早く連れ出さねばならなかった。
だが、従者の心配をよそに、ティースは不意に涙を流してナルに抱き付いてきた。
「ナル……、ごめんなさい」
漏れ出た言葉は、従者への謝罪であった。
目の前にある死体の山は誰がやったのか、それは考えるまでもないことだ。
ヒサコの暗殺をより確実にするため、新型の毒物の扱いを熟達させるため、ナルが進んでやったことであった。
口ではヒサコへの殺意に満ちていたが、それでも育ちのいいお嬢様であることには変わらない。死体の山を見て、自らの軽率な発言を今更に悔いたのだ。
父や兄の仇を討つ。その気持ちには変わりないが、そのために自分の最も信頼する家臣を、血飛沫の中に放り込むことを意味するのだと、気付いてしまったのだ。
復讐はしたい。だが、それは本来、自分が成すべきことであって、臣下に肩代わりさせてもよいものだろうかと、尻込みさせるほどの衝撃が目の前の死体の山にはあった。
そんな震えながら泣く主人に対し、ナルはそっとその体を抱き締めた。
「御心配には及びません。ちょっと出かけて、すぐに戻ってきますので、ティース様は屋敷にて吉報をお待ちいただくだけで結構です」
主人を心配させまいと、ナルとしても必死に絞り出した台詞であったが、不安は尽きないものだ。
ヒーサに言われた通り、成功するかは五分五分だと考えていたからだ。
(毒は盛れる自信はある。あとは、バレずに済むかどうか、そこが問題なのよね)
そう言う意味において、今の状況を作り出した『シガラ公爵毒殺事件』における、ヒサコの偽装工作は俊逸であった。
毒キノコの特性を熟知し、ハメる人々の性格や体質を事細かに精査し、まんまと兄すら巻き込んで暗殺を誰にもバレることなく完遂させた。
うっかり出してしまった“箸の使い方”をティースが見るまで、誰もヒサコが毒キノコを仕込んだ下手人であったと、疑惑はあっても証拠を掴ませるようなことはなかったからだ。
(あとでヒーサが隠蔽工作に加担したとはいえ、あれほどの手際は私の経験上はない。とても年下の少女が計画したものとは思えぬほどの、よくできたの計略だわ。あれを超えるくらいの、完璧な偽装工作をこなさないことには、こちらの未来が無い)
そのための一環として、目の前に死体の山が出来上がるほどに何度も何度も実験し、状況再現を図って来た。
ようやく納得のいけるやり方を習得したので、いよいよ実行の段となったのだが、やはり長期間主人の下を離れるのは気が気ではなかった。
結局、楽なのはヒーサに首を垂れ、主人共々完全に屈服してしまうことなのだから。
(だが、それでは存在しているだけで、人として生きているとは言えない! 私はそんな状況に、ティース様を追い込みたくはない)
何も言わず、何も聞かず、ただただ人形のように過ごす。復讐のことなど考えず、目の前で何が起ころうとも気にもかけない。
人としてではなく、公爵の付属品としての一生を過ごす。あるいはそれが一番悩みもなく、楽な生き方なのかもしれないと今では考えていた。
それがお恐らくは正解なのであろうが、人としては死んでいるに等しい。
(でも、ティース様はそれに気付いていながらも、敢えて復讐を選ばれた。人としての尊厳と、伯爵としての名誉を取り戻すために。ならば、私は命を懸けてでも、主人の期待に応えなくてはならない!)
それは茨の道であることは言うまでもない。
誰かに従って生きる方が、圧倒的に楽な生き方なのだから。
ヒーサは外道ではあるが、同時に計算高い。ゆえに、報復されることを考えると、ティースを殺すと言う手段はとれないはずだ。
少なくとも、主人に侍る二人の従者をどうにかできるようになるまでは。
そこだけが今のところの命綱であり、それを使って奈落の底に向かうのが、今の自分であると考えていた。
そして、命綱のもう片方を握るのは、義弟のマークだ。
重さに耐えかねて手を放すか、あるいは一緒に落ちるか、それは分からない。
まだまだ未熟な十二歳の少年に後事を託すのは気が引けるが、自分がティースから離れて行動する以上、それに期待するよりない。
本当に博打要素が強すぎる。文句なしにこれまでにない最難関の仕事だが、避けて通るつもりも更々ないナルであった。
(そう、だからこそ失敗は許されない。私とマークがティース様を支える両翼であるならば、今回の一件で片翼がもがれる危険性がある。しかし……)
しかしとナルは思う。
この困難な状況を打破するためには、どうしても危ない橋を超えなくてはならない。
ゆえに、以前ヒーサに言われた台詞が突き刺さる。
「時に主人の願いであろうとも、暴走したらばそれを諌めるのが臣下の務めであるとも心得よ」
この言葉が出てきた以上、ヒーサはこうなることを、少なくともあの時点で予想していたことになる。
もう何ヶ月も前の話であり、あの時から備えられていたとなると、こちらの底の浅い作戦では利用されて終わる可能性が高い。
ナル自身、ティースにはこのままヒーサの妻として穏やかに過ごしてほしいと思わなくもないが、先代伯爵の仇討ちという面が大きい。
伯爵家に仕える密偵として、主人をむざむざ死なせてしまったことへの負い目もある。
ティースが復讐を望むのであれば、そうしなければならない。ナルの頭の中には、そうした強迫観念が存在した。
しかし、命じたティースが今、それを後悔しているのだ。
自分の部下が自分の命で危地に飛び込み、復讐を自分に代わって成そうとしている。死体の山はその決意の表れだ。
だからこそ、目に見える形の決意とやらを見せられて、ティースは怯えているのだ。
この死体の山の中に、ナル自身が加わりはしないかと。
「ナル、失敗してもいい。危険だと思ったら、諦めてもいい。どうか、どうか無事に戻って来て」
涙を流しながら懇願するティースであったが、ナルにはそれが辛過ぎた。
そもそも、ティースが過酷な運命に翻弄されるのは、すべて公爵家の兄妹に関わってしまったことだ。
二人の出自や現状には色々と疑問符が出てくるが、なぜあの桁外れの野心と智謀が湧き出てくるのか、それが分からない。
元々そうであったのか、状況がそうさせたのか、まだ確信が持てていない。
唯一の核心は、あの二人が全ての元凶である、という一点のみだ。
「ティース様、心配には及びません。必ずや事を成して帰還しますので、安んじてお待ちください。御子が生まれるまでには戻りますので、産婆は私にお命じください」
「ええ、分かったわ。あなたには子供の傅役をお願いするから、そのつもりでね」
「はい、謹んでお受けいたします」
ティースは一歩下がって、改めて恭しく頭を下げた。
子育てなどやった事もないし、ましてや赤ん坊の世話など異次元の話だとナルは思っていた。なにしろ、後ろの死体の山がそうであるように、自分はあまりにも汚れ過ぎていた。
そんな物騒な暗殺者が、主君の子供の面倒など見てもいいのだろうか、と思うのであった。
だが、目の前の主人はそれを気にもかけずに、我が子を預けるとまで言ってくれた。
臣下としては、忠義を認められてこれ以上にない喜びがあった。
「だから、ティース、絶対に戻って来てね」
「はい。ですが、万一の事と言う場合もございます。その場合の事も申し付けておきます」
ナルの不吉な物言いに、ティースはピクリと肩を震わせた。
帰ってこない。もう二度と会えない。そんな言葉など聞きたくはなった。
だが、ナルは本気だ。どんな汚れ仕事であろうとも進んでやって来て、今もまた死体の山を築き、自らも死地に飛び込むことも厭わぬ覚悟で事を成そうとしている。
止めるべきなのだろうか、行かせない方が良いのか、そう考えないでもない。
だが、ここまでの覚悟を示した臣下に対して、その努力を無駄にするような真似だけはできなかった。
なにより、信じているからこそ、送り出せるのだ。
「……あなたの口から、吉報を聞きたいわ。だから本当に戻って来てね。でも、あなたの言葉だから、万一の事も聞いといてあげる」
「はい。もし、万一にも私が戻らない場合は、復讐のことなど忘れ、“伯爵”としてではなく、“公爵夫人”として過ごされるようお願い申し上げます」
つまるところ、ヒーサに完全に屈しろ。その軍門に下れ、そうナルは言い切った。
当然、ティースは眉を顰め、ナルを睨んだ。
「ナル、あの男を信用しろと?」
「信用はしなくていいです。ですが、今となっては頼れるのは、あの人の皮を被った外道だけなのです。どんな要求が来るかは分かりませんが、それを呑んでください。それがティース様の身の安全を図る上で、絶対に必要な事となるでしょう」
もし戻って来れないとすれば、もうティースの周りにはマークしかいなくなる。たった一人で警護をし続けるなど不可能なのだ。
それならば、全てを差し出し、軍門に下って従順にしている方がマシと言うものだ。
しかし、ティースの顔からは、それが嫌だと言いたげであるのは見て取れた。
もし、裏の事情さえ知らなければ、今もヒーサと仲睦まじく夫婦を“演じて”いられただろう。
だが、何もかもが偽りで、裏切られたと知った時、世界は崩れ去った。
もう幸せは望めない。残っているのは復讐を果たすことだけ。
それだと言うのに、復讐を忘れろと言うのだ。それがティースには我慢ならない。
「私は……、わがままなのかしら。復讐は果たしたい。でも、その力も知恵もない。だから、あなたに押し付けて、危険な目に合わせようとしている。止めたい。でも、止められない」
「そのわがままに応えるのも、私の務めでございますよ。小さい頃からずっと」
「そうね。ナルはずっと私のわがままに付き合ってくれたもの。情けない事に、今の私じゃ、何もできない。でも、ナルならどうにかしてくれそう。そう思えてくるの」
「はい。お任せください。ヒサコののたうつ様をしっかりと見届け、ご報告いたしますので、楽しみにお待ちください」
ナルはそこでティースとの話を切った。
ティース自身、気持ちが揺らいでいるのを感じたからだ。
下手に止められては、自分も行くのを躊躇う感情が芽生えてしまう。必勝を期するのであれば、下手な迷いなど枷にしかならない。
ただの機械となり、一切の感情を帯びることなく、計画通りに毒を盛り、ヒサコを殺す。ほんのそれだけの話だ。
ただ一振りの刃であり、あるいは一滴の毒液であればいい。暗殺者としては、それが正しいのだ。
後の厄介事など、終わってから考えればいい。
とにかく今は、アーソに出立して、ヒサコを待ち受け、これを始末することだけを考えなくてはならない。
ナルはこれまでとばかりにもう一度ティースに頭を下げ、次いでマークを見つめた。
まだ十二歳の少年であり、まだまだ未熟な部分もあるが、この義理の弟こそ、主人を守る最後の壁であり、出かけている間はそれに頼るしかない。
ナルはマークに歩み寄り、その肩に手を置いた。
「マーク、ティース様のこと、よろしくね。何かあった際には、命がけで守りなさい」
「必ずや!」
「よし、いい返事。それと、結構、身長、伸びたわね。来年くらいには抜かれるかしらね」
いつの間にやら、目線が同じになりつつある義弟に笑顔を向けた。
いつもは無表情で通し、滅多に見せる事のない笑顔だ。
喜びなど微塵も感じない物憂げな表情に、マークは締め付けられる息苦しさと、託された任務の重みを改めて感じた。
そして、そのまま無言のうちにナルは二人に背を向け、姿を消した。
必ず帰って来てくれと、二人はただ願わずにはいられなかった。
~ 第十話に続く ~
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