50 始まりの始まり(2)
それは初めて人間もどきを殺した情景であった。
まだ幼かった俺は何人かの年上の同族に連れられて自分達が住む森から初めて出た。
今まで見たこともなかったあいつら人間もどきのことは周囲の大人からよく聞かされていた。…大昔に故郷を追い出した悪い奴らだと。
話を聞いても、その時の自分が抱いた心情はどうだったのだろうか? 人間もどきに対してそこまでの感情は沸いていなかったのかもしれない。その瞬間までは……
一番の年長者が先頭を歩き、森を出てから数日。一面の草原の中、一際目立つ大きな壁で覆われたその町を目にした。
ここ一帯が俺達が昔住んでいた故郷なのか。
自分達の技術では作れそうもないその建造物に驚いたのを覚えている。
しかし、自分が表した感情とは裏腹に、周りの皆のそれは対照的と言っていいものだった。
年長者は周囲を慎重に見渡しながら、拓けた見晴らしのいい草原の中でも地形の穹窿や岩場に自分達を誘導し、身を潜めながら徐々に町の外にある街道へと近づいていった。
物陰に身を潜めながら何時間か経った頃だ。街道をこちらに向かってくる馬の足音が聞こえてきた。
見えたのは町に向かってくる馬車の隊商であった。
―――やるぞ。一番の年長者がみんなに合図を送った。
周囲の空気がピリピリとしてきたのが伝わった。人間もどきに対する憎しみの感情を露わにする姿。その様子を見ても、自分にはそれほどの感情を相手に表すことはなかった……その瞬間までは。
自分の視界にも馬車を捉える距離になり、馬車の御者―――初めて人間もどきを見た瞬間である。俺達とほとんど変わらない外見、自分達同族を目視するのとなにも変わらないはず…しかし、ぞわぞわと周囲からなにかが心の中に入っていくようだった。自分の心が何者かに支配されるように、それまで何の感情も抱かなかった心が段々と変わっていくのを感じた。
徐々に、自分の視界に入っている人間もどきが無性に癇に障るようになり…その感情は急激に、溢れる様に憎しみへと変貌した。自分でもこの激情は抑えきれず、俺は他の同族を押しのけて物陰から飛び出し、隊商へと突っ込んでいた。―――それからはもう、自分の意思とは言えないような、感情の暴走するままの行動だった。
◇ ◇ ◇
そのウェアウルフの幼い子供は一番先頭を走る馬車に正面から飛び込み、御者の首を噛み千切った。
そのまま馬車の中に突っ込み、中で慌てふためく者達を一人残らず鋭い爪で切り裂いていった。
先頭を走る馬はその衝撃で走るのを停止してしまい、後列を走る馬達は互いに衝突し合い、総崩れとなった。
物陰に隠れていた他のウェアウルフも続々と飛び出して隊商を襲いだしていた。
馬車に乗っていた一般人は崩れた馬車から這い出て町の壁に向かって逃げ出した。しかし多くはウェアウルフに追い付かれ、殺された。
商隊には武装した兵士も随行しており、ウェアウルフ達と激しい戦闘が始まっていた。
しかし、ウェアウルフの膂力に押し負け、苦戦する者が大半であった。
多くの人間がウェアウルフに殺されていく。ウェアウルフ達はその殺戮を止めようのない感情のまま続けていった。―――このままこの隊商が全滅になるかと思いきや、ウェアウルフ達にとって運が悪いことにレナトスの町側からの警備隊の増援が思いのほか早く来てしまった。
警備隊の長物の槍であったり、弓矢による攻撃により、段々とウェアウルフの集団は劣勢になっていった。潮時と判断したウェアウルフの年長者は合図を送り、他のウェアウルフ達に撤退を促していった。
ウェアウルフの大半が感情を押し殺し、森の方に逃げていった。―――最初に飛び出していった幼いウェアウルフを除いては。
その幼いウェアウルフは撤退の合図など耳にも入っていなかった。彼には目の前の人間の家族を手に掛けようとすることしか頭になかった。
彼の目の前にいるのは3人で若い夫婦と子供で、子供は彼と同じくらいの年齢の少女であった。3人は逃げ回り、少女は走り疲れ地面に座り込んでしまっていた。父親は目の前に歩いてくる幼くも返り血を浴びて真っ赤に染まった幼いウェアウルフに立ちはだかり、母親は子供を守ろうと子供に覆いかぶさっていた。3人とも首にお揃いの月の形をしたペンダントを着けていた。
幼いウェアウルフは3人のその様子に全く動じずに向かって行く。父親は意を決し、目の前のウェアウルフを押し倒そうと飛び掛かるが幼いウェアウルフはそれを躱し、それと同時に振るわれた爪で父親の首を切り裂いた。父親はそのまま地面に倒れこみ息絶えた。
その様子を見た少女の声にもならない悲鳴が響く中、幼いウェアウルフはそのまま母親の方にもおそいかかり、少女を庇う様に抱いていたその背中を無残に切り裂いていった。
母親は絶命するまでその少女を庇っていた。そして泣き叫ぶ少女になんの悲哀も感じないまま幼いウェアウルフはその狂爪を振りかざす。―――しかしその爪は少女には届かなかった。幼いウェアウルフの肩には数発の矢が刺さっていた。間一髪駆けつけた警備隊の弓矢が当たったのだった。
幼いウェアウルフは初めての激痛に悶えながら倒れこんだ。やがて幼いウェアウルフは警備隊で囲まれていた。
肩の痛みに悶えながらも警備隊を怒りをむき出しにしながらも威嚇する。しかし、多勢に無勢。警備隊の槍が幼いウェアウルフに突き出される時であった。巨大な岩が突然転がってくるような衝撃がウェアウルフを囲っていた警備隊に降り注がれた。―――それは当時ウェアウルフの頭領であったアルバの怪力によるものだった。
それにより警備隊は吹き飛ばされ、幼いウェアウルフは間一髪助かった。
「……とう…さん…」
「よう。息子よ。親父様が助けに来てやったぞ。俺に似て血の気が多いのはいいが、周りが見えてねぇのはまだまだ若いな。」
そう言葉を交わすとアルバは意識を失ったクロアをその巨大な肩乗せた。アルバは目の前で生き残った少女をさっと見た後、森へと帰っていった。
周囲に残ったのは両親を失った少女の叫び声だけであった。
◇ ◇ ◇
「夢か…」
レナトスの町の外壁の近郊の森の中、クロアは浅い眠りから覚めた。
普段ほとんど睡眠を必要としないウェアウルフだったが、珍しくクロアは睡眠を取っていた。ここはレナトスの町の住人が偶に材木を入手する目的で出入りをする森で、クロアは一仕事を終えた後であった。
思えば、あれが最初に人間もどきを手に掛けた時だったか…
クロアは自分の手を見て、過去の実感を思い出す。
目を瞑り、あの夫婦を殺した後、当時のクロアと同じくらいの年の少女の叫び声が頭に響く。
―――この間までは、何も感じなかったのにな。
目を開き、腰に下げてある小太刀、《勿忘草》を抜く。その刀身はまるで鏡の様な艶でクロア自身を映し出していた。
今までの俺が正気だったのか、それとも今の俺が正気なのか。この刀を父上から譲り受けた時から明らかに俺は何か変わった…自分の心を覆っていたモヤモヤが晴れたような。物事を冷静に見えるようになったような。
『・・・いいか、どんな時でも必ず手放すなよ』
父上はなぜこの刀を俺に…。
勿忘草を鞘にしまい、周囲を見渡していると、周りの草木を掻き分ける音がした。
その大柄な体が木をパキパキと折りながら、アルバがクロアの前に姿を現した。
「よう、久しぶりだな、クロアよ。ずいぶんと頭領として活躍しているみたいじゃねぇか」
「……父上」




