19.全ての獣の母
「おぉ~! まだ生きてるね~! ちょっちやりすぎちゃったかなって心配しちゃったよ~」
動けないで天を仰いでいる俺を、茶化す様にニタニタとした笑みを浮かべた魔王が覗き込んでいた。
「ふざけんなっ!」
俺はありったけの力で腕を振り上げ、猫の顔面にパンチをお見舞いするが。
「ウグッ!?」
激しい痛みと共に、俺の拳は空を切った。
おかしい。この距離で外す訳はないんだが……。
不審に思った俺は振り抜いた拳に視線を向ける、が。
「ぇ?」
そこにはある筈の拳が無かった。
あるのはただ二の腕の辺りから先が焼けこげ、生々しく千切れた腕だけだ。
幸いだったのは生きているのが不思議なくらいの重症の所為で、俺の全身の神経がとっくに麻痺しているのか、痛みがない事だ。
「は、ハハ……」
こりゃ、流石に詰みだな……。
左腕はどうか、足は無事か。そんな不安も頭に過ったが、流石にもう1ミリも体を動かせそうにない。
「あんたはよく頑張ったよ。だからさ~、あたしのとびっきりの力で生まれ変わらせてあげる」
魔王はそんな怪しげな事を言っているが、今の俺にはどうする事も出来ない。
ただ、動かない身体でその挙動を見守るだけだ。
「じゃ、これで今度こそおしまい」
そう言って魔王が左腕を振り上げ、寝そべったままの俺の胸にそれを打ち込む。――その瞬間、
「どわぁっ!?」
突然青白い光が目の前を通り過ぎたと思ったら、魔王はそれを避けて視界から消えた。
「魔王様。少々スキンシップが過剰ですよ……」
見れば未だに辛そうな顔をしたミウが魔導砲を構え、魔王に対峙していた。
どうやらまた俺は助けられたらしい。
しかし、今回ばかりはそれだけでは済まないだろう。
「おい、ミウ! …すぐに……逃げろ! こいつは……無理だ」
痛む喉から必死で言葉を絞り出すが、それを聞いてもミウは何も言わず首を横に振った。
「いいえ、お兄様。それは出来ません。逆の立場なら、お兄様は絶対に逃げませんよね?」
ミウは立っているのも限界だろう、ふらつく足で、顔から脂汗を流しながら、にこりと微笑んだ。
確かにミウはそこらの女の子よりは強いだろう。それでも普通の人間だ。魔王の暴力の様な魔力の中で平気な筈がない。
「んもう! 怪我したらどうすんのさ!」
相変わらず緊張感のない口調で魔王はプンスコしているが、あのタイミングで飛んできた魔法弾を躱した事に俺はただ絶望を深めるだけだった。
「うふふふ。申し訳ありません。少し注意するだけのつもりが、手が滑ってしまったようです」
「むぅ~。えっと、あんた、ミウって言うんだっけ?」
「はい。世界で最も素敵なお兄様の妹、ミューリア・ボルデンハインです。以後お見知り置きを」
「ただの人間があたしの魔力の中で動けるなんてねぇ。ニシシ。あんた達、姉妹揃って面白いねぇ~、ますます気に入っちゃったよ~」
青い顔をしながらもにこやかに微笑むミウを見た魔王は、猫の口を吊り上げ、にたりと笑った。
「じゃあ、まずはミウっち、あんたからやってあげるね」
魔王はそう言うや否や、一瞬で移動すると、ミウの腹部に爪を伸ばした左腕を突き刺していた。
「ミウ!!!」
慌てて立ち上がろうとするが、腕すらも失った俺の体ではどうする事も出来なかった。
「ガ……ッハ……」
「ニッシシシ。ど~お? くるしー?」
「なん…ですか……これは?」
「ニシシシ。まぁ、もうすぐわかるよ~?」
「やめろぉぉ! おい! 魔王! ミウは関係ぇねぇ! やるなら俺だけにしろ!」
ミウの腹に深々と突き刺さった魔王の腕が、そのまま串刺しの様にミウの身体を持ち上げる。
そうしてミウの苦しむ声が弱まっていった頃、ミウの身体に異変が起こった。
「なっ!?」
ミウの腹に空いた大きな穴、そしてミウの口や鼻からも血のような赤い液体が垂れ始め、そしてそれが次第にミウの足元に真っ赤な水たまりを作っていく。
「こ……れ…は……」
ミウは血の様な涙を流しながら、どこか虚空を見つめ、そんな事を呟いた。
次の瞬間、ミウの全身が崩れる様に融け落ち、服だけを残して魔王の脚元に大きな赤い水しぶきを上げた。
「み、ミウ? ……ぇ……ミウ!? ミウーっ!!」
それは考えうる最低の悪夢だった。
どういう原理なのか、ミウの身体は骨の一欠けらも残す事無く融け落ち、ただ静かに魔王の脚元に赤い水たまりが広がっている。
「ほへぇ、そう来たか~。これはこれは、レアモノが来そうな予感がするね~」
魔王はそんな悪夢の只中で相も変わらず軽い口調のままそんな言葉を垂れ流して水たまりの方に視線を向けていた。
「クソ、くそぉぉぉおお! 魔王! ぜってぇ、ぜってぇ許さねぇ!!」
「ニッシシシシ。死にそうなくせにほんっとーにあんたって頑張るよね。でも安心しなよ。ミウっちは別に死んじゃあいないよ?」
「なんだと!?」
死んでない?
視線を先ほどまでミウが居た場所に向けるが、やはりどこを見てもミウの姿は見当たらない。
いったいどういう意味だ?
俺が藁をも掴む思いで魔王の言葉の意味を探っていた時、不思議な事が起こった。
「え?」
ミウが融け落ちたその場所。
赤い水たまりがあるだけの場所で、その水がボコリと泡立ち始めた。
「な、なんだ?」
「始まったみたいだねぇ」
泡立つ赤い液体がまるでCGの様に集まり、やがてその表面を隆起させていく。
瞬く間に立ち上がった赤い液体の塊は透き通った赤い柱の様になり、やがてその姿を人型へと変化させていった。
俺はその不思議な光景に言葉も、息をする事すらも忘れて見入っていたが、やがてその変化が細部にまで及んでいくと、流石に言葉を抑えられなかった。
「ミウ!?」
先ほどまではただの赤い液体だったそれは、その透明な色と液体の質感はそのままに、形がミウそっくりに変化していたのだ。
それはまるで赤い宝石で出来たミウの彫刻の様にも見える。
しかし、髪の毛の1本1本や、睫毛などの繊細過ぎる部分までが完全に再現されたそれは、とても人の手で作れる様な物ではない。
そして、まるで生きているかの様な艶めかしさすら持ったそれは、やがて本当に動き出した。
「ミ……ウ……ミmmmmmm…ウ……テ、ケ……リリ……」
俺の呼びかけに気がついたのか、ミウの姿をしたそれは言葉を発し始めたが、何やらエラーを起こしたプレーヤーの様に不安定だ。
「これは……」
「ありゃりゃ。なんかおかしなことになってるのかな~?」
「……お、お、おかーし、なnnn……。リ、リ、これ、おかし……、ミウ、おかしい……」
赤く透き通った瞼がピクリと動き、紅玉の様な瞳が開くと、それはミウの声で混乱した様な言葉を喋り始めた。
「……ミウ? ミウ、なのか?」
俺が驚愕に震える喉から声を絞り出すと、それを聞いたミウの姿をした赤いスライムがこちらに反応して顔を向けた。
「ミウ……ミウは…ミウ。……っ! お兄様!」
人形の様に虚ろな表情をしていたそれは、やがて瞳に光を宿すとハッとしたような表情を浮かべ、途端に人間じみた動きでこちらに駆け寄ってきた。
それはいつものミウと何一つ変わらない仕草、声音。
しかしその姿はあまりにも変わり過ぎていて。
「お兄様! しっかりしてください。今、回復魔法を掛けますから――え?」
ミウの姿をしたそれは、そんな事を言って宝石のような透き通った両手を俺にかざした時、初めて自分の変化に気づいたのだろう。見開いたルビー色の瞳は驚愕に染まり、その不可思議な手を自分に向けてまじまじと見つめていた。
「これは……一体……」
視線を自分の体に向けたミウはその透き通る身体に驚き、自身の腹や胸、顔に触れて感覚を確かめている様だった。
しかし、一瞬の後、今すべき事を思い出したように、視線をこちらに向け、再び掌をこちらにかざすと、魔力を錬って魔法を唱えた。
「“再起の鐘よ来たれ”―回復―」
発せられた魔法が俺を包み、痛みが僅かに引いていく。
しかし、中級の回復魔法でも流石に失われた腕までは戻らない様だ。
「……ありがとな。ミウ」
「いいえ、まだです。“逆巻く因果、青い骨、黒い血、紡がれる糸、祝福の時を今一度”―回帰―」
ミウが長めの詠唱と共に複雑怪奇な術式を構築し始める。
同時にミウの腕を中心に魔法陣が3重に浮かび上がり、魔法が構築される。
その時だった。
「おっと、『ミウっち。そこですとーっぷ!』」
「なっ!?」
魔王がそんな事を言った途端、ミウの身体がビクリと反応し、途端に発動寸前だった魔法が霧散するように消えてしまった。
「うっひゃ~。危ない危ない。まさかミウっちがそこまで上位の回復魔法を使えるとは思ってなかったよ~」
「嘘、魔法が!?」
魔王の一言で突然魔法が掻き消えた事に流石のミウも慌てた様子だった。
「魔王? お前、いったい何をした!?」
「べっつに~? あたしは王様だよ? 配下が王様の命令を守るのは当たり前の事じゃんか~」
なんだと?
それはつまり、魔王がミウを操って魔法を止めさせたって事か!?
いや、それよりミウが配下っていったい!?
「――っ!」
俺が魔王の言葉に驚いていると、突然ミウは俺から飛びのくと、傍に落ちていた魔導砲を構えて魔王にその砲門を向けていた。
しかし、
「『ミウっち、やめてよね~』。王様にそんな物騒な物向けないでよ~」
「くっ!?」
魔王がそう溢した瞬間、またしてもミウの身体がミウの意志に反して動いた様に、構えていた魔導砲を降ろしていた。
「ニシシシシ。無駄だよ~? もうミウっちはぜーったいあたしに逆らえないんだかんね~。例えばほら、こんな命令なんてど~? 『ゆーしゃをあたしに差し出してくれる?』」
それは異様な光景だった。
「っ!? いやっ! 嫌です! ミウはそんな事、したくな――……」
魔王が命令すると、ミウはその命令に拒否するような言葉を吐いていたが、次第に人形の様に表情を失っていく。
「……はい。お母様」
そして虚ろな瞳で魔王に微笑みを浮かべた。
「お、おいミウ?」
「……」
俺が驚いて呼びかけるが、ミウは何の反応も示さず、ただ虚ろな表情のまま俺の頭上に移動すると、いつもやっている様に俺の体を抱きかかえ、そのまま魔王の前に歩き出していた。
「……どうぞ、お母様」
そう言って俺を抱きかかえたミウが魔王の前で立ち止まった。
「ニッシシシシ。ありがとね、ミウっち」
「お、おい魔王! お前ミウに何をした!?」
「まぁまぁ、そんなに怒んないでよ。あんたも直に分かるよ。ほら、いくよ~?」
魔王はゆるい声でそう言うと、先ほどミウにしていた様に、左腕を俺の胸に突き刺してきた。
テケ・リリ




