イルと背蛾のいちゃらぶデートその3
「病院・・・一番近い病院」
背蛾が車から降りてあたりを見回す。遠目に避難民の列、21の部隊が道路を埋め、街を嘗め尽くす火災がそのシルエットを浮き上がらせている。
「ない・・・か。」
背蛾は立ち尽くす。
咲反「イル君、イル君」
咲反が男泣きに泣きながらイルの名を呼ぶ。
イルは意識はある。わずかに顔を動かして意思表示はしている。
出血で体温が下がりつつあり、トランクにあったブランケットにくるまれているが、そのブランケットも血で真っ赤だ。
カンはハンドルを握ったままうなだれている。何か助ける方法がないか考えているのだろうか。
背蛾の眼に世界はよどんで見えた。すべてがスローモーで現実味がない。
咲反が隣にきた。「背蛾君、仮に病院に運べても、あの怪我では助かるまい。」
かぶりをふりつつ、しぼりだすようにつぶやいた。
「如月の医療技術で無理なら、日本の病院に連れて行くのはどうでしょうか。」
ふいに中村がしゃべった。
咲反「今はそういう話はよしてくれ、中村さん。」
背蛾も呆れ、なにも言う気が起きない。
中村が何か投げてよこした。反射的に背蛾が掴む。
中村「どうです、行きませんか日本に。」
背蛾が手を開くとペンがあった。ノック式のボールペン?
背蛾「なんだこれは。」
「シャープペンシルです。」
背蛾がペンのノックを押すと細長い芯が出てくる。
こんなペンは見たことがない。なるほど、これなら鉛筆の先が丸まっていくのを気にせず字が書けそうだ。
咲反も覗き込む。
「これが」咲反は中村に顔を向け、言った。「シャープペンシルかね。」
そのペンには何か文字が印刷されている。欧文字と如月文字、そして数字なのだが、微妙に違う。
「・・・エブラ?・・・5・・・読めない。何語なんだ、いったい。」
咲反はその文字に強い違和感を感じた。
背蛾「まて、わかった。中村さん、あんたは日本が実在すると言いたいんだな。」
中村は二人に背を向け、炎上する街を向いて話を続ける。
「如月の医療技術は日本に比べて、そうですね。30年は遅れてます。如月に住んでみた体感的な話なので正確に30年というわけではないのですが。」
咲反「要は如月よりも30年先を進む日本の医療技術ならイル君を救えるかもしれない、と。」
「私は如月に来るのは2回目なんです。
この道沿いに1kmほど進むと「きさらぎ駅」があります。
そこに時折来る電車に乗ると如月と日本を行き来できるのですよ。」
背蛾「いくらなんでも信じられるかよ・・・」
「別に信じる必要はありません。ただ、このままだとイルさんは確実に死にます。」
咲反「こうしよう。私とカン君は車で病院を探す。背蛾君はイル君を連れて中村君と日本に・・・」
咲反は言いつつ顔をしかめた。「バカバカしい、我ながら何を言っているのか。」
咲反の表情はそう言っていた。
「咲反院長、行きましょう。我々が病院を探し、背蛾には・・・イルを看取らせる。」
いつの間にかカンが車から降りてきていた。
カンは反論しようとする背蛾を圧するように言葉をぶつけた。
「背蛾君、こんな話は用水路以来だな。
イルはもう助からない。きっと。
だからせめて看取ってやってくれ。」
あたりを見回す。
地獄というのはこういう世界を言うのだろうか。
日は暮れ、暗夜にも関わらずあちこちが火災で、前に後ろにキノコ雲があり、遠くから唸り声が塊で聞こえてくる。
「思えば本当に可愛い部下だった。途中から逆転したが、とにかく可愛かった。」
カンが天を仰ぐ。涙を落とさないようにしているのは誰にもわかった。
「だから頼む。一緒にいてやってくれ。」
背蛾はだまりこくる。
「だが、最後まであきらめない。俺は院長と医者を探す。医者がいなくても何か手当てできるものを探してくる。」
咲反「集合場所は、きさらぎ駅だ。」
中村「行きますか。」
5人はきさらぎ駅に車で向かった。
「きさらぎ駅」
なぜ駿西のはずれに国名を平仮名で冠する駅があるのかについては諸説がある。
地名が「きさらぎ」であったらしいのだが、今はもうその地名は残っていない。駅名のみが今に残っているのだという。
全国に如月の名を含む地名は多いが、ひらがなでただ「きさらぎ」とだけあるのはここ「きさらぎ駅」だけである。
西口に広大な茶畑を望み、東口には細まった中級河川が流れている。
人もまばらでもちろん無人駅だ。
「よかったんですか背蛾さん。」
ホームのベンチに座った中村が問う。
「何がです。」
「信じたんですか。」
背蛾は答えない。
「私はあなたが思っているようにただの妄想持ちの精神異常者なのかもしれませんよ。」
「シャープペンシルを見せただろ。」
中村はすわったまま背を屈め、背蛾を横目で見る。
「もしかしたらあれは如月にこそないけれど、欧邦のどこかの小国のアイデア文具に過ぎないのかもしれませんよ。」
「何が言いたいんだ。」
「背蛾さん。あなたが私を信じたのか信じてないのかわからないけれど、とにかく私に賭けたのはまちがいない。」
「・・・俺が賭けに負けたら、わかっているだろうな。」
背蛾が凄む・・・が、その手に抱くイルの青白い顔が目に入って凄むのをやめた。
血まみれのブランケットにくるまったイルは虫の息だ。
イルが死んでしまったら、もうこんな精神異常者などどうでもよい。別にコイツの言うことを聞こうが聞くまいがイルの運命に大きな差はなかっただろう。
重体のイルをあんなガタピシ車に乗せて病院探しをすることも無理だ。
どのみちどこかに落ち着く必要があった。
イルが小さな小さな声で背蛾に何か言っている。
「しゃべるな、イル。」
「私が死んだら・・・」
「しゃべるな。」
「諸山の見える街に埋めて。わかるの、もう共和国には帰られない。
せめて紫太山みたいな諸山・・・のふもとが」
「しゃべらないでくれ!」
イルはもう泣く力もない。背蛾はイルの分も泣いた。
「いつになったら電車は来るんだよ!日本に早く連れて行け!」
「いいんですか。もし日本に行けば、もう戻ることはかなわない。
あなたはいいでしょう。確か如月には未練が無いとかなんとか。
イルさんも果たしてそうでしょうか。」
「生きてさえいればいい。いつか如月に戻ってやる。」
背蛾はイルに話しかけた。
「イル、お前の命を俺にあずけてくれ。」
こくり
イルは静かに頷いた。唇の色はうすい紫だ。
「中村さん、日本にも諸山はあるのか。」
「あります。名前は富士山と言います。
諸山のようにイルさんの言う紫太山に似ています。諸山との違いは山側の噴火口が少々小さいところくらいですね。富士山のその噴火口は宝永火口と呼ばれています。」
言外に日本で死んでも紫太山に似た山、富士山に埋葬は出来ると言っているのか。
「如月人は・・・というかこの世界の人たちは命の価値が軽い。」
中村がぼそっと言った。
「背蛾さん。そんなことあるかよ、と思ってるのでしょうが、私にはそう思えます。」
中村は大きなため息をつく。
「月が一つ多いだけで、どうしてこんなに違うんでしょうね。見た目はほとんど同じなんですが。」
核戦争をおっぱじめた自分の世界を背にする背蛾は何も言い返せない。
「背蛾さん、あなたはイルさんの人生を背負うんですね。」
「ああ!」
「後悔はありませんね。」
「あるわけがない。」
常夜灯しか点けていない電車がいつの間にか駅に近づいていた。無音だ。
「来ましたよ。」
電車がホームに止まった。驚くほど静かだ。
「そうそう、乗るのはあなた方だけです。
私は、この世界を見届けたい。もともと民俗学を研究していたものでして、如月は非常に興味深い。そして私はあなたが如月に未練が無いように、日本に未練がない。」
イルを抱きかかえた背蛾がゆっくりと立ち上がる。
「本当に・・・来やがった。」
「背蛾さん、さあ、どうします。」
背蛾がつばを飲み込む。
「乗りますか、乗りませんか。」
中村が電車の手動ドアを開けた。
背蛾はイルをぎゅっと抱きしめ、電車に歩み寄る・・・